アクターネットワーク理論を意味分節理論で読む 〜記述の可能性を発生させる非同非異の媒介子
ここ数年、井筒俊彦氏の著作を日常的に読んでいるためか、近頃ではなんでも意味分節理論として読める。アクターネットワーク理論もまた意味分節理論として読める。
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「として読む」などというと、なにやら曲解、誤解、誤読、事実のねじ曲げ、捏造、偽造、詐欺などなど、要するにマナー違反やルール違反、犯罪スレスレのことをしているというふうに捉えられることがある。確かに、その通りの場合もあるし、そうでもない場合も稀にある。
として読む ー正しい読みと正しくない読み
「として読む」が妙な感じに思えるのは、ニ種類の”読む”を考えることができるためである。即ち、正しい読み、と、正しくない読み、である。正しい読みと、正しくない読みの対立は、他のさまざまな二項・二極の対立を呼びあつめ、重なり合ってゆく。
正しい読み / 正しくない読み
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著者の意図に沿った読み / 著者の意図から外れた読み
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著者による意味づけ / 著者以外による勝手な意味づけ
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・・・ / ・・・
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ほめられる / 非難される
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よい / わるい
このように、二分され両極に分かれたペアが重なり合う。ここで、どのペアとどのペアが重なり合うかはどうにでもなるが、どうにでもなるにも関わらず、どうにでもならないということにすることで、物事の切り分け、区別、差別ががっちりと固められていく。
「XはAだからダメ」
「非Xは非AだからOK」
私たちの日常にはこういう言葉づかいが溢れている。こういう言葉づかいから、Xということの”意味”がAであるとか非Aではないとかいう形で示されていく。
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「として読む」は、著者が想定していない読まれ方かもしれないし、そういう読まれ方をすることを著者は心外に思うかもしれない。著者以外による勝手な意味づけと、著者による意味づけは、対立する。これに限らず、あるAと非Aが二分されて対立すること自体は”よい”ことでも”わるい”ことでもない。
困ったことが起きるのは、この対立が「良い」と「悪い」の対立に特定の向きでぴったり重なり動かなくなる場合であり、「良い」と「悪い」の対立が、「増進すべきこと」と「消滅すべきこと」の対立にこれまた特定の向きでぴったり重なり動かなくなる場合である。
動くことと動かなくなること/深層と表層
何かと何かを、互いに他方と異なり、決して混じり合うことのないものとしてはっきり分けて、さらにその”分け”を固定したものとみなし、そこに他の二項対立を重ねては、重ねる向きが逆にならないようにしっかりと固定することから、私たちの表層の言語意識における意味の安定した体系が出来上がる。これはあくまでも「表層」の意味の体系の話である。
ところで、表層の向こうには、それと対立する「深層」が控えている。では深層における意味とは、どういう姿をしているのだろうか。井筒俊彦氏はあるところで次のように書いている。
これに続けて井筒氏は次のように宣言する。
キー・タームつまりあれこれの語によって、私たちは”周りを取り囲む世界を概念化する”時、タームたち、語たちは、それぞれ孤立してバラバラに転がっているのではなく、互いに結びつき、Web状の関係構造を成そうとする。
この場合の相互依存、”互いに結びつく”ということは、付かず離れず・付いているのでもなく=離れているのでもない、という曖昧で中間的な関係であると言い換えられる。
"互いに結びついて"いるのは、所与の自性をもって存在する第一の●と、同じく所与の自性をもって存在する第二の●ではない。”互いに結びつく”は、もともと個別に存在する二つ以上のものを後からくっつけましょうという話ではない。
”互いに結びつく”は、付いているのでもなく離れているのでもない、どちらでもあってどちらでもない「結びつき」である。互いに結びつく一方と他方の両項は、互いに相手方と異なりながらも同じであり、同じでありながら異なるというあり方で、区別されないながらも区別され、区別されながらも区別されない、という動的な、区別すること=区別しないことの動きの過程にある。この過程は絶対に止まることがない。
この止まることのない動きから”意味が出来(しゅったい)する”。意味は固まって「ある」ものではなく、出来する、出来しつつある事柄である。
動いたり動かなかったり ー動くでもなく動かないでもなく
意味は「ある」モノではなく出来するコトである。しかし、しばしば意味は、”固まった二項対立の固まったペア”というモノの姿をしている。このモノの姿が「表層」であるとするならば、対立関係の対立関係を「深層」へと引っ張り込み、固着を解し、至る所で付かず離れずに付いたり離れたりする動きを駆動させ、そしてそこからまた新たな表層を固めることもできる。
このあたりが井筒俊彦氏の意味分節理論の面白いところである。
ある語と語が、異なるものとして区別されないながらも区別され、区別されながらも区別されないダイナミックな過程が止まることなく動き続けている。これはつまり区別の仕方と、区別”しない”仕方を変容させることができるということである。旧来のWeb状の構造を”ひっくり返し”、旧来とは異なるWeb状の構造を”再配置”することができる。
いずれの語も、他のあれこれの語と”異なる”とされたり”同じ”とされたりしながらWeb状の構造を織り成していく。
そしてそのWeb状の構造の結び目同士の結びつきには疎/密の差がある。たびたび繰り返し結びつく(この場合の"結びつく"には鋭く対立するペアになるという含意と、異なるものとして区別されながらも同じと見なされるという含意のふたつがある)結びつきのパターンと、滅多に結びつかないパターンとの差がある。
反復されることによって度々姿を表す網目構造は安定した意味分節の体系として記述できる。”疎”の広大なWeb状の構造の中に、所々転々と、まるで宇宙の銀河のように、"密"に絡まり合った・もつれた部分が出来上がる。その銀河ひとつひとつが安定的な意味分節体系である。これが表層の安定的に固まった意味の体系である。
もちろん、このダイナミックなWeb構造の中でもつれて固まる結び目たちの意味分節体系の安定性と固定製は永遠に持続するものではなく、時と共にほつれ・ほぐれ、バラバラになる。表層の固まった意味は、深層の付かず離れずの振動の中へ解体していく。
そして深層からはまた、新たな、別の表層の安定した体系が発生してくる。
結びつきの疎密の差の大きさもまた変動する。
ある時期ある場所で強く結びついていたパターンが失われたり、ある時期までほとんどまったく観測されなかった結びつきが、ある人々の集団のなかで突如として発生したりする。
意味ということを、深層と表層という二つの層のあいだで、安定的な分節体系が発生したり解体したりする過程として捉える。それが井筒氏の意味分節理論である。
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アクターネットワーク理論は言葉を深層と表層の間に埋め込む
そういうわけで最初の話に戻ろう。「として読む」ことは、固まりがちな表層の意味分節体系をほぐし、新たな意味分節体系のもつれを固めはじめる小さなきっかけになる。
「として読む」は、あるひとつの反復的に固まった相貌を現す意味分節体系の内側から眺めれば、逸脱であり、脱落であり、脱線であり、美しい織物のパターンを乱す"ほつれ"である。
しかし、ひとたび個別の意味分節体系の内部から飛び出して、別の銀河に移住してから振り返ってみると、「として読む」は意味分節体系が生まれたり消えたりするダイナミックな動きの無数の小さな部分のひとつということになるだろう。
このプロセスをアクターネットワーク理論の用語に置き換えると、つまり「として読む」は、ある一連の言葉たちの配列を「中間項」から「媒介子」へと変換することである、と言えそうである。
では、「中間項」から「媒介子」とはなにか?
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さて、今回のお話はアクターネットワーク理論を意味分節理論として読む、ということである。2022年に『アクターネットワーク理論入門』という必読に値する本が出版された。
この一冊を読めば、アクターネットワーク理論(ANT)のキータームの意味するところを速やかに意味分節できるようになるし、それを活用した実際の研究の可能性を構想する手がかりにもなる。
例えば次のようなポイントを押さえることができる。
人間以外も、たとえば動物や、細菌のようなものや、道具やあれこれのもの、情報システムや、AIのようなものも、”一人前のアクター”として記述される。
人間ももちろん”アクター”として記述する。
そして人間以外もまた”アクター”として記述する。
人間も人間以外も、どちらも”アクター”であるということになる。
人間と人間以外がつながりつつ分かれ、分かれながらつながる
「いや、そうなると人間と人間以外の区別がなくなってしまうでないか!」
と、恐ろしくなってしまう方もいらっしゃるかもしれないが、恐ろしがる必要はない。区別はあくまでもすればよいのである。ポイントは、区別は「ある」モノでななく、「する」コトであるという話にある。表層の言語的意識にとっては「あるーもの」として固まっている区別も、深層の意識では「するーこと」の相で動き続けている。
人間と人間以外の区別も「あるーもの」ではなく「するーこと」である。考えてみれば、人間と人間以外とをどう区別”する”かというのは、難しい問題である。例えば、次のような具合の区別の仕方をしばしば見かける。
人間 / 人間以外
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言葉を喋る / 言葉を喋らない
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二足歩行 / 二足歩行ではない
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服を着る / 服を着ない
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宇宙にいける / 宇宙に行けない
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調理する / 調理しない
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社会を作る / 社会を作らない
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シンボルまで用いる / インデックスのみ。ごくまれにイコンまで。
これらはいずれも、人間と人間以外を区別したうえで、そこに他のいろいろな二項対立を重ねていく。そうして「人間とは言葉を喋るものだ」とか、「人間だけが宇宙にいける動物だ」とかいう具合に人間の定義(=人間とは○○であるという言い換え)ができるようになる。しかしこれらの二分法は、いずれも、よくよく考えてみるとそうはっきりと固まってあるものではないように思える。例えば、人間以外の動物でも、人間のそれとは違うが鳴き声なり表情なりを使って仲間とコミュニケーションするものが居り、人間の言葉もその延長であるという人もいる。また例えば、人間の社会よりも蟻や蜂の社会の方がはるかに整然として完成度が高いという人もいる。
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人間を、人間以外とあらかじめはっきり区別され、人間以外とは無関係のそれ自体としてあらかじめ存在して「あるーもの」として記述しようとする試みは、どこかで止まるということがない。人間と人間以外の区別を他の何かと何かの区別に重ね合わせて意味分節することは、それ以上先に置き換えなくてよい最終的な二項対立にぶつかって止まるということはない。無理にどこかで止めようとすればするほど、動いていく。
(置き換え先となる区別をどれか一つに決めて、それ以外に置き換えることを禁じたり、そもそも「ところで、人間とは?」と問うこと=記述しようとすること自体を禁じるという手はあるが、そうした禁止は必ずそこから逃れようとする知性を生み出す)
「実験的な記述の集積」を続けることを目指すアクターネットワーク理論は、「あるーもの」としての意味分節体系ではなく、「するーこと」としての意味分節の動きそのものを記述してみようという姿勢と親和性がありそうである。
記述するとは、意味分節するということである。そして意味分節とは、「あるーもの」とも見えるが、深層においてはあくまでも「するーこと」であり、それは項と項の分け方とつなぎ方が変化していく(を変化させていく)ダイナミックな過程なのであった。
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記述する言葉たちも、互いに結ばれつつ離れ、離れつつ結ぶ
アクターネットワーク理論に基づく記述とは、実験的で、仮設的なものである。これが非常に重要なポイントだと思う。
ことばでもって記述するとは、あくまでも実験的な営みである。アクターネットワーク理論に基づく記述行為自体がアクターネットワーク理論によって記述され直す。そうすることで「理論」は、あらかじめ設定された正解と不正解を機械的に分別するマシンになってしまうことなく、”実験”のための”一時的”な仮説であるという正体を見失わずに済むことになる。
アクターネットワーク理論は「二分法を前提としない、フラットな記述」を試みるものである(栗原亘 編著, 伊藤嘉高, 森下翔, 金信行, 小川湧司 著 『アクターネットワーク理論入門』p.4)。
記述することを、所与の”厳然たる事実”を断定する活動としてではなく、意味分節体系を仮設しては組み直し続ける活動として記述する。
”どの意味分節体系を一つだけ選んでそれに固着するべきか”を巡って争い合うのではなく、意味分節体系が変容したり出現したり消えたりする様子を、これまたあるひとつの意味分節体系(アクターネットワーク理論のキーターム群からなるひとつの意味分節体系)へと置き換え・写像させることで、言語的に記述すること。これこそがアクターネットワーク理論のおもしろいところなのである。
なお、個人的には「どの意味分節体系に固着するべきか」を巡って争い合うのもまたそれはそれでスターウォーズ的に面白いとは思うが、ずっと昔の宇宙の彼方で起こっていることならまだしも、自分自身もそこに含まれる有限な地球の上で、異なる意味分節体系を生きる複数の人々の集団同士が互いに他方を破壊することなく、つかずはなれずに折り合いをつけながら変容していく宙ぶらりんの時間を生き続ける余白を開いておこうとするならば、アクターネットワーク理論的な記述の多数の可能性を開き続けるという知性の方が頼りになりそうである。
◇ ◇
両義的媒介項(媒介子)
ANTが”理論”を名乗りながら、その実験性、仮設性、非決定性、脱最終決定の力を保ち続けることができるのは、その理論がいわば”二項対立でもなく二項対立でなくもない”キータームのペアを記述システム=分節システムの中心に組み込んでいるからだろう。
例えば、まず「アクター」と「ネットワーク」のペアである。
アクターでもなくネットワークでもなく
『アクターネットワーク理論入門』によれば、アクターネットワークは「アクターのネットワークではなく、アクターとネットワークは等価の関係にある」であるという(栗原亘 編著, 伊藤嘉高, 森下翔, 金信行, 小川湧司 著 『アクターネットワーク理論入門』p.x)。
アクターというものがまずあって、それとは別にネットワークというものができて…という話ではないということである。
アクターがネットワークになるわけではなく、アクターのネットワークがあるわけでもなく、アクターとネットワークは「等価」である。
この一節は「まえがき」のすぐ後に置かれた「重要語句の道案内」というところに書かれているのであるが、井筒氏のタームを借りれば”事事無礙法界”と言い換えてみたくなる大変に奥深い話である。
アクターとはネットワークであり、ネットワークとはアクターである。
いや、アクターでもありネットワークでもある、というかアクターでもなくネットワークでもない何か、それがアクターネットワークである。
アクターとネットワークを別々のものとして区別しながらも(別々の語で呼ぶということは区別するということである)、しかし等価であるとする。
区別しながら同じとする、いや、区別されるでもなく区別されないでもないという記述をすることによって、「アクターとはなにか?」「ネットワークとは何か?」という問いを、何か別の二項対立関係のもとに固着させることなく、永久にアクターがネットワークであり、ネットワークがアクターである(でも互いに別々に区別される)と、宙ぶらりんのままに保ち、最終的な言い換え先に固定しようとするやり方から逃れさせる。つまりアクターネットワークという語自体が、二でありながら一、一でありながら二の両義的で媒介的で不一不二の媒介者=媒介子なのである。
◇
厳然たる事実でもなく、議論をよぶ事実でもなく
同じように「厳然たる事実」と「議論を呼ぶ事実」のペアがある。
このペアもまた、全く真逆に異なりながらも、あくまでも一つである。
厳然たる事実(として記述されること)こそ「議論を呼ぶ事実」である。
そして「議論を呼ぶ事実」が化けて「厳然たる事実」になる。この変換の過程がどのようなモノやコトバやあれこれのアクターによって媒介されているのかを記述するのである。
(二つの「事実」について下記の記事にも書いているので参考にどうぞ)
◇
人間でもなく、人間以外でもなく
そして「人間」と「人間以外」のペアもまた同じである。
人間も人間以外もともに「アクター」であるとき、両者は別々でありながら等価である。異なりながら同じ。非同非異である。
アクターであること。そのどちらでもあってどちらでもないことに媒介されて人間は人間でありながら人間以外でもあり、人間以外は人間以外でありながら人間でもあるという、相互に入り込んでいたり、区別ができない部分がある様になる。これを言葉からなる意味分節システムを用いて記述する。ここで記述に用いられる用語=意味分節システムは、両義的で媒介的な、対立する二極をひとつに重ねて圧縮したコトバによって動くものでなければならない。
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中間項でもなく媒介子でもなく
こうしたアクターネットワーク理論の用語ペアの中で特に面白いのは「中間項」と「媒介子」のペアである。
このペアはアクターを説明する際に登場する。
即ち、アクターとは「中間項」ではなく「媒介子」である、という。
媒介子というのは「故障した飛行機の部品のように、移送する意味やエージェンシーを変換(翻訳)してしまうものであり、単一の対象として扱うことはできない」ものである(栗原亘 編著, 伊藤嘉高, 森下翔, 金信行, 小川湧司 著 『アクターネットワーク理論入門』p.56)。
媒介子は、一と多を重ね合わせ、異と同を重ね合わせる。互いに相容れないものとして区別され対立させられるはずの二つの極が、媒介子によって異なったままひとつに結び合わされる。媒介子は「それぞれに分節化と翻訳を行い、諸々の存在をアクターとして連関させていく」ものである(栗原亘 編著, 伊藤嘉高, 森下翔, 金信行, 小川湧司 著 『アクターネットワーク理論入門』p.56)。媒介子に媒介されることであれこれの項はアクターになる。つまりネットワークになる。
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これに対して中間項は「外からやってきた意味や力(エージェンシー)を
歪めることなく移送するものであり、そこに投入されるもの(「原因」)がわかれば、そこから発せられるもの(「結果」)がわかる。言い換えれば、単体のブラックボックス」である(栗原亘 編著, 伊藤嘉高, 森下翔, 金信行, 小川湧司 著 『アクターネットワーク理論入門』p.55)。そこでは一は一のままで間違っても多になるようなことはなく、多もまた多のままで、一になることはない。
表層の言語意識の意味分節システムにおいては、私たちはどうしても、ものでも、言葉でも、あらゆるものをここでいう中間項として記述しがちである。そこではAは非Aではないことが当然のこととされる。
しかしアクターネットワーク理論では、この表層において中間項として記述されがちな項たちを、深層と表層のどちらでもあってどちらでもない曖昧さの中で、媒介子として記述し直す。そこでAはもちろんAでありながらしかしまたAではなく、そうかといって非Aでもない、という「媒介的」なことになる。
アクターネットワークは、中間項の連鎖ではなく、媒介子の連鎖である。そこではアクターとアクターは、それが何であるか=どの固定した二項対立のどちら側に置き換えられるかが「不確定」のまま、「つながりあって」おり、互いに互いを「はらんで」いる。
このつながり、はらみは、もともと別々のものを無理に接着したということではない。分かれつつありながら分かれ終われない、分かれつつある動きがゆらぎどこへ向かうのか決まらない、ということである。
このつながりを記述するのである。
「ANTは新たな媒介子をみいだすための方法」であるという一節を引用しておこう。
アクターネットワーク理論は「一にして多」である項が互いに他と異なりながらも同じもの=同じでありながら異なるものとして分節化されたりされなかったりするプロセスを、それ自体言語的に「仮」に記述してみようという試みである。この仮に記述することが「どこまでも分節化すること」と言い換えられる。
すなわち、「一にして多」という中間的で未決定な項の動きにフォーカスすることで、分節を固まったものとしてではなく予測不可能な分ける動きとして記述することを試みるのである。
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まとめ
こういうわけでアクターネットワーク理論は意味分節理論として読むことができる。
アクターネットワーク理論は、人間/非人間、厳然たる事実/議論を呼ぶ事実、媒介子/中間項といった二項対立関係を立てた上で、ペアになり対立する二項の境界を、一方であると同時に他方であるという中間状態に宙吊りにしてみることで、新たな記述の可能性を試す営みである。
二項対立関係の区切り方を変容させて、新たな記述を試みるとは、新たな意味分節の可能性を試すことである。この論理を、井筒俊彦氏の「事事無礙」的な意味分節理論に重ねて読むことができる。
ところで、両義的な媒介項というと井筒氏の「コノテーション」や「事事無礙」を思い出すと同時に、クロード・レヴィ=ストロース氏の神話論理に登場するトリックスターたちを思い出す。実はアクターネットワーク理論のなんとも不思議な媒介的でどちらでもあってどちらでもない「分ける動き」を記述しようとする論理は、アルジルダス・ジュリアン・グレマス氏の構造意味論に由来するという。
そしてグレマス氏の構造意味論は他でもない、レヴィ=ストロース氏の「構造」の考え方に影響を受けたものである。
レヴィ=ストロース氏の神話論理を意味分節理論として読む話は、下記の記事にいろいろと書いているので参考にどうぞ。
記述することは、Aを非Aとしても読む=記述することであり、分節化を試し続けることである。「として読む」ことは、読まれる語を、中間項ではなく媒介子にすることである。レヴィ=ストロース氏も、井筒俊彦氏も、そしてアクターネットワーク理論の提唱者の方々も、そのような「読み/書き」を行うことで、記述の可能性を、意味分節の可能性を実験しつづけてきたのである。
読書案内
アクターネットワーク理論について、ラトゥール氏の下記の文献が非常に読みごたえがあります。
レヴィ=ストロース氏の神話論理の世界にふれるなら、こちら『やきもち焼きの土器つくり』がおすすめです。
媒介子(媒介項)の不思議な世界に触れるなら、中沢新一氏の『アースダイバー神社編』もおすすめします。
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