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小学二年生の国語教科書を、深層意味論で読む


(本記事は無料で最後まで立ち読みできます)


小学二年生になる上の子の国語の教科書をながめていると、川崎洋氏の「てんとうむし」という詩が収められている。

いっぴきでも
てんとうむしだよ
ちいさくても
ぞうと おなじ いのちを
いっこ もっている
ぼくを みつけたら
こんにちはって いってね
そしたら ぼくも
てんとうむしの ことばで
こんにちはって いうから
きみには きこえないけれど

川崎洋「てんとう虫」

こちらの詩、深層意味論の意味分節モデルの観点からみて、とてもおもしろい

つまりこの詩から、意味の発生ということの根源に触れることができるように思われるのである。

選び抜かれた少数の言葉たちが、下記のような二項対立関係を織りなしている。

一 / 十(多)
小さい / 大きい
人間のことば / 人間ではない者の言葉
聞こえる / 聞こえない

意味の発生、「意味する」ということが動き始める時に、一体なにが起こっているのか。そういうことを考えるのが深層意味論の試みである。

深層意味論の意味分節モデルとは、意味するということが動き始める様子を、”二項対立関係の対立関係である四項関係を、別の二項対立関係の対立関係である第二の四項関係と、ずらして重ねて調停すること”としてモデル化しようとする。

かのクロード・レヴィ=ストロース氏が、神話という、経験的世界の意味分節体系の起源を語ろうとする思考を分析する際に用いた、野生の思考の神話論理のモデルもこれと同じである。

また遡ること1200年、かの弘法大師空海が「吽字義」に書いている二重の四項関係=八項関係もまた、人間の身体と精神と言語からなる経験的世界の分節システムの始点のようなことをモデル化したものだと読むこともできる。

どういうことか?

二項対立関係に注目して、よんでみよう。

「いっぴきでも てんとうむしだよ」

最初の対立は、一と多の対立である。

いっぴきでも、てん(ten)とう(十)

一匹というのは「一」である。
てん、tenというのは英語の10と同じ音を思い出す。
とう、も十ということであろうか。

ここは辞書を脇に置いて、音で感じたいところである。

いっぴき : 一
てん〜とう :十 (多)

一 / 多

* *

一と多の対立、一と多を区別できるということは、私たちが生きる経験的な世界を分節していく上で、最初のとっかかりのひとつであろう。

* * *

というは、言い換えると「分かれていないこと」「区別がないこと」とも言える。

は、言い換えると「複数にー分かれていること」つまり互いに分かれているあれこれのあいだに「区別があること」であるとも言える。

一と多の対立は、区別しないことと区別すること無区別と区別無分節と分節、といった”そもそも対立関係を組むことができること”を可能にする

一即多
一でも多だよ

と、ここでこの詩がとてもよいのは、「一」でも「てん」「とう」だよ、ということで、一即多・多即一の””の論理を動かしていることである。

一と多が分かれているという感覚的経験的事実のような区別から始めて、その区別が区切りだす両極をすかさずつなぐ。

つまり、「結局は、一だ」とも言わず、「結局は、多だ」とも言わず
一と多のどちらが”より本質的か”と問うて、一方だけを選ぶようなことをしない。一でも多、一だけれども多。

対立関係にある両極をひとつにしたり、二つに分けたり。
分離と結合のあいだを両極とする振幅が描かれている。

一か多か、どちらが世界の始まりか?!、どちらを選ぶか?!
といった二辺に分けて、どちらかに執着せんとするやり方ではない。
いちでもてんーとうだよ、と、「Xでも非Xだよ」と置き換える

この、あるものごとを経験的感覚的に真逆に対立するはずのものごとに言い換える、というのが詩のおもしろさである。

Xでも非Xだよ」というのはこの対立する両極を分けつつもひとつにする言い換えをとってもかろやかにやっている。

「ちいさくても ぞうと おなじ
  いのちを いっこ もっている」

次に、大/小の二項対立に気づく

感覚的経験的にとっても小さなてんとう虫と、感覚的経験的にとても大きな像。この両者が「同じ」であるという。

「小さいもの」と、「大きいもの」が「いのち」を介して「同じ」。

小 =/= 大

ここでもまた大小の区別という経験的感覚的に真逆に対立するはずのものごとを「同じ」で繋いで、相互に言い換えることができるようにする。

冒頭の「一でも十だよ」の「Xでも非Xだよ」の論理が対立する両極の一方から他方へのある一方向での転換の可能性を開いたとすると、象とてんとう虫が「同じ」という、ここでは、いわばあちらからこちらこちらからあちらへ、双方向での展開の可能性が開かれているともいえるだろうか。

非同非異

ここで同じといっても、ゾウとてんとう虫の区別がつかなくなっているわけではない。ゾウはあくまでも大きく、てんとう虫はあくまでも小さい。
重さや長さで測れることしての大/小が区別されている上で、それでも「いのち」という尺度の上では「同じ」という。

もともと「同じ」ものが「同じ」、ではなく、異なるものが、同じ。

ここに大/小の対立と、もうひとつ異/同の対立もうかびあがってくる。

異/同の対立である。

哲学風に差異と同一性といいかえてもいい。

* *

同じであるとか、異なっているとか、いうことができるのは、差異と同一性とが区別できるようになっているからである。

大/小の二項関係の対立軸上において、象とてんとう虫は異なっている。
しかし、「いのち」の有/無という対立軸上では「同じ」である。

てんとう虫と象、異なっていると見れば異なっているし、同じとみれば同じである。

同じなのか、違うのか、どっちだ?!
という、二辺に分けて、どちらかに執着せんとするやり方ではない。
異なるが同じ。非同非異。


「ぼくをみつけたら こんにちはっていってね

 そしたら ぼくも てんとうむしの ことばで

  こんにちは っていうから

   きみには きこえないけれど」


次に、言語的コミュニケーションの軸上での二項対立に注目してみよう。

まず、てんとう虫が「ぼく」と主語を立てて、これを読む人間の子供たちに語りかける

てんとう虫:「こんにちはっていってね」 >> 人間

人間と小さな虫、全く異なる別々のもののあいだで言語的コミュニケーションが実践される小さな虫の方から、言語によるコミュニケーションを実践するよう呼びかける。

そして私たち人間は、この詩の言葉で、てんとう虫からのメッセージを読むことができる。

これを「作者の方が書いているのであって、てんとう虫が喋っているわけではない」などと言ってしまってはいけない。経験的感覚的には喋ることがないてんとう虫に喋らせることができるのが、人間の言葉であり、特にその象徴の力なのである。この辺りのことを詳しく考えてみたいという方には、井筒俊彦氏の『言語と呪術』という本がおすすめである。


もし、このてんとう虫からの呼びかけに応じて、人間の子どもたちが、「こんにちは」と、声をかけたなら、てんとう虫のほうもまた「こんにちは」と応じるという。

* *

ただし、その、てんとう虫からの応答の声は人間の耳には聞こえない。
それは「てんとう虫のことば」であって、人間の耳に聞こえる言葉ではない。

我が家の二年生は、この詩を読んだ後、うちの窓にとまっているてんとう虫をみつけては「こんにちは」と言ってみている。

当然、そのてんとう虫が「こんにちは」と声を発するのを聞くことはできない。歩き回ったり、じっと止まったりして、またどこかへ飛んでいく。

しかし、ここで、この小さなてんとう虫は、人間には聞こえない言葉で「こんにちは」と言っている。聞こえないのだから、実際に言っているか言っていないか、録音して調べるような真似はできない。けれども、人間には聞こえない言葉で「こんにちは」というよ、というこの詩の言葉を覚えている限り、目の前の小さなてんとう虫は、実際に、こんにちは、と言っているのである。

* * *

異なる言語

耳で聞くことができない声

未知の言語で、しかも沈黙しているのと区別がつかないとなれば、コミュニケーションのとりようがないではないか!」などと思うのは出来合いのコードを再生産するための信号伝達装置へと変身させられた者たちの宿業とでも言えようか。

ここで、以下の二項対立の両極の間が、みごとに分離されつつ結合され、結合されつつ分離され、どちらか一方に留まってしまわない、どちらか不可得な振動状態に入る。

通じる / 通じない

コミュニケーションできる / コミュニケーションできない

この二極の対立のあいだで、通じるけれども通じない、通じないけれども通じる、といった関係になっている。

てんとう虫が人間の言葉で語りかける

通じるけれども通じない、という中間的なおもしろさを作り出すのは、まさにこの詩がてんとう虫からの呼びかけ、てんとう虫が人間に向かって語りかけている、というように書かれているからである。

この詩では、てんとう虫が、人間に語りかけている

「・・いや、これは詩人の方が書いているのであって、てんとう虫が言っているわけではない」などと無粋なことを言ってはいけない
てんとう虫が人間の言葉で語ることができるのが、詩的言語の世界である。

たしかに、経験的には、てんとう虫の口から声が聞こえてる様を感覚することは、人間にはできない。

しかしそれはあくまでも経験的で感覚的な世界での話である。

詩的言語というか野生の思考の神話論理は、人類がこの経験的で感覚的な世界を超え出ることを可能にする。

両義的媒介モード

経験的で感覚的なモードでは、人間にとっての意味の世界では、大きいものは大きくて、小さくはならないし、喋らない動物は喋ることはない
つまり対立関係にある二極の「どちらか」に振り分けられたものがもう一方へと自由に変身することはできず同時にこちらとあちらの両方であったりすることもできない

* *

しかし、神話論理モードでは、対立関係にある二極のどちらでもあってどちらでもない、ということが言えるようになる。

  • ジャガーが弓矢をもって狩猟したり人間の言葉を喋る。

  • 人間が火を使うことを知らず、鶏のように地面の土を啄む。

  • 上半身と下半身が分離して、上半身だけが別人にくっつく。

こういうことが神話ではよくある。

どれも経験的、感覚的には「ありえない」ことであるが、あえてこの”ありえないこと、”経験的に結合しているところを分離して、経験的に分離しているところを結合する”というようなことを言語でもって語るのが神話であり、その論理なのである。こうすることで神話は、どれほど直感的な二項対立であれ、それはあくまでも人間の”心”(心身の分節以前の、仏教でいうところの”心”あるいは”識”)がそのように分けたからこそ、別々に分かれて経験されるのだ、ということを教えようとする。

ここで例えば経験的で感覚的なジャガーは”ジャガーでもあるし人間(非-ジャガー)でもある”という姿になる。この経験的なあちらでもありこちらでもある、という姿になったジャガーは両義的媒介項と呼ばれる。

詩は神話ではない、というのはたしかにその通りなのだが、どちらも言語の両義的媒介的モードを使っている。ある何事かを、それではない別の何かに置き換えて表現する「象徴」こそ、言語の両義的媒介的モードを用いている。

* * *

てんとう虫の-ことば

第一の二項対立:てんとう虫 / 人間
          ||     ||
第二の二項対立:言葉を喋らない / 言葉を喋る

これが経験的な二項対立関係の組み合わせである。

ここで、第一の二項対立を両義的媒介モードに切り替える。

つまり”てんとう虫でもあり人間でもあり”ということにする。
そんなことがあるのか、と思われるかもしれないが、思い出して欲しい。
この詩、まさにひとりの作者の方が人間の言葉で、みずからてんとう虫になって、てんとう虫として、呼びかけている

こうすることで、てんとう虫は人間を経由して「言葉を喋る」と置き換えられる(つながる)ようになる。

こうして、てんとう虫が「ぼくをみつけたら こんにちはっていってね。そしたら ぼくも てんとうむしの ことばでこんにちは っていうから。きみには きこえないけれど。」と言う

そしてその言葉を私たちは、まさにいまこの詩で、人間の言葉で、聞いたり読んだりすることができる

きみにはきこえないけれど

この詩、特におもしろいのが最後の一行である。

てんとう虫はとてもおもしろいことを言う。

もし野山や街で出会ったてんとう虫に、人間が「こんにちは」と声をかけるなら、てんとう虫の方からも、声をかけてくれた人間に対して「こんにちは」と応えるという。ただしそれは「てんとう虫の言葉で」である。
そしてそれは、人間には「きこえない」のである。

いま詩の言葉において、”てんとう虫でもあり人間でもあり”という両義的で対立二極の媒介的な状況に入っていたてんとう虫が、巷の野山や街中の経験的で感覚的な姿においては、「てんとう虫の言葉」を喋るものに戻る。
「人間の言葉」ではなく「てんとう虫の言葉」である。

ここでてんとう虫と人間との間が、あらためて、経験的なあり方と同じように、分かれ始める。

街中で、野山で、てんとう虫の言葉は、人間には聞こえない。

こうして、てんとう虫と人間は別々に分かれ、経験的で感覚的な人間「と」てんとう虫とに、それぞれに分離する。

この「きこえないけれど」で、この詩も閉じられる。

詩の言葉が閉じるとともに、てんとう虫と人間が別々であるという経験的で感覚的な世界に我々は引き戻される

* * *

けれども!!

分離されたとはいえ、この詩の言葉を覚えている限り私たちは両義的媒介的に励起された者たちの世界を思い出すことができる

人間には聞こえない、てんとう虫のことばによる「こんにちは」は、たしかに耳に音としては聞こえないけれど、しかし、この詩の言葉を知った者には通じる。

「こんにちは」とてんとう虫に呼びかけてみる。

てんとう虫からは何の声も聞こえてこない。

しかし、まさにその瞬間、てんとう虫はてんとう虫の言葉で「こんにちは」と言っているのである。

通じないけれども通じるコミュニケーションできないけれどできる。

こうしてこの詩を知ることで、私たちの経験的世界はほんの少し、豊かなつながりを増やしたことになる。

まとめ

以上、二項対立関係を整理してみよう。
この詩では、以下のような具合に二項対立が重なり合っているといえそうである。

まず
1) 一 / 多
2) 異 / 同

という二つの経験的で感覚的な二項対立関係がある。

次にこの四項から半分ずれた位置に、
a) 一即多・多即一  =/=  非同非異
b) 通じるけれども通じない =/= 通じないけれども通じる

という、二つの対立する両極のどちらでもあってどちらでもない(どちらか不可得)な両義的な関係がある。

この1)、2)、a)、b)、四つの二項対立関係が上の図のように組み合わさり分けたり分けなかったり、繋いだり繋がなかったりを自在にできる論理ゲートのようなものが構築されている。

この分けたり分けなかったりを自在にできる論理のおかげで、経験的には小さくて言葉を喋らないてんとう虫と、大きくて言葉を喋る人間、という大きく異なるように感じられる二者が、分かれつつもつながることができるようになる。そしてもちろん、区別がつかなくなってしまうことなく、また分かれることもできるようになる。

ここに、小さな虫と人間がたがいに異なる「ことば」を用いながらも会話するという、アニミズム的な関係とでもいえそうな世界が広がることになる。

アニミズム的な感覚と叡智は、今日のように人間が強大なエネルギーを操るようになった時代においてこそ必要なものである。

言葉が通じないけれども通じる。

「言葉が通じない」ということは、人間と動物のあいだ、人間と小さな虫のあいだに限らず、ことによると人間同士のあいだでもありうる。というか、よくある。日本語とか、英語とか、同じラングで語り聞いているのに「話が通じない」という経験。

そういうときに「困るなあ」などと思いつつ、ふと、両義的媒介的に励起された”それであってそれでない”、”どちらでもあってどちらでもない”言葉のあり方を思い出してみてはどうだろうか。

即ち、ある一つの言葉を見聞きしたときに、その向こうに、下図のような(仮に二次元平面に写像した場合)振動状態をイメージするのである。

人間でも、てんとう虫でも、”それ自体”として他と区別されてあるように経験され感覚されるあれこれを、この振動の効果として感覚認知の機構が構成しているものとイメージしてみるのである。

そこで私たちが大昔の祖先たちから受け継いでいる「心」の底に、”野生の思考”の論理が動いていることに気づくこともできるのである。


この野生の思考の論理については、他にもいろいろ記事を投稿しているのでご参考にどうぞ。

この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の神話論理を”創造的に誤読”しながら次のようなことを考えている。

即ち、神話的思考(野生の思考)とは、図1に示すΔ1とΔ2の対立と、Δ3とΔ4の対立という二つの対立が”異なるが同じ”ものとして結合すると言うために、β1からβ4までの四つのβ項いずれかの二つのΔの間に、その二つの”どちらでもあってどちらでもない両義的な項”として析出する。そして、この四つのβと四つのΔを図1に描いた八葉の形を描くようにシンタグマ軸上に繋いでいく=言い換えていくことなのではないだろうか、と。

図1のΔ1とΔ2の対立というのは、感覚的な事柄でもよいし、より抽象的な事柄でもよい。感覚的な対立といえば、硬い/柔らかい、熱い/冷たい、といったことである。上/下、前/後、白/黒といった対立も感覚的である。

抽象的な対立というのは、内/外、ある/ない、そして分離/結合、分節/未(無)分節といったことである。

もちろん、感覚的な対立と抽象的な対立との区別は方弁であって、それほどはっきりと二分されているわけではない。内/外などというのも感覚によって支えられてはじめて区別できることである。

それでも内/外、ある/ない、分離/結合が抽象的であるというのは、これらの対立がまず基本的な分節システムを織り成した上に、その中に、あれこれの感覚的に区別された項たちが配置されていく、ということである。言い換えると、内/外、ある/ない、分離/結合の対立は、知らず知らずのうちに、無意識にと言っても良いかもしれないが、私たちがありとあらゆることを言語的に考えようとする場合に自動的に分節されてしまう。

経験的であれ、抽象的であれ。ありとあらゆる二項対立の”はじまり”を記述するための方法を開発しよう、というのが、レヴィ=ストロース氏の『神話論理』の試みである。

このレヴィ=ストロース氏の神話の論理は、弘法大師空海が曼荼羅でモデル化したことと同じような姿をしている。

経験的感覚的な二項対立をあらかじめ与えられたものとして始めるのではなく、二項対立の発生の瞬間に立ち会おうとする。

しかもその立ち会う為の方法は、言語として固まった後の二項対立を用いることによってである。

すでに出来上がった世界のから、世界のを観測しようとする。
内の中に外を建立する。いや、内と外を区別する脈動を再現する。

言語は、二項対立関係の関係の中で互いに他ではないものとして区切り出されている限りでその輪郭を束の間浮かび上がらせる「項」たちを、ばらばらにひとつひとつ拾い上げては一本の線上に、一列に、線形に、配列していく口の開き方、視線の走らせ方の技法である。

今、その言語の内から言語の外を眺めるためには、言語を言語発生の瞬間へ、言語の内/外のどちらでもあってどちらでもない状態へと、励起させる必要がある。

そして言葉を高振動状態に励起するのは、”両義的媒介項”が次から次へと置き換わり、変身していくような、詩的な声である。


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