aikoにおけるデカルト的主体から西田的主体への転向解釈のすすめ
とうとう深刻に意味がわからないタイトルになってしまった。。
私はaikoを好んで聴いている。好きな曲色々あって全然選べないけど、「夏にマフラー」「二時頃」などが特にいいです。
aikoの歌詞では、一人称は「私」ではなく「あたし」である。不特定多数の「私」に言葉が霧散してしまうのを、「あ」の一文字で食い止めつつ、逆に「あたし」が語り手になることによって、歌詞世界が「すべての『あたしの』私小説」になっている。
ところでaikoの歌詞における、「あたし」はどのような立場から位置