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自信を持つということ

年が変わった。
昨日と今日と何が違うの?という子供だったので、新しい年を迎えても何も変わらない。

何かが変わる時は自然に変わる。
押し出されるように、導かれるように。
本当に変わりたいと望むなら、きっと居ても立っても居られない状態になるはずだ。そんなことを思いながら半世紀以上が過ぎ、今年も静かに新年を迎えた。

新年を迎えるたびにきちんと目標を立てる人もいるのだろう。
それは、そうした方が生きやすいと思うからするのであって、どちらが良いというような問題でもないと思う。

したいようにすれば良い。
どれも個性だ。

正直に言えば自分を変えようとか、変わらなきゃとか、そんなこと積極的には考えていない。

理由は単に面倒くさいだけなのであるが、そこまで自分に対してダメ出しをしていないという事なのかもしれない。

もっと生き生きとした生活を求めて、
もっとポジティブに充実した人生を、
自信を持って前に出る、

そんな言葉に弱いのは自覚しつつ、
怠惰な脳みそは「そもそも自信ってなんなんだろう?」などと腑抜けた遊びを始めてしまう。

で、自信とは?

親や他人に評価されることが自信に繋がるというのであれば、そんなものはない。
何かが秀でて出来るわけでもないし、人に特別厚い好意を抱いてもらえるような人間でもない。

もっと言えば相手にだって私を嫌う権利があるわけで、残念ではあるけれどそれは相手の問題なのでそっと距離を置くだけだ。
友達も少ないし印象が薄いことも重々承知している。

けれど、それだけで自分自身の価値が下がるとは思っていない。

この自分の価値を自分で測り、まぁまぁじゃない?と思えることが私にとっての「自信」だ。
他人によって上がったり下がったりしないもの。自分は自分以上に大きくもなく小さくもない。

何かが出来るとか褒められるとか、そういうことで生まれるものではなく、自分の中に確固とあるもの。善悪やものの価値を見極める基準値。それが自分を測る定規になる。

それを強くするためには自分が何で出来ていて、何を好み、何を嫌い、どういう事に心が騒ぐのかを知ることが必要だ。

自分の事をとことん知って、自分の定規が出来てしまうと、困った事にその定規では他人を測れない事に気が付く。

自分にとっての価値は測れても、その価値は人それぞれ。持っている定規が違うのだから、人と価値が合わなくても仕方のない事だし傷付く必要もない。

自分に自信を持つと言うのは、拒否されても深く傷付かないでいられるという事ではないだろうか。

もっと言えば相応しい距離感で向き合えるということかもしれない。

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