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『ラスト・ストーリーズ』ウィリアム・トレヴァー (著),栩木伸明 (翻訳) 著者が2016年に88歳でなくなるまでの最後の10年間に書かれた10篇の短篇。それがいやもう全然老人ぽくない。ただただ完璧な作品たち。短篇なのにいつまでも終わらない(終わりたくないではない、終わらないのである)極上の読書体験でした。

ラスト・ストーリーズ 単行本 – 2020/8/9
ウィリアム・トレヴァー (著), 栩木伸明 (翻訳)

Amazon内容紹介

2016年に惜しくも逝去した名匠トレヴァー、最後の短篇集がついに登場。妻の死を受け入れられない男と未亡人暮らしを楽しもうとする女、それぞれの人生が交錯する「ミセス・クラスソープ」、一人の男を愛した幼馴染の女二人が再会する「カフェ・ダライアで」、ストーカー話が被害者と加害者の立場から巧みに描かれる「世間話」、記憶障害をもった絵画修復士が町をさまよい一人の娼婦と出会って生まれる奇跡「ジョットの天使たち」など、ストーリーテリングの妙味と人間観察の精細さが頂点に達した全10篇収録。

Amazon 内容紹介

本の帯 表

ウィリアム・トレヴァーは半世紀以上にわたって、多くの人々から英語圏最高の短篇小説家とみなされてきた。最後の短篇集として刊行された佳品十篇をおさめた本書において、トレヴァーは平凡なひとの人生に光を当て、魂の深さを測るために測鉛を下ろす。

本の帯 表

本の帯 裏から、僕の大好きなアイルランドの小説家ジョン・バンヴィルの言葉

〈偉大な短篇作家のひとりで、最高の作品はチェーホフに比肩する。〉

本の帯 裏

それに対し、本書解説の最後に引用されている、イギリスの小説家、ジュリアン・バーンズの言葉

〈ウィリアム・トレヴァーは《アイルランド版のチェーホフ》ではなく、《アイルランドが生んだチェーホフ》でさえもなかった。彼はかつても、これからも、アイルランドが生んだウィリアム・トレヴァーなのだ。〉

ここから僕の感想

 短篇の名手と言われる本はそれなりの数、読んできたと思うのだが、その中でも明らかに最高最上の一冊でした。うまいを超えた、各篇を読み終えた瞬間、茫然とするような、途方に暮れるような、そういう小説が十篇である。
 
 短篇というのは、才気に溢れた若い小説家が書くと、そこに込めた工夫とか構成のうまさとか最後の意外な落ちと驚きとか、そういう「してやったり」感というのがにじみ出てしまう。とはいえしかし、そういう企みか、ある人生凝縮したような一瞬を切り取らなければ、それは小説として成立しないのだから、そういう「うまさ」というのは、どうしたって短篇小説に求められるものと、それはジャンルの持つ特性としてどうしたってあるものと受け入れつつ楽しむものだと、普通は思うのである。

 ごく少数の、本当の短篇の名手と呼ばれる人だけが、そういう短編というジャンルの枠の限界を超えた何かを生み出すことができる。が、そういう短篇集とはなかなか巡り合えないものである。

 翻訳者、栩木伸明氏の解説によると、この本の十篇というのは、作者が88歳で2016年に亡くなる直前まで、その最後の10年間に書き溜め、しかも、こういう形で本にするつもりでほぼ完成されていたのを、死後に息子が発見したのだそうだ。つまり、78歳から88歳という高齢で書かれたものらしいのだが。

 しかし、登場人物に老人はほぼいない。主人公、登場人物は10代から60代くらいまでの満遍ない年齢分布である。男女比も同じくらい。未婚既婚子供有り無しも満遍なく。舞台となるのも、アイルランドとイギリスの、都会と田舎と、これまた偏りがない。職業や社会階層もさまざまである。そしてどの一篇を読んでも、「老人が書いた」ぽいかんじというのが、全くないのである。生き生きとして、そうでしかありえないような、もう非の打ち所のない素晴らしさ。

 つまり、なんというか、このウィリアム・トレヴァーという人は、78歳から88歳という人生最後の10年間においても、短篇小説の達人としての技はますます完成の、完璧の域に達していて、あらゆるタイプの人生に現れるなんとも微妙な出来事、そこにおける人間の感情、行動、それが織りなすもうそうでしかありえないような何かを、完璧な短篇小説として描き出すことができる人だったのである。

 私の駄文を連ねるより、栩木氏の名解説を引用した方がいいな。

 トレヴァーの作品にむらがないこと、駄作がないことはつとに指摘されてきたことだけれど、短篇小説をひとつひとつ磨き上げてきた彼の手作業は最後まで衰えを見せなかった。それどころかこの本におさめられた十篇を読んでいただければ、すでにことばを尽くして賞賛されたトレヴァーの語りの魅力が、今までにないくらいの大輪の花を咲かせているのを楽しんでいただけると、ぼくは確信している。
 細やかな心理描写、皆まで言わずとも寸止めする省筆の冴え、人生に潜む多義的なうまみをそっと掌に載せて差し出すかのような場面など、トレヴァーが持つストーリーテリングの妙味と人間観察の精細さはここに至って頂点に達したのではないかと思う。ただしその分、彼の文章にはつねにも増して、読者に考えさせる要素が詰まっているのである。

「かなり長めの訳者あとがき」本書p-240~241

 栩木氏の言う「省筆の冴え」と「読者に考えさせる」の、その絶妙さが、特にもう魅力的である。これについても、栩木氏は見事に文章化しているな。最後の一篇「女たち」についての解説から。

 だが物語を最後まで読み終わったとき、読者は大団円に満足する代わりに、もしかして自分は何かを読み落としはしなかったか、という不安を抱えざるを得ないだろう。この不安感こそがたぶん、トレヴァーの小説を読む醍醐味なのだ。

「かなり長めの訳者あとがき」本書p-251

 うまいこと解説するなあ。いやほんとに、「女たち」を読み終えた時、「え、これって、どういうこと。どこまでが誰の仮定で当て推量で憶測で、え、ちょっとまてまて」とじたばたとページを戻した。今でも、自分は何か誤読しているのではないか、不安である。分かりにくいのではない。トレヴァーの掌の上で、茫然と迷い続けざるを得ないのである。短くても、読者の体験が終わらないのである。「余韻」どころの話ではない。

アイルランドの小説家について

 本の帯の裏で引用したジョン・バンヴィルは、アイルランドの名小説家である。僕が一番好きな小説家の1人である。僕は大学時代、三島由紀夫研究というか、まあ研究などと言う本格的なことはしていないが、とにかく三島を耽読して小説の沼奥深くにはまっていったわけだが、ジョン・バンヴィルというのは、三島を上回るほどの(って僕は翻訳でしか読めないのだから、原文の美しさは想像するしかないわけだが)美しく知的な文章を書くのがジョン・バンヴィルである。長編小説家として、現在生きている小説家の中で、最も文章が美しく、知的な作家である。アイルランドという国がわずか人口500万人強、北アイルランド180万まで含めても人口700万人しかない地域であることを考えると、優れた芸術家が出すぎる、何か異常な国、地域である。詩人からロックやポップスの音楽家まで。

 それは、アイルランドがイギリスの植民地として長い歴史を過ごし、もともとのアイルランド語を一時期ほぼ奪われ話者がごく少なくなり、19世紀以来の母国語復活の運動により、今は復活しつつあるが、それでも英語(アイルランド英語)を主に使う国民の方が多いことと関係が深いように思われる。世界言語の英語で創作ができるという有利さもある。英語圏作家、英語で書かれた小説を対象としたブッカー賞の受賞者にアイルランド人作家が数多くいるのも、そういう有利さゆえであろう。(ジョン・バンヴィルは受賞しているが、ウィリアム・トレヴァーはなんと受賞していないのだそうだ。)

 がそれ以上に、もともとの民族の言葉を半ば奪われ、日常的に使うというよりも学校で習う、教えるという中で母国語文化を身に着けるという人が多くいるという二重言語の特殊な環境がもたらすのは、「自分とは何か、自国文化とは何かについて自覚的に考える」ことと「それを言語表現すること」、これが自覚的に深く結びつかざるを得ない、そういう歴史に根差しているように思われるのである。人間洞察の深さと、繊細な言語表現というのは、バンヴィルとトレヴァーの共通点だと思うのである。

 さきほども書いたが、この本に収められた十篇についても、舞台がアイルランドのどこか、ダブリンだったりアイルランドの田舎だったりするものと、ロンドン周辺など、イギリスを舞台にしたものとが混在している。登場人物の国籍や民族は、僕が漠然と読んだ感じでは、ロンドンを舞台としたものでは、特に「ロンドン在住アイルランド人」みたいなことではなく、イギリス人を主人公としているのではないかと思う。(ここはもしかしたら、僕の理解は間違っているのかもしれない。詳しい方いたら、ご指摘ください。)そのあたりの機微と言うのは、僕にはよく分からないのだが、アイルランドという地域、国の「イギリスの隣にいて征服され植民地化され言葉も奪われかけ」という歴史が、人口のわりに、ものすごく豊穣な文学や音楽を生み出す背景にあるように思われるのである。

 これまでトレヴァーの小説、本、何冊か買って、積んであったのだが、本棚をひっくり返して、もう何冊か続けて読んでみようと思う。

 


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