佐鳥ゆう
創作集です。
解離性障害らしいことのはなし
23番(まり)の詩をまとめています。
そういえば成長して実家を出るまでの間、毎日のように鳩の声を聞いていた。 どこにいるのかははっきりしないのだが、部屋にいると「ででぽっぽー、ででぽっぽー」という声が良く聞こえてきた。調べてみると繁殖期のキジバトがででぽっぽーと鳴くらしいが、キジバトなんかいたかな。ドバトは近所にたくさんいたけれど。それに年中、ででぽっぽーと聞こえていたような気がする。 部屋の窓からは、晴れていれば、ゆっくりと円を描きながら空を舞うトンビたちがよく見えた。鳩とトンビと住宅地にお決まりのスズメた
最近、まだ幼かったときによく見ていた夢を思い出している。昨日の詩の森は、その夢に出てくる森である。 森は小さな町のそばにある。 町といっても、そこそこ大きな平屋建ての家が1軒ごとにわりと離れて建てられていて、広いけれど人口はさほど多くないみたいな感じのところである。車が走れるような道はなく、市街地のような区画整理もされていなくて、家々の敷地の間を細い未舗装の道がうねうねとつないでいる。道を歩いていると、生け垣や塀の切れ目に玄関が突然現れたり、そのままどこかの家の庭の中に入
深い森がいる 私の奥深くに 緑は濃く ところどころ渦を巻き 黒みを帯びた不可視の境界 森には女が彷徨っていて 近づくものは捉え 食べてしまうと人はいう 心に闇を持つ女 業が深く それ故 信じられないほどの闇に侵されている女だと 否 森に潜むものたちは ただ見えなくなりたいもの 漆黒のような濃い緑は 隠し隠れていたいという ささやかな願いを叶えるためのもの そこには 豊かな光と命がある でも 不用意に近づくと 食べてしまうよ
前回の詩のことを含めた話 まり(23番:解離によって生まれた複数いる中の代表的なパーツで存在を知ったのは昨年)と一体化した後、いろいろと不思議なことが起きている。 その一つは、20歳になって家を出るまでの自分の感情の再体験で、何も覚えていなかったものや、出来事自体の記憶はあるけれど特に何も感じていなかったものに対する感情の甦りである。その他にも、これまで感じたことのないような強い身体の違和感(性別の違和感を含む)や自分でも理解できない感情(怖いものではない)などもあるのだ
あの日 十代だったある5月の日 まばゆいばかりの晴天の下 知らない町の知らない道を 私たちは歩いていた 行く必要のない いるべきところとは別の場所に向かって 何も食べず何も飲まず まるで巡礼者のように 私たちは歩いた 行き交う人もなく 通り過ぎるのは ごうごうと喚き散らす 無機質の塊だけ そしてあの場所に着いたとき そこに踏み入れてはならぬかのように たくさんの鳥たちが飛び立った その跡には本当に何もなくて ただ古い森が大きく口を開けていた
ちょっと前のつぶやき ということで、ビリー・アイリッシュのHappier Than Ever(アルバムではなくて曲の方)を繰り返し聴いています。 つぶやきでは自立と書きましたけど、ぼんやりとして曖昧な自立ではなくて、(こちらの純粋さや幼さを悪用して狡猾な人間がやる)精神的な支配からの決別を歌った曲ですよね? きちんと歌詞を理解しているとはいえないかもしれませんし、歌詞ということは、特定の誰かに対する意趣返しなのかもしれませんけど。 聴いている間に、歌われていることとは
最近ビリー・アイリッシュを聴き始めて、さっきHappier Than Ever(アルバムではなく曲)を初めて聴いたんだけど、これ一人の人の自立を歌った素晴らしい曲ですよね?(アルバム全曲を聴かないとわからんけど) 特に後半、歌詞と音の歪みがすごく良くて今習ってる楽器で演奏したい
「これからは泣くことにする?」 『うーん・・どうかなあ。泣けるのかなあ・・・』 ***** 長らく泣いたことがない気がする。 この前泣いたのはいつのことだったか? ドラマや映画で泣くことはある。また、十数年ほど前に、ここは泣いておいた方がいいかなと思える状況で泣いたこともあって、そのときのことはよく覚えている。 しかし、これらは「自分の心から出たもの」という感じはしない。ドラマや映画で泣くのは共感だし、登場人物が痛みを感じているはずの場面で自分の身体にも痛みを感じる
おことわり ペンギンは出てきません(中年のおじさんは出てきます)。 最近体重が減って、高校卒業ごろの体重に戻った。 解離性障害(とりわけ、幼稚園のときにはもう感じていたように思える離人感)を緩和するためにヨガやダンスをしているのが地味に効いているらしい。そして、楽器を弾いているときにも、酷い音が出て冷や汗をかくのとか、音程がずれてあちゃーーとなるのとかで、結構なエネルギーを使っている気がする。 あと、お菓子を食べなくなった。食べなくなったということは作らなくもなったので
子どもたちと遊んでいると 穏やかに晴れた空から 砂が降ってきた 砂は はじめは美しく輝いて みな歓声を上げた 知っていた 酷いことが 起きると 砂は すぐにノイズとなって視界を遮りながら 勢いを増した 歓声は消え 光は褪せていく 暗闇になる前に 地下の部屋に急いだ 手分けして避難させ 重い扉を閉めた 聞こえる 扉の向こうから 争いあう声が 雷鳴のように どれぐらい続くのだろう 明日もだろうか その次の日も またその次の日も 固く冷え切った手で 子どもた
★表紙は、pixabayからダウンロードしたカムチャッカ半島の景色 ★前編はこちら ***** ミトコンドリアハプログループ(mtハプロ)とY染色体ハプログループ(Yハプロ)を調べてもらった話の続き。 その後、追加レポートの作成(私たち現生人類であるホモサピエンスと交配していたネアンデルタール人のゲノムを自分はどれぐらい持ってるかとか)をお願いしたり、書籍や論文を読んでいろいろ調べたりしていたのと、どうやらこれはミソジニーの一種のように思えるのですが、Yハプロに異常に
はじめて感じた陽の光は とてもあたたかだった はじめて感じたものが陽の光だったのに どこにいたのか どこから来たのか 何もわからなかったのに 降り注いでいた光はなぜか優しくて あたたかだった とても そのとき彼は 私の横で 公園にある大きなクスノキのざらざらと乾いた肌に触れて その呼吸を感じていた 首筋に柔らかな光を受けながら 触れている無数の割れ目からはクスノキの吐息が吹き出ていて 彼を通って私を包み込んでいた 私は 光とあたたかさを吐息で包み 小さな結晶に
★表紙は、チュクチのおとぎ話「黒い鳥」の挿絵から。 chromeでアクセスすると原語(ロシア語)表示するかgoogle翻訳の日本語で表示するか聞いてくるので、日本語を選択すると読めます。 ***** 日本列島はユーラシア大陸の東の果てにあって、その東には巨大な太平洋が広がっています。ある意味、世界の行き止まり(ワールズエンド)的な場所。このため、いろいろな民族が流入した坩堝のような歴史があり、その流入の痕跡が複雑に残っている場所のようです。 この前、私のハプログループ
うまく説明するのが難しいが、23番と一体化した後に身体の感覚が少し変わった。暖かく、そして柔らかくなった感じがする。自律神経が関係しているのかも? メンタルも少し変化した。 23番はもともと身体の右側の少し離れたところにいた。少なくとも高校生ぐらいのとき(ということは数十年前)には、彼女はそこにいた。自分自身が身体から離れている感覚があるときの自分と身体の距離よりも、時折彼女を感じたときの彼女と身体の距離の方が近いぐらいのところに(ややこしいけれど文章のとおり)。彼女の存
僕は 水になりたかった 滑らかで 柔らかく 心のままに変わることができるものに あるときは冷たく あるときは暖かく あるときは全てを焼き尽くす熱さとなり 自由で 縛られることのないものに 私は 器になりたかった 透明で 硬く 内なる心の形を保つものに あるときは輝き あるときは傷つき あるときは見えなくなることを望み 自由を 縛られることのないものにするために 僕からは 私のことは見えなかった でもずっと一緒だったんだ 僕と私は 私は 知っていた 内なる僕
この年齢になってから言うのも変な話だが、なんか成人になった気がする。成人といっても、成人式や成人の日みたいな形式的で人為的(作為的ともいえる)な意味ではなく、なんとなく一人の人間になったという意味。人間になるタイミングは、おそらくは人によってかなり違っていて、十代のうちになる人もいるはず。自分は50年以上もかかったことになる。もっと遅い人もいるだろう。 でも、早い遅いは決して優劣を意味しなくて、その人に固有の何かとその人が辿った道すじなどによるもので、要するに、早かったり遅