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2月22日-28日 僕の祖父が亡くなってから、この世界からその身体もいなくなるまでの日記 (14,000字)

2024年2月23日、金曜日。天皇誕生日。霧雨のような細かい雨が昼間中ずっと降っていて、夕方に止んだ。先週までの春のような陽気がすっかり失われて、また厳しい冬が戻って来てしまったたような寒い日だった。

僕の祖父が亡くなった。僕の人生の大きな部分を占めていた人が、いなくなってしまった。


2月22日(木)
千葉での取材が佳境に入っているのと、横浜の実家や東京の家を行き来していたりと、で、とにかく忙しくて、身体的にも精神的にもしんどくなってきていた。祖父も明らかに弱ってきていて、その現実と向き合うのも辛かった。それで、97日間、毎日書いていた日記が書けなくなっていた。

19時ごろ取材先から家に帰り、祖母とご飯を食べてから、2、3時間、祖父のベッドの横に座って、手をマッサージしたり、胸を撫でたり、足をマッサージしたりした。祖父が安心できるように、いろいろやってみていた。ここ数日、寝たきりの祖父の意識は遠のいてきていて、目もあまり開けず、声をかけてもあまり反応がなくなってきていた。体全体に不快感があるらしく、右肘を上げて、手を顔の上に持ってきて額に乗せ、苦しそうな動作をずっとしていた。手を上げっぱなしで疲れないのかなと思い、手を取って優しくマッサージしてあげると、肩も肘もリラックスして、ゆっくり腕を下ろして表情も柔らかぐことが多かった。食べ物を口にしなり、点滴をしなくなって、もう2日目か、3日目だったと思う。食べ物が食べられなくなったら、もう1週間持つかどうか。水が口にできなくなったら2、3日持つかどうか、と医者から伝えられていた。こうやって、祖父のそばにいられるのも本当に限られているような気がして、ベッドの脇でテレビを見ながら時々、おじいちゃん、と声をかけたりしていた。数年前、実家で祖父とテレビを見ている時、祖父がテレビから流れてきた島崎藤村作曲の「椰子の実」が好きなのだと教えてくれたことがある。祖父はテレビから流れるその歌を口ずさんで歌っていた。それを思い出してポケットからスマホを取り出して、ハンバートハンバートが歌う「椰子の実」を祖父の耳元で流した。少しずつ音量を上げると、曲に気がついたようで、音楽が流れてくる方を見上げるようにして曇ったような目を少し開けた。僕は「おじいちゃんが好きだっていってた曲だよ」とか、声をかけた。祖父は声を出すこともなく、またゆっくり目を閉じた。しばらくして、母が帰ってきて、ふたりで祖父に話しかけたり、祖母とおしゃべりをしたりして過ごした。


2月23日(金)
毎週金曜日にある会議の資料がまだできていなかったので、6時前に起きた。作業を始める前に、1階に降りて寝室を覗くと、祖父は痰が絡んだような、カラカラコロコロ、という息をしていた。部屋に入り祖父のそばに寄って、手をゆっくり握りしめると、リラックスしたように見えた。祖父の手は、少し冷たかったが、体温は感じた。しばらく手を握ったまま、祖父の顔を見ていた。そうして手を離して、寝室を出た。

資料を作り終わったのは8時前。会議は9時から開始。うちから会社まで1時間はみておいた方がいいと思い、急いで準備をして、8時ごろには玄関に向かった。家を出る前に、祖父の寝室を覗いたら室内に母がいて、窓の外が明るみ始めている部屋で、祖父の下着を変えているところだった。「もういくね」、と声をかけると、母は「行ってらっしゃい、おしっこ出てたよ」、と言っていた。1週間か、2週間前、週一回往診に来てくれる医者に、おしっこが出なくなったら、もう1日、2日持つかどうかだ、と言われていた。僕はすこし安心した。思っていることは母と同じだと思いながら、「そっか」と返して、行ってきます、と外に出た。外は、風が冷たくて寒かった。折り畳み傘の柄を持つ素手に冷たい風が意地悪く当たって痛かった。傘を持つ手を変えては、その握った拳を袖を覆い、ポケットに突っ込んで、温まったらまた変えた。駅まで早足で歩く。

思ったよりも早めに会社につき、何事もなく会議が始まる。総合演出が、今日は話し合うことが多いとか、手際よく行こうとか言っていた気がする。会議中、10時ごろに母からラインが来た。今看護師が来ていて、祖父の様子を見るに、呼吸が止まる時があり、今日明日にはもう直ぐと言われた、と。僕は分かったと、すぐに返信。その30分後だった。10時半ごろ、また、母からのラインが来たことが、ズボンのポケットに入ったスマホのバイブレーションで伝えられる。寒気がして、体が気味悪く浮くような感覚があった。ラインのアプリを開くと、亡くなりました、と母からメッセージが来ていた。僕は反射的に、「すぐ帰る」と返信し、会議中だったが、しずかに荷物を片付けて、プロデューサーに、「祖父が亡くなったので帰ります」と耳打ちをしてから出た。以前から、プロデューサーには祖父の体調が悪いと伝えていた。僕の母と同い年の女性のプロデューサーは、顔を顰めていた。あぁ、帰ってください、とか言っていたような気がする。今朝から降っていた霧雨は少し落ち着いていた。傘はささずに表参道駅まで早足で歩いた。祖父は最期、どんな風だったのかなとか、母は泣いているかな、とか、家に着いたら真っ先に、祖父のどこに触れようか、とか考えていた。

三連休初日の昼前の下り電車は空いていて、すぐに座れた。座って、手を開いたり閉じたりした。5時間前、祖父の手を握り、胸をさすっていた僕の手のひらが暖かかくて、柔らかかった。脳がズキズキして、感覚が過敏になっているような気がした。視界がやけに鮮やかで、脈が早く打っていて、呼吸が浅かった。律儀に毎駅に止まる各駅停車の中で、どこを見て良いのか分からず、何を考えたら良いのか分からず、イヤホンを耳に押し込んだ。こういう時って何を聞いたらいいんだろう。大好きだった祖父が亡くなったと聞いて実家に戻っている時って、どんな音楽を聞いたらいいんだろう。iPhoneを何度かタプしてスワイプして、結局khruangbinの先行リリースされていたアルバムのMay Ninthという曲をなん度もループで流した。ふわりとした雰囲気の曲調と繰り返されるテーマが、空の、雲の上を想像させた。もう亡くなっている祖父の顔を見に行く、その実家の最寄駅まで向かうこの電車のストロークという、あまりに現実的でリニアな時間から引き剥がしてくれそうだった。家までの道のりは異様に長く感じた。まだ着かないのか、とか、まだ着かないでくれとか思った。どう思おうとも、足は反射的に素早く動いていて、実家の最寄駅から家までの急な坂を、ずんずんと歩いた。

家に着いた時には、母からラインが来てから1時間以上経っていた気がする。家の車庫には、緑に近い青色をした、爽やかな雰囲気の軽自動車が停まっていた。訪問看護師さんの車だ。家の中に入ると、すぐ脇の祖父母の寝室のドアが開け放たれていた。荷物を玄関に放り投げ上着をすぐに抜いで寝室に入ると、青白い顔をした祖父が、元気な時によく着ていたスラックスと、コットンのシャツを着てベッドに横たわっていた。今朝までと何も変わらなそうで、全てが違いそうだった。母は泣いていて、祖母は僕の顔を見て、あぁおかえり、と言った。祖父のそばによると、顔の青白さがよくわかった。何か作業をしていた看護師さんが、「お孫さんですか、よく料理してくれるって聞いてました」とか声をかけてくれる。僕は声をあげたり、鼻を啜って泣くわけでもなく、自然に目に溜まってくる涙をそのままに、適当に返事をした。「おひげを剃ってあげてください」、と看護師さんが言う。枕元のサイドテーブルに置かれていた祖父の髭剃りと泡のソープを使って、ちょっとずつ丁寧に、祖父の髭を剃った。祖父の頬は冷たくて、でも柔らかくて、髭は剃りにくかった。祖父が亡くなったと聞いて、飛んで帰ってきていきなり祖父の髭を剃っているのが滑稽だった。「ひとの髭なんてそったことないからなあ」と、看護師さんに話しかけるわけでもなく、ひとりごとを言った。

おそらく亡くなった後の訪問看護師がやるべき処置や手続きを全て終えて、看護師さんは帰って行った。その後、見たことない若い医者が来て、慇懃に死亡診断書を書いて帰って行った。

母から、祖父の最期について聞く。僕が家を出た後、9時半に看護師さんが来て、いつもの検診などをした。検診が終わりかけた10時ごろから祖父の呼吸が変わり始めた。看護師さんの判断で、デイケアに行った祖母に急いで帰ってきてもらい、10時半ごろには、祖母と母が手を取って声をかけている中、祖父は息を引き取った、とのことだった。あっという間だった、と母は繰り返す。この2ヶ月、目に見えて少しずつ祖父が衰えて、でもまだ一緒にいられると思っていたから、本当にあっという間だった。

これまで、祖父の来たる死はとてつもなく大きくて圧倒的で、重苦しくて耐えられない苦痛を与えてくる恐ろしいものだと思っていた。僕が大学に入る前あたりから、祖父母の老いと、来たるお別れを考えてしまい、常々憂鬱な気分になっていた。僕の何倍も長い時間を生きてきたおじいちゃんが、僕より先に寿命を迎えることは、頭ではとてもわかっていて、とてつもなく怖かった。でも、本当はそんなんじゃなくて、死はすぐそこにあった。昨日まで、弱りながらだけれど息をして、手を握ったら握り返してきた命が、急に消えてしまった。

祖父の身体はベッドにあるし、顔を覗き込むと今にも目を開けて返事をしそうに見える。呼吸で胸が上がり、下がり、それに合わせて掛け布団もゆっくり動いているようにも見える。だけど実際ベッドの上の祖父には、見えない重い死が覆い被さっている。剥がそうとしても剥がれない「死」が、祖父の体の表面を薄く、そして濃くへばりついているようだった。

13時、葬儀屋が来て、葬儀の打ち合わせをした。葬儀屋は終始、感情をこめないお仕事、と言ったような話し方と態度で僕らに接していた。火葬場のスケジュールが5日後しか空いておらず、葬儀もその日に行うことになった。祖父の身体の処置方法について、色々な選択肢があると説明を受けた。僕たちは「エンバーミング」という処置をしてもらうことにした。火葬まで、日にちが空いた場合、身体が傷んだり腐食してしまわないように、葬儀場の冷暗所に安置するか、遺体を消毒したり、防腐処理をして自宅のベッドで葬儀を待つかどちらかになるらしい。後者がエンバーミングだ。まだお別れを言えてない人もいるから、とか、僕や母や祖母も、祖父が今日の今日いなくなってしまうのは辛かったからか、エンバーミングを選んだ。祖父がエンバーミングの処置に出るのは夜20時半と告げられた。葬儀場のスタッフは、丁寧にドライアイスを祖父の体の上と顔の両サイドに置いて、後ほど来ますとか言って、出て行った。

祖母が、自分の弟妹たちに電話で祖父の死を伝えるのを手伝った。軽度認知症の祖母は、まだ祖父が亡くなったことを現実として受け入れきれていないようで、切なかった。だけど、同時におかしくもあった。何度も、何度も、伝えるべき情報を一緒に確認して、リビングに置いてあるメモ用紙に手書きで書き込んだ。祖父の最期に立ち会ったのに、祖母はその瞬間のことを信じたく鮮明に覚えていないようだった。「その時、私いなかったのよね」とか、「お父さんどうしたんだっけ」とか、なんども僕や僕の母に聞いてきた。その度に、祖母が立ち会いながら祖父が亡くなったことを、何度も何度も説明した。説明はするけれども、僕自身も信じられなかった。不思議な気分だった。

夜から亡くなった祖父の息子の、僕の叔父の家族と義両親が来ることになった。叔父は、大阪で単身赴任しているので、新幹線で急遽帰ってくる。僕は、父の車で、叔父を駅まで迎えに行くついでに、みんなで食べる寿司をスシローまでピックアップしに行った。

1度や2度ほどしか入ったことのないモールの駐車場に車を止めて、スシローで寿司を受け取取った。車に戻ろうと思いエレベーターに乗ると、一つの階で止まり、びっこを引いたおじさんが乗って来た。ドアが閉まると、おじさんは「美味しそうだなぁ、寿司」と声をかけて来た。僕は笑いながら、「家族の集まりがあるんです」と答えた。おじさんは「ぱーちぃかあ、いいなあ。」と言っていた。全然パーティではないし、祖父が死んだから親戚が集まるんです、とも言えないなと思い、僕は適当にヘラヘラしていた。叔父を駅でピックアップして家に戻ると、叔父の妻子たちと、叔父の義両親がもう家に来ていた。

15年ぶりくらいに叔父の義両親、叔母の両親に会ったが、よく喋る人たちだった。よく喋って、いろいろ訊いてくれるぶん、暗く落ち込む隙がなかったので、むしろよかったかもしれない。ご飯を食べ終わると、葬儀屋のスタッフが、祖父をエンバーミングに連れていくために再び来た。みんなで祖父を取り囲んで、一度お別れのをした。僕のひとまわり年下いとこが泣いていた。小学校低学年のころから愛想がない子だったが、僕と同様に、生まれてからずっと「自分の祖父」だった人が亡くなった痛みがあるんだろう、と思うと僕まで苦しくなった。いとこが泣いているのを見て、僕も泣いた。祖父がストレッチャーに乗せられて運ばれていく。寒い夜に、みんな着の身着のまま外まで出て、みんなで泣きながら祖父が車でどこか知らない施設に連れて行かれて、知らない処置をされに行くのを見送った。

叔母の両親がもう帰るというので、車で最寄り駅まで送ってあと、叔父家族も車で帰っていった。家がシンと静かになった。それまでしゃんとしていた分、急に緊張感が抜けて、食器を片付けたり、書類の整理をしている母と、何をするでもなく椅子に座る祖母がいる、ダイニングの隅に座って、僕はひとりでメソメソ泣いた。ひとりで、信じられないなぁ、とか、本当にいなくなっちゃったんだ、とか呟いて、母や祖母も、信じられないね、とか、いなくなっちゃったねって言っていた。少し落ち着いて、また泣いて、少し前のことを思い出したり、もっと昔のことを思い出したりして、また泣いた。

去年の2月、ちょうど一年前に、祖父の余命が1年余りであると医者から伝えられた、と母から電話で聞いた。その電話の後、いろいろな思い出がフラッシュバックして来て、急に涙が出てきて、久しぶりに少し泣いた。それから、できるだけ泣かないようにしてきた。泣くと、まだ生きている祖父を、まっすぐに向かい入れられない気がして、泣いているくらいだったら、会える間は生きている祖父にもっと寄り添いたいと思って、勝手に亡くなった時を想像して泣く、なんてことはしないようにしていた。だから、祖父が亡くなることによって、泣くのを許された気がした。

リビングを出て、祖父の寝室に向かった。ドアを開けたら、まだ昨日みたいにおじいちゃんがいてくれたらいいのに。そんなことを思った、かもしれない。でも、寝室の扉を開くと、空っぽのベッドが、当たり前のようにあった。僕にとっては当たり前じゃなかった。こんな、寂しくて暴力的な祖父のベッドを見たのは初めてかもしれない。そこにいてもいいはずの人がいなくて、無機質な布と毛布とマットレスがわきまえずにあって、僕の気持ちなんて知らんぷりで、傷つけてくるようだった。

その後も母と、今日あったこととか、これまでにあったこととか、思い出してポツポツと言って、それぞれ泣いて、またポツポツと言って泣いた。

祖母が風呂から上がるころ、空っぽのベッドの横で寝るのが怖い、と言っていたのを思い出して、心配になり祖母の寝室に向かった。ドアを開けると、祖母は、自分のベッドと祖父のベッドの間に立ち尽くしていて、僕が入ってきたことにも気づかなかった。僕が声をかけると、驚いた顔で振り向き、おじいちゃんどこ行っちゃったの?と聞いてきた。おじいちゃんは亡くなったんだよ、と言い切る前に涙が込み上がってきた。ショックだった。祖母が認知症で、自分の夫が今朝亡くなったことをほんとうに忘れてしまっているようだった。それに、祖母の気持ちになってみると、本当に訳のわからない事が起きているに違いない、とも思う。風呂から上がったら、昨日まで家族みんなで介護していたはずの夫が居なくなっているのだ。祖母は、「あれ、そうだったの?私どうしちゃんたんだろう」と狼狽した。僕は事実を伝えてから、「大丈夫、まだみんな混乱してるし、受け入れられてないよ」と泣きじゃくりながら祖母に言うことしかできなかった。声を聞きつけて母が来た。事情を共有して、みんなで「まだよく分かんないよね、信じられないね」と繰り返し言った。

僕はこの一年、もしくはこの数年、祖父が亡くなることが、僕自身のいちばんの恐れだと思っていた。もちろん、その事実はとても残酷に僕の心に居座っていて、ただただ受け入れ難い。けれども、それと同じくらい苦しいのが、愛する人が、愛する人を亡くした悲しみに打ちひしがれている姿を直視し寄り添うことなのかもしれないと思った。


2月24日(土)
朝から千葉の取材先まで行く。多分目がパンパンに腫れていたと思う。13時くらいに取材先を出て15時半自宅着。帰ると、祖父の身体がエンバーミングから帰って来ていた。ドラマとか映画で見た事がある、白い布が顔にかかっていた。そっと外すと、祖父はお化粧されいて、口が横に伸びるように閉まっていて、別の人に見えた。顔に触れるとひんやり冷たかったけど、少し柔らかさがあった。肩をさすって、手をさすって、ももをさすって、白い布を顔にかけてもどした。


2月25日(日)
仕事を休ませてもらう。車で、母と祖母と、こどものころよく行った、家の近くのモールに行く。カフェで軽く昼ご飯を食べて、映画『Perfect Days』を見て帰宅。母のいとこ夫婦が来る。母のいとこは、20歳ぐらいの頃2年間、僕の祖父母と住んでいたことがあったらしい。ずっと泣いていた。夕食、青梗菜のクリームスープ、シラスとネギの卵焼き、菜の花のからしあえ、サラダ。夜東京の家に帰った。


2月26日(月)
朝から取材先。7時くらいに家を出て、9時前には千葉の取材先に着いた。昼過ぎから、そのオフィスの、ロビーにある会議室を借りて打ち合わせをしていたのだが、アホほど長くて、6時間半くらいはやっていたと思う。会議室から出たら、もちろん外は暗いし、中も消灯されていて、一部の照明のみが、ぼんやり残されていた。

そこから取材再開。夜東京の家に帰宅しようと思っていたが取材が深夜まで及び、千葉県内に急遽ホテルを取り宿泊。面倒臭いので、顔だけ洗い、風呂は入らず、布団の中に入った。取材もうまくいっているかどうか、よくわからなくなってきたし、仕事上でもいろいろ問題が生じていて、焦りとか、怯えとかが込み上げてきて、胸が掻き乱されるような気分。それから、締切をだいぶ過ぎてい文章の案件もあって、気が狂いそうだ。そう頭をぐるぐるさせていても、脳が沸騰しそうになるだけなので、深呼吸して目を閉じた。疲れもあって案外すぐ眠れた。


2月27日(火)
朝、7時に起きて、8時半ごろにはホテルを出発して、一度東京の自宅へ。
家で風呂に入り、荷物を準備する。今日こっちの家を出たら、その後の取材の都合などもあり、また3日くらい帰れなくなる。3泊分の洋服や下着を適当に詰め込んだ。11時半に家を出て、実家へ向かう。

実家に着いて、大きな荷物を肩に担いだまま、リビングにいた母と、祖母に挨拶する。姉が、金沢から葬式に出るために帰ってきていた。あれ、どこ言ってたの、という祖母に、仕事行って、一回東京の家帰って、それから来たよと答える。母がひもかわうどんを茹でてくれていたので、僕は手を洗ってうがいをして、祖父の身体が横たわっている寝室に行く。

天気が良くて、窓から日光が優しく差し込んでいた。祖父の顔にかかっている白い布を外して顔を覗き込む。やっぱり、声をかけたらすぐに目を開けて返事をしそうで、不思議な気持ちになる。瞼がぴくりと動いたり、息で胸がゆっくりと上下しているような錯覚を見る。しゃがんで祖父の顔に近付く。一文字に結ばれた口に、やっぱりどうしても違和感があるけど、耳も、のども、こめかみも、頭皮も、祖父なのだ。頬にそっと触れると、僕の手の温度が、そっと奪われる感覚がする。冷たくなった祖父の身体を、僕の体温で温められたら、何か変わるだろうか。数日前、祖父が苦しそうにしている時に手を握ると祖父は落ち着いたように、何か僕の手が、変えられるだろうか。しばらくそうして、それから立ち上がって、ベッドに横たわる祖父の写真をスマホで撮った。それから、寝室の奥にある祖父の書斎を覗き込んで、壁に寄りかかって、置いてある本や、書類や、積み上げられた祖父の絵をぐるりと見渡す。書斎にも、南向きの窓から庭からの光が差し込んでいて、穏やかで優しくて綺麗だった。何枚か写真を撮った。

リビングに戻って、祖母と母と姉と、昼ごはんを食べた。父が前の日買ってきたイチゴが状態があまりにも悪いから、母と姉と祖母は買い物に行くついでに交換をしてもらいに行くと言う。僕も行きたかったが、やらないければいけないことがあるので、留守番をすることにした。みんなが買い物に行く前に、祖父の棺に入れる副葬品を幾つかピックアップした。祖父が最後に使っていたカバンと、本と、手書きのバスの時刻表メモが机の上に置いてあった。祖父の手書きや読んでいた本ですらも恋しくて、取っておこうかな、とか思った。メモを裏返したり、本をめくっていたら、母が、カバンから出てきたから、棺に入れようと思う、と言った。焼いちゃうのもったいないから欲しい、と言うと、母は、「えーこんなのー?いいよー」とか言っていた。祖父が書いた絵も何枚か棺に入れたいそうなので、家の近くの里山を描いた絵と、祖父が好き好んでよく行って写生していたみなとみらいの古い建物の絵と、それから祖父が生前に、行った時の思い出を話してくれていたスイスの山間の村の写真を選んで、葬式場に持って行く紙袋に入れておいた。

明日が祖父の葬式なので、今日、祖父の身体は葬式場に行く。この身体がうちで過ごす最後の時間だった。本当に名残惜しかった。祖父というカタチもなくなってしまう。でも今日は泣かなかった。脳が仕事モードになっていて、感情が出てこない。感情が出てこないというか、寂しいとか悲しいとは思うのだけど、そのあとに何かストッパーがかかっているようで、涙も出ないし、喉の下が苦しくなることもない。

15時過ぎ、トイレから出たら、もう葬儀屋の人たちがうちに来てきて、祖父を白い布と緑の布で包んでストレッチャーに乗せて運び出しているところだった。慌てて家を出る準備をして、車に母と祖母と姉を乗せて、葬儀場に向かった。

式場に着いたら、祖父の体を入棺し、曹洞宗で決められている装束を棺に入れた。服装品としては、たくさんの書き込みが残るドイツ語の本と、好きだった世界地図と、水彩画用の筆と、小さめの絵を3枚入れた。葬儀屋の人の指示に従って、翌日の葬式の打ち合わせや準備をした。祖父が書いたサイズの大きい水彩画を、式場の角に置いたり、受付に置いた。

夜に、姉の夫と娘も来た。僕は姉と阿吽の呼吸で料理をして、二人であっという間に何皿も作った。みんなで食べた。


2月28日(水)
葬式と火葬の日。空がきれいに澄んでいて、高く遠くまで見えそうな日だった。

朝早めに起きて、今週末の大きな収録に向けた打ち合わせに出す資料を作る。その打ち合わせは、今日あるのだが、僕は葬式で行けないので、欠席させてもらっていた。資料の作成が終わり、メインの仕事とは別の、文章を書く案件に手をつけてみるが全く進まない。家族も起きてきた音がし始める。結局みんなにまじり、みんなで僕がいれたコーヒーを飲みながら朝ごはんを食べた。姉家族も一緒だったので、食卓が華やかだった。この家に人がたくさんいるだけで幸せな気持ちになるな、と思っていたら、祖母も、「人がたくさんいると嬉しい」、と言っていた。それから、慌ただしく、それぞれが喪服の準備や、棺に入れる副葬品の準備をして、予定していた時間に家を出た。

葬儀会場に着くと、うやうやしくスタッフが招きいれる。家族葬なので、あまり多くの人はこない。祖父の兄弟は、ここ最近何度かうちに来ていたので、顔がわかる。祖母の兄弟も、半年前くらいに会っていた。親戚のひとたちが来ているのもあり、僕は緊張して、比較的しゃきっとしていた。住職が御勤めをして、家族や親戚がつぎつぎとお焼香をする。そうこうしているうちに、あっという間に「お別れのお時間」になる。供花をバラした花がお盆に乗って、僕たちの前に差し出され、みんな渡されるままに花を祖父の顔の周りから体の周り、体の上へと置く。僕の父が泣いていた。意外だった。普段から理屈っぽくて饒舌で男性性の強い父が泣いていた。前に、母が言っていたことを思い出した。父にとっては、自分の両親より、母の両親であるこの祖父母の方が長く一緒に住んでいる。やはり、父にとっては生みの親と並列した、「第一の親」だったのだろう。

だんだん祖父が花で埋まっていく。エンバーミングをしてから、顔の雰囲気と、体全体の触り心地が少し変わってしまっていて、足の裏のすこしの柔らかさとか、あばら骨の凹凸とか、生きていたときの祖父らしさみたいなものがほとんどなかった。全て花で埋まってしまうと、もう祖父らしさには届かなくなってしまう気がして、怖くなった。そう思っているうちに、スタッフがまもなく蓋を閉めます、とかいう。閉められる前に、棺の近くに寄って顔を撫でたり、おでこを触ったりした。姉が泣き崩れそうになっていたので、近くに寄って肩を強めに抱き寄せる。僕の目からも涙が出た。蓋が閉められた瞬間はあまり覚えていない。スタッフが、火葬場へ移動する、と言う。親戚のみんなが、控え室に荷物を取りにゾロゾロ歩き始める。僕はどうしても名残惜しくて、ずっしりと閉じられた棺の蓋を撫でてみる。棺の蓋は硬かったけれども、不思議と祖父の体そのものに触れているような心地になった。まだいるの?おじいちゃん、まだここにいる?

僕も含めた親族の男性で、祖父の棺を霊柩車に乗せた。東京で同居しているパートナーが葬式に顔を出してくれて、一緒に祖父にお別れをしてくれた。火葬までは行かずにここで帰るので、玄関で一言二言交わす。母と祖母は、位牌と写真を持って霊柩車に乗り、他のひとはマイクロバスに乗り、火葬場に向かう。見慣れた地元を斎場に向かうバスがすり抜けていく。寒いと思って下に着込んだので、暑かった。車内でうとうとした。着いたのは大きな火葬場て、駐車場にたくさん車が停まっていて、僕らが乗っているようなマイクロバスも何台か停まっていた。たくさんの人が、悲しみを抱えてここに辿り着いてきたような気がして、心強いような、怖いような、複雑な気持ちになった。

火葬場は公立の、大きな斎場だった。どこかSFの世界の建物のような雰囲気があった。ユニフォームを着たスタッフが、丁寧に、けれども速やかで効率的で、ドライに対応を進めていく。スタッフもそのSF世界のパートを担っているかのようだった。祖父の身体が入った棺が薄暗い通路を進む。そして、告別所と札のかかったエリアにきた。奥の壁に大きな窪みがあって、銀色のエレベーターのようなドアがあった。このエレベーターに乗って、空に昇っていくのかな、とか思った。父方の祖母の火葬の時は、もっと小さい扉だった気がする。ここで、祖父の身体が焼かれる。葬式場から付き添っていたスタッフが、これで最後のお別れです、とかなんとか言って、祖父の棺の小窓を開ける。最後に小窓をから顔を触ろうと思っていのに、小窓には透明の仕切りが入っていて、棺の中と、僕らがいる外が、簡単に、圧倒的に、切り離されているようだった。つい僕は、あ、と声をだす。隣にいた母も同じ気持ちだったようで、声にならない声を出していた気がする。顔を近づけてももう触れられない。順番に家族や親戚が顔を覗き込んで、そして、釜の中に祖父の棺が入っていく。扉が閉まる前にもう一度お焼香をして、僕たちは少し離れた。近くにいた祖母の肩をさすった。スタッフがエレベーターのボタンのようなものが押すと、ゆっくりとモーターの音を立てながら火葬窯の扉が閉まった。あ、もう何も止められないんだ、と思った。祖父が身体ごと、この世界からなくなってしまうことを、もう誰にも止められないんだ、と思った。スタッフが、精進落としの部屋にご案内します、とかなんとか言って、親戚はゆるゆると歩き始めた。祖父とずっと一緒に暮らしてきた、僕と祖母と、僕の両親と姉は、祖父の身体が入った棺がすーっと入っていって、あっけなく閉まった銀色の扉をしばらく眺めていた。

別の階の会食室に移り、祖母が親戚にしっかりとした挨拶し、祖父の弟が少し気の抜けたような献杯の挨拶をして、親族全員で精進落としを食べた。しばらくすると祖父の名前で僕らが呼ばれて、お骨拾いの場所に向かう。お骨を確認していただきます、と促され、祖母と母と僕が、祖父の火葬された銀の扉の前まで行く。エレベーターの扉が開くと、さきほど棺で入ったままの方向を向いた、骨だけになった祖父が出てきた。一眼見るだけで、どの体の部位なのかが簡単にわかるほど、いくつもの骨が元の形を維持したまま残っていた。父方の祖母の時は、車椅子生活が長かったせいか、小さい骨はほとんど崩れてしまっていたことを思い出す。まだ熱い祖父の骨に少し顔を近づけて、じっくりと見た。祖父がベッドに寝たきりなったときに、よくさすっていた、しっかりしたひさがの骨が見えた。骨だけで見ても、やはり太く大きく、しっかりしていた。なんとなく、確認しました、とか言って、お骨拾いの場所に戻る。運ばれてきた祖父のお骨は、上半身と下半身の二つのトレーに分けられていた。みんなで交代で、大きな骨を拾骨して、スタッフが残りの骨を骨壷に入れた。最後、蓋を閉めるときに、骨の小さいかけらが飛び出て、台の上に落ちた。スタッフが、それでは閉めますと言ったので、僕は、ちょっと待ってください、小さい粒が、といって、それを拾って壺に入れた。マイクロバスまでは、母の弟が骨壷を持ち、母の弟家族はこの場で解散予定だったので、マイクロバスから僕が祖父の骨壷を抱いた。帰り道、空はまだ綺麗に晴れていた。窓から空が見えるように骨壷を少し傾けたりした。

みんなが解散して、僕と祖母と母と父の4人になった。僕は骨壷を抱いて助手席に乗る。少し早めに桜が咲く道を通過する。これまで何度も、祖父と歩いたり、車で通ったりした道だ。家について、4人でゆるゆると玄関まで進む。母が鍵を出して開けようとしている間、父が、家の外装や、玄関口から見える祖父母の寝室の出窓を眺めていた。僕が1歳になったばかりの27年前、祖父母と、両親と、僕と姉、二世帯の家族が安らかに暮らせるようにこの家を建てた。6人で食卓を囲んでいた時を思い返すと、みんながいるだけで安心感があって、6人みんなの場所、という気持ちがあったような気がする。今や、僕も姉も家を出て、祖父も亡くなって、住んでいるのは3人だけになって、家が無駄に広く大きく見える。建った当時から、たったの27年で、家族が大きく変わってしまったことを、僕は寂しく感じた。

家へ入って、座敷に台座を設置して、骨壷と位牌と写真を置いた。祖母と母と父と僕の4人で、一人ずつ線香を立てた。みんなでコーヒーを飲みながら、少しゆっくりした。父は戸棚を開けて、祖父が買い集めた食器を見始める。夕食は、小松菜と厚揚げとひき肉の中華風あんかけと、かぼちゃのポタージュスープと、ブロッコリーと卵のマヨネーズ和えサラダを作った。食事の片付けをして、荷物をまとめて、20時半くらいに玄関に降りた。仕事が佳境を迎えているので、明日からまた、朝早くから取材に出なければいけない。しかも、自分が担当している部分でややこしい問題が起きていて、気が滅入る。ともかく、前泊するために千葉に向かう。母と祖母にいつものように強めにハグをした。ありがとうね、と声をかけられると、急に寂しさが込み上げてきて、喉が苦しくなって、涙が出てきた。涙を見られないようにすぐに玄関を離れた。

父に、家の最寄り駅まで送ってもらう。お疲れ様とか、気をつけてねとか言い合って車を降りて、父が乗る運転席を振り返り手を振った。その瞬間、祖父がいなくなった僕ら家族が、みんなで寂しい思いをしているんだ、と思った。それから、みんなで寂しい思いをしているのに、別々の場所で時間を過ごさなければいけないことがとても残酷で、苦しくなって、その苦しみが胸の底から突き上げるように、急に涙が溢れてきた。帰宅するひとたちが帰路に着く駅までの遊歩道を、声を抑えて泣きながら歩いた。

千葉までの道のり。祖父が亡くなってから、ベットに身体だけが横たわっている寝室を撮った写真を何度も見た。エンバーミングから祖父が帰ってきてから、祖父じゃないような気がしていた。火葬されたあとになって見返すと、この5日間も祖父だったような気がする。動かなくなって、綺麗にしてもらった姿も、もっと見たくなった。もっと写真を撮っておけばよかったな、と少し後悔をする。スマホを開いて、「おじいちゃんの使ってたリュックもらっていい? おじいちゃんのこと思い出せるもの、手元に置いて使いたいなと思って」と母にLINEした。そう打ちながら、夜の電車の中でちょっと泣いた。祖父が生前、絵を描きに行く時や友人とテニスしに行く時に使っていたリュックは、僕が学生時代アルバイトしてたアウトドアショップで買ってくれたモノだった。確か、バイトが休みの日に、祖父母と僕3人でお店に行って、買い物をして、その近くにある蕎麦屋でお昼を食べた。そういうことを思い出しては、泣いて、涙を拭いて、また泣いた。

1時間半以上かけて、取材先近くの駅に到着した。相変わらず、仕事の問題がおさまっていない。仕事に対して、気持ちを切り替えてどうにかしなくては、という思考と、もう一方の無気力がせめぎ合っていて身体が重い。祖父の葬式をして、身体を火葬したのが今日の出来事だなんて信じられない。


後日記 3月29日(金)

祖父の葬式から1ヶ月が経ったけれど、ほとんど毎日仕事があって実家には帰っていない。いまだに祖父が亡くなったことが信じられない。実家に戻ったら、まだいるんじゃないかと思ってしまうこともある。この1ヶ月、たまに祖父の写真を見返していた。去年の11月に一緒に母のコンサートに行った写真を見ると胸が苦しくなって、辛くなる。ついこの間まで、一緒にゆっくり歩いて、一緒にご飯を食べて、目を合わせて会話して、そこにいた祖父がもういない。もういない、と思いたくない。やっぱり、実家に帰ったら、出迎えてくれるような気がする。でももういない。こころがソワソワする。こころが痛くてかゆい。会いたいのに絶対に会えない。それだけのことが、あまりにも頑なで、僕に何も許してくれない。祖父がもういなくて、もう絶対に会えないという事実に対して、僕は何もすることができない。もういない祖父の、元気だった時の写真を見ても、僕は声が出せない。

なんでなんだろう。なんでいなくなったんだろう。癌だったんだよ。余命が一年と言われていて、少しずつ悪くなっていっていて。足腰が弱くなってきて、自分で起き上がれなくなって。亡くなったんだよ。そんなことは分かっている。なんでなんだろう。でも最期まで自宅にいられたんだよ。みんなもお見舞いに来てくれて、88歳の誕生日も迎えられたんだよ。最期まで家族のみんなに囲まれて、よかったね。そんなことは分かってるんだけど、なんでいないんだろう、と何度も何度も思う。何を言われても、この問いの答えじゃないとわかる。それくらい、大好きだった祖父がこの世にいないことが受け入れがたい。

僕はこの先ずっとこんな感じなんだろうか。祖父のことを思い出しては、払い除けられない祖父の不在に押しつぶされそうになって、泣くのだろうか。

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