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誰かの「こだわり」を評価せずそのまま近づく

週末は移動ばかりしている。二週間に一度新潟の家族のもとへ、それ以外の週末は全国各地の現場へ。30代半ば以降は東京や神奈川など関東圏、福島など東北圏の仕事がほとんどで、久方ぶりに大阪に戻ったのでまぁ遠い! でも、現場に行けばなんというのかな、くさい言い方だけどやっぱりやってきたなりにつながりや絆を感じる。各地に大切な仲間たちがいて、アートや福祉、まちづくりや教育など色々寄って立つ場所が違っても、目の前に存在する「人」とその人が営む「日常」に敬意を払い大切にしようという姿勢は共通している。文化芸術を生業にする僕にとっての「表現観」を確実に養ってくれたフィールドたちだ。

今週金曜は横浜の地域作業所カプカプで隔月で取り組んできたラジオワークショップをしに。土曜は、この春までアートディレクターを務めてきた品川区立障害児者総合支援施設ぐるっぽの音楽ワークショップに久しぶりに参加。そして今日このnoteを書いているさっきまでは、埼玉県東松山市で新しいプロジェクトの打ち合わせ。そこは高齢者福祉施設のデイサービス事業に「アーティストインレジデンス」の機能を持たせるということで、その第一弾アーティストの一人としてお招きいただいた。さて、今日はまずカプカプでの出来事からちょっと書こう。

カプカプでは、ここに通う人たちの日々の営み、好み、こだわりを「ラジオ番組」という演出で地域にひらいてくアクションをやってきた。現場マネージャーの鈴木まほさんが主に「このメンバーさんの日常にはこんなな面白くて豊かな時間があるよ」と「台本」という形で教えてくれる(トップ画像がそれ)。それをスタッフの方々と一緒に語りや音楽をパフォーマンスを交え「ラジオ」に仕立て上げる。別にどこかのラジオ局から流れているわけではない。たまにネット配信することはあっても、このカプカプがある横浜市旭区光ヶ丘団地の商店街にだけ鳴り響いているのが基本だ。でももう五年目にもなると、カプカプが運営する喫茶店の常連さんも含めて、この架空なのか現実なのかわからない「ラジオ」にちゃんと乗っかってくれる。「そう、今日はラジオの日なのね」と言いながらリクエストカードに曲を書き込んでくれる。

今回初めて試したコーナーのなかで、とても面白かったのは、Sさんというメンバーさんによる朗読番組。カプカプが運営する喫茶店の前にはバザーコーナーがあって、そこにたくさんの古本があるのだけど、Sさんはお昼休み、ご飯を早々に食べ終わったら、古本からめぼしい一冊を取り上げ、ベンチに腰掛けながら音読する。比較的最近始まったこの行為に興味を持ったまほさんが台本に落とし込み相談を持ちかけられた。どんな本を読むのかしら?と思っていたら今回はあのかつてベストセラーになった「チーズはどこに行った?」と定番童話「マッチ売りの少女」の2冊。僕も即興で音をつけながら放送をする。Sさんの発声は独特で、穏やかなんだけどちょっとカタカタと早口な感じ。でも不思議と急きたてるような感じのしない早口なのだ。ちょっと1.5倍くらいにテープを早回ししたようなカタカタ朗読が心地よく、ラジオブースの前に集まった人たちが彼女の朗読を聞き届ける。

また別のコーナーではKさんとTさんによる謎のスポーツが披露される。そのスポーツは、カプカプで毎朝日常的に行われるもので、濡れた新聞紙をKさんが箒でコロコロとまるめて、Tさんの持つちりとりめがけてシュートを打っては、入ったらその新聞紙が収められたチリトリをなぜかすかさずTさんからKさんに手渡して1ゲーム終了するというもの。しかも無言で淡々と。どっちが勝ったのか、そもそもこの二人は勝負しているのか、それとも味方同士なのかも判然としないけど、不思議と高揚感と緊張感が漂う。その様子を僕が即興で実況中継するのだ。これを読んでも、何言ってるのかまったく想像できないと思うけど、障害福祉の現場には本当にこういった独特すぎる行為の種があちらこちらに散りばめられていて、それを象徴するようなコーナーだった。

ところで先日、勤務大学のゼミ生から、「こだわり」についての関心を聞いた。彼女は演劇で制作さんをやっていて、演出家や役者のように比較的前に出る人たちでない、舞台監督や制作さんなどの日々のこだわりについてすごく興味があると言う。例えば、バミリ(出演者の立つ位置、舞台美術などを配置する位置にテープを貼るなどする行為)ひとつとってもどんな素材のものを使うかとか、誰も気に留めないかもしれないようなキャラクターのシールを貼るとか、チラシの挟み込みひとつとっても個々人で様々な創意工夫があったりとか、そういうこと。もちろん「プロフェッショナル」という文脈でその「こだわり」を説明することはできるだろうが、でも、それを聞いた時に僕自身は、「業界のプロの技」というよりは、その人そのものの持つ個性がその業界で求められるプロフェッショナル性に必ずしも収まりきらず、むしろ「そこまでする必要ないでしょ?」みたいな感じで溢れ出てしまう現象があるなら、それにこそ関心がある。

箒とチリトリと濡れた新聞紙による謎スポーツのことを書いていて、このゼミ生の話を思い出したのは、この異なる話題の間に何かつながりがあるからだろう(少なくとも僕の中では!)。おそらく、僕らは「こだわり」という言葉ひとつとっても、「役に立つこだわり」と「役に立たないこだわり」とに、知らずと分けてしまっている気がする。カプカプはそこに通う知的障害のあるメンバーさんたちにとって「仕事」の現場でもある。でも、おそらく効率的に手際良く仕事を行うなら、KさんTさんの謎のスポーツのような掃除は「無駄なこと」になるかもしれない。でも、狭義の「仕事」とはまた別のまなざしから捉えられることで、こだわりは違う光を放ち始める。その光を見つめた先に現れるのは、「仕事」とか「学校」とか「家庭」とか「趣味」とか様々な役割や時間や場所に区切られた一人一人の多面性の奥底で共通して流れる、より正確には、止めようもなく流れてしまっている「大切な何か」の一角ではないか。とりとめのなさは、軽さとイコールではない。だからといって「重くて価値がある」とか言ってしまうと、また、それはそれで「価値があるとされたから価値がある」という規定のモノサシ、つまり「評価の罠」にはまってしまう。世知辛い社会のなかで綺麗事ばっかり言ってられないかもしれない。でも、時には「評価」という思考回路を通らずに、ただそのまま「気になるから近づきたい」という感覚を大事にしたい。自分が評価される側にたってみても、そうだ。放っておきつつ(おかれつつ)、ちょっかいを出し(出され)、また日常にただあるがごとく放たれる。むずかしい!その塩梅を常に考える。




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