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「自分にしか出来ない仕事」はあっちゃいけないんだ、という話。

システムエンジニア時代の最後、「仕事を辞めよう」と思った瞬間の事は、今でもよく覚えている。打ち合わせの後でいつものように自販機の前に行き、小銭を入れて、そこで飲み物を選ぶことが出来なかった、あの時だ。

いつもと同じ缶コーヒーにするか、違う缶コーヒーにするか、あるいは別の何かにするか――いつもと同じ自販機の前で、いつもと同じように飲み物を選んでボタンを押す、ただそれだけのことが突然できなくなった自分に気付いた瞬間、「私はもう無理だ」と、閃くように悟った。

最後に土日をしっかり休めたのがいつだったかを思い出せないほど、休日出勤と残業が続いていて、しんどい・疲れた・休みたい、と思ってはいた。
先々月には酷い眩暈に悩まされて、何とか半休を取って耳鼻科に行き、片耳の聴力が落ちていると言われてビタミン剤を処方され、10日ほどで治っていた。
直近一か月ほどは、自分の性格が変わったのかと思うほど激昂しやすくなっていた。しょっちゅう電話越しに上司と怒鳴り合いながら、データセンターの金属床を拳でガンガン殴っている有様で、ドン引きしているに違いないチームの後輩達に申し訳なく思っていた。
一週間ほど前からは、サーバー作業中に突然過呼吸を起こし、それからほぼ毎日、過呼吸発作が起こるようになっていた。

その日の打ち合わせでも過呼吸は起こっていて、他社の担当者さんへの説明中に喋り続けることが出来なくなり、説明を中断せざるを得なかった。「すみません」と過呼吸の隙間に謝りながら必死に呼吸を制御し、2,3分で発作を収めて打ち合わせを再開して、辛うじて終えることが出来た直後だった。
しかし、それでも過呼吸そのものは大したことじゃないと思っていた。過労とストレスが原因なのは明白だったが、中高時代に吹奏楽部だった私はブレスコントロールには自信があった。他人の前で発作を起こして心配させるのは少々問題だが、そこまで重大な話じゃない、残業が減ればこんなもの、すぐに治るはずだ――と、そんな考えだった。

でも、自販機で飲み物を選ぶ判断力さえ失った自分が、マトモに仕事をできるはずがない。
そこだけは直感的に理解できて、次の瞬間に「辞めよう」と思った。
今の私がここにいても、役に立つはずがない。辞めようが辞めなかろうが、既に戦力外だ。ならばさっさといなくなって、別の人を補充してもらうべきだろう。

それまで一度も辞めようと思ったことなどなかったのに、躊躇なく決断出来たのは、新人時代から私に仕事を教えてくれていた、先輩の言葉があったからだ。

「俺にしか出来ない仕事は、あっちゃいけないんだよ。ないようにするのが俺らの仕事でしょ」

先輩が当時のプロジェクトを移動することになり、その後を私が引き継ぐと決まった時。当時、一人でやり切れる自信など全くなかった私はとてつもなく不安になっていた。「先輩の代わりなんて無理です!!」という私の泣き言を「無理なわけないでしょ、全部教えたし出来るじゃん」と笑い飛ばした先輩が、続けて言った台詞がそれだった。

「だから新原ちゃんも、『自分にしか出来ない仕事』は作っちゃ駄目だよ。人が入れ替わっても大丈夫にしとかないと、残った人が困るし、自分も動けなくなるからね」

今にして思えば、6,7歳年上だったその先輩のことを、私は兄のように慕って甘えていたのかもしれない。冷たく突き放されたようにも感じたその言葉は、企業や人の枠を超えて「システム」を残していくSEとしては、間違いなく正しかった。
その言葉を胸に刻んで、私は先輩がいなくなった直後から、先輩がそうしていたように、自分の後輩をマンツーマンで育て始めた。そして「私にしか出来ない仕事」が存在しなくなって間もなく、私もその仕事を後輩に譲る形でプロジェクトを移動した。

移動先のプロジェクトは新規の案件で、小さくともチームを束ねるリーダーとなった私の仕事を教えられる相手はいなかった。だが「私にしか出来ない仕事」が一つも存在しないよう、私は仕事をし続けた。上司でも見知らぬ誰かでも、チームリーダーを務められる人ならば、資料を見さえすればすぐに私の代わりを出来る状態を維持すること。それは私の誇りで、信念で、正義だった。

大丈夫。自販機の缶コーヒーを選べなくなった私が明日辞めても、誰か一人来れば仕事は回る。

先輩が言っていたのは、別にそういう事態に備えろという話ではないのは分かっていたが、その時の私にとって、先輩の言葉はこの上ない勇気となった。SEとして「『私にしか出来ない仕事』は存在しない」と言い切れる仕事をしてきた、その一点だけについては、誰にも負けない自負があった。

その日の残りを資料整理に費やして、私は翌日やっぱり過呼吸を起こしながら、チームメンバーや上司たちに休職を宣言した。そしてそのまま半年ほど休職しつつ、その間にさっさと地元に引っ越しを済ませて、年度末に退社した。
私が抜けたプロジェクトがその後どうなったかは曖昧にしか聞いていないが、どうあれ何とか終わったらしい。
いきなり休職したことで迷惑をかけた事実は変わらないが、私はあの時に出来ることは全てやった、と今でも胸を張って言える。実際に来た後任の誰かが、どのぐらい苦労をしたかは分からない。だが私が辞めた時点で、私にしか出来ない仕事は一つもなかった。それだけは絶対に確かだった、と言えるからだ。


それから十年以上が経った今、私は専業主婦をしているが、やはり「私にしか出来ない仕事」は、基本的に存在しないようにしている。
子供の「母親」という仕事だけは代わりが効かないが、精神面での支えを置いておけば、物理的なことは全て何らかの手段で代替が効くし、そうであるべきだと、今も信じているからだ。

私は「個」を持つ人間としての生を歩んでいくが、「子育て」という仕事は、鳥類と哺乳類が古来から採用している「システム」だ。
子供が私という個人とずっと繋がりを保ちたいと思うなら、それを拒む必要はない。だが「母と子」という役職上は、私は子供から見て、いつか必ず「いてもいなくても構わない」あるいは「不要」にならねばならない。
私が自然かつ当然に、子供よりも先に老いて死んでいく以上、子供がいつまでも「母がいなくては生きていけない」ままでは困るのだ。

やがて子供が大人になるまでに「ママでなければできない仕事」が何一つないようにすること。
家事や家計管理、体調管理は勿論、重要な決断や精神面のケアも含めて、子供が自分でそれらを行えるようになるか、代替手段を獲得しておくこと。
これが、今私がチームリーダーを務めている「子育て」というプロジェクトの到達点だ。全てが子供に引継ぎ可能となった時、私は「子育てを終えた」と言えるようになるだろう。

「私にしか出来ない仕事はあっちゃいけないし、ないようにするのが私の仕事」。
システムエンジニアから専業主婦となった今も、先輩から貰ったこの言葉は、私の仕事における、譲れないポリシーである。



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