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「ポンコツな母」という職に就いている、という話。

私の職業は「専業主婦」である。
つまり仕事内容は「専属のハウスキーパー」であり、同時に私は子供がいるので「母親業」がプラスされる。

つまり、私はプロなのだ。
仕事には誇りを持つべきである。

よって、私はプロ根性を発揮する。
先日スーパーで購入した半額シール付きの、「冷やしラーメン」だと思っていたものが、いざ開封する段になって実は「冷やし中華」だったことに気付いても、怯んではならない。

完全に冷やしラーメンのつもりで、同じく半額シールのついたメンマも買って来てしまったし、今まさにワカメを水で戻し、ゆで卵をゆでて切って、チャーシューも切ってしまった。具材はこれにするしかない。
とりあえず、冷やし中華のタレが「醤油味」だったのでギリギリセーフである。ゴマだれだったらちょっと困る所だった。
若干タレにすっぱさはありそうだが、まぁまぁいけるだろうと判断して、お湯を沸かしてある鍋に麵を投入して茹でてから水で冷やす。
皿に麺を盛り付け、ラーメン用の具材一式を乗せ、「冷やし中華・醤油味」のタレをかけて、昼食が完成した。夫と息子を呼ぶ。

「今日のお昼は何ぽよー?」

「ラーメンっぽい具の乗った、冷やし中華です」

「………。つまり、何だぽよ?」

「まぁまぁ気にしないで。冷やし中華です」

堂々と言い切ることが大事である。私はプロなのだ。

「お、ラーメン?」

「っぽい具の乗った、冷やし中華。買ってきたの勘違いしちゃってて。まぁ気にしないで食べて」

「………?」

遅れて食卓に現れた夫にも同様の説明を繰り返し、自分も座って「ラーメン風冷やし中華」を食べる。

ま、まぁ違和感はあるがいけなくはない。いけなくはないのだから、セーフである。少なくともアリかナシかで言えば、アリだ。
動揺などしていない。私はプロである。

「なんだかしょっぱいぽよ~」

「それは私の責任ではなくて、メーカーの責任です。麦茶飲む?」

「メーカーって何だぽよ?」

「この麺とタレを作った会社。えーと、袋を見るにシマダヤだね。で、麦茶飲む?」

「つまり何ぽよ!分かんないぽよ!」

「まぁまぁ気にしないで。麦茶飲む?しょっぱいの治るよ」

「飲むぽよ」

麦茶をコップに入れて息子を黙らせ、麵をすする。確かにちょっとしょっぱい。だが本来の冷やし中華なら、具はキュウリやトマトや錦糸卵などのはずで、そう考えるとこのしょっぱさは、チャーシューやメンマやワカメという具材チョイスのせいなような気もしてきた。シマダヤに全責任を負わせてしまったことに、若干の罪悪感を感じる。ごめんよシマダヤ。

私は割とポンコツで、この手のミスは日常茶飯事である。
この前日には、息子の夜尿症の薬を貰いに午前中に病院に行ったのに、保険証や診察券などの病院セットを入れた手提げ袋を丸ごと忘れて、それに病院の入り口ドアを開けるまで気付かなかった。
診察時間の兼ね合いで仕方なく夕方に出直すことにしたのだが、ここからがびっくりな所で、なんと2度目に出かける時にも、全く同じものを忘れたのだ。
辛うじて車にエンジンをかけた所で気が付いて取りに戻ったので、二度目はギリギリセーフだった。ギリギリセーフだし誰にもバレていないのだが、いくらなんでも一日の内に全く同じ失敗を繰り返すというのは流石に、ポンコツ過ぎて笑ってしまった。

こういうポンコツをやらかす自分について、以前はいちいち自己嫌悪に陥っていた。
しかし最近は、実は割と気に入っていたりする。

何と言えばいいだろうか。自分のポンコツを面白がれるようになってきたというか、まぁ大した被害が出てるわけでもないから良いじゃん、みたいな。
自虐といえば自虐だし、自己正当化といえば自己正当化なのだが、えーと、その、アレだ。この手の「大して実害のないポンコツ」は、逆になんかこう、良いような気がしてきているのだ。

私は専業主婦で、母親で、だからプロだ。
でも「デキる母親」ではなくて「ポンコツな母親」という職業をやっている。そういうつもりで最近生きられるようになってきた。

ほんの数年前まで、私は「自分の母親のような母親」になろうとしてきた。
そうでなければならない、と心の底から信じていた。
「自分の母のように」家の中を隅々まできれいに掃除をし、空に太陽がある限り洗濯物や布団をくまなく日光に当てて、それを楽しめるような。
庭の草取りをし、ご近所さんと世間話をして誉められ、庭に四季折々の花が育つのを生きがいに出来るような。
子供の勉強を毎日みっちり見て、親の言うことを確実に完璧にきっちり聞けるよう子供を躾け、そんな子供と一緒に過ごす時間を楽しめるような、そういう母親を目指すべきだと、そうならねばならないと信じていた。

しかし、私にはそういう適性が全くなかった。
社畜適性が高い反面、主婦適性の低い私は、掃除も洗濯も料理も草取りも好きではないし、親より年上のご近所さん達と立ち話なんて苦行でしかない。息子に言う事を聞かせることが出来ないわけではないけれど、呼べば10秒以内に来るように躾けることなど出来ないし、箸の持ち方が出来ないぐらいで息子を引っ叩いたりしたくない。
息子のテストが80点でも、出来ていない箇所が単なる計算ミスだけなら、自分のエネルギーと時間をかけてまで、嫌がる息子に教えたくもない。息子が良い点を取りたいと言うなら協力もするが、そうでないなら別に、極論では成績などどうでも良いとすら思っている。
息子の遊びに一日中付き合うなんて出来ないし、私のすることに息子を付き合わせたいとも特に思わない。

そんな私は、「私の母のような」母親には到底なれるはずがなくて、だから私は母親には向いていないのだと、子供を持ったこと自体がきっと間違いだったのだと、そう思ってきた。

でも、違った。
違ったのだ。「母と私」の関係は適切とは言えなかった。
つまり「私の母のような」母親になる必要などないし、むしろ、なってはいけないのだ。私が母と重なる特徴を持っていても構わないが、少なくとも「息子と私」の関係性は、「私と母」の関係性と同じになってはいけない。

それに気付けて、飲み込めた私は、徐々に肩の荷を下ろすことが出来るようになってきたと思う。noteを書き始めてから、その「肩の荷を下ろす」速度がさらに上がっている感じがする。

ならば、どんな母親になればいいのか。そこは今もよく分からない。
分からないけれど、私と息子の関係性が「少なくとも毒でない」範囲ならば、何でも良いはずだ。息子の安心や安全、自由意志の表現などを脅かさなければ、多少の不都合は構わない。

私は考えるのは割と好きだが、家事は苦手で、結構ポンコツな人間だ。
だから、息子が大人になって母親について考えた時、「掃除も洗濯も料理も好きじゃない、結構ポンコツな母親だったけど、別に害はなかったな」という感想が残れば正しいし、十分だし、万々歳だ。
それに気付いた。気付けた。

「ポンコツだけど無害だった母」の方が、「物理的には完璧だけど、毒だった母」よりずっとずっと良い。むしろ子供目線で言うなら、「物理的に完璧で、無害だった母」よりも良い可能性まである。

そして、私には「ポンコツな母」の適性ならば十分にある。
「ポンコツな母」というのはそれだけで、私の母のようなパワハラ・モラハラ系毒親にはなりにくい。子供から見てもツッコミどころが満載過ぎて、権威を保てないからだ。
ポンコツでも別のタイプの毒親にはなり得るだろうが、私がなってしまう危険性が高いのは「母のコピー型」毒親か、ネグレクト・無関心系毒親のはずだ。「母のコピー型」毒親になる危険性を潰せれば、気をつけるべきは無関心だけである。

だから、私が素のままで振舞った結果、ポンコツな母親になるのは、リスク管理の上からも有用なのだ。――と正当化する必要も、本当はないのだろうけれど。

どうあれ、今の私は「ポンコツな母」という職業を、かなり楽しくやれるようになってきたように思う。

ポンコツで良い。ポンコツが良い。
母のコピーでなく、誰かの「理想の母親」でもなく、「私」という母親をやれれば、良いはずだ。

ポンコツな母と上手くやっていく方法を――あるいは「上手くやらない」という方法を、息子が編み出してくれることを願って。
私は堂々と胸を張って、プロの「ポンコツな母」を名乗り、今後もやっていこうと思っている。

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