見出し画像

対話に価値はあるのか

対話や会話に価値はあるのか。

先に言っておくと、個人的には価値はあると思ってます。
ただ、「対話って大事だよね」とか聞くと、いつも思ってしまうことがあるのです。

1)価値を証明することはできないのか

本当の意味で客観的に対話を聞くことはできないし、客観性なんてそもそも幻想ではないかという話もあるのですが。

十ン年前、コーチングやファシリテーションの効果が研究対象でした。
そのとき用いたものっていうと、アンケート結果、経験者が語る理論、またはケーススタディでした。
そこから統計したりシミュレーションしたりゴネゴネしてたのですが。
答える側、観る側の意思が色濃く入ってしまう。
アンケートは聞き方次第なところああるし、ケーススタディや経験者の言葉ってどうしても、慣れた人の理論が背景にあるわけですよね。
それを再度、数理的な分析に置き換えてもなあ、なんて思っていたわけです。

それが、今やデータが溢れている。
SNS、チャット、Zoom会議にそれを議事録化も自動でしてくれる。
アンケート集計やケーススタディなんていう加工されていない、より生のコミュニケーションデータが溢れているわけですよ。
とてもリッチな時代が来ましたね。羨ましい限り。

最新の動向を追ってはいないですが、今研究も発展しているんでしょうね。
まだ、トレーニングを受けられるような対話やコーチング手法は、過去のトップスターたちの理論をベースにしたのが主流かなあと感じています。
これ、もしかしたら近日中にくつがえされるのはないか。もしくは証明されるのではないかなんて。

自分が救われたからとか、熟練者が言ったからだけではなく、
「〇〇のような対話が行われると、一定の確率で〇〇が起きる」とか
「対話の中でも〇〇の瞬間に、皆の意見が変わるんです」
だから対話って価値があるんです。
というようなことが言えてもいいんじゃないかな。
客観的に観察して言えること、発展させられることがもっとあるのではないかと。

2)まとめられないハイスキル

まとめたり、要約したり、可視化したり。素晴らしいスキルだと思います。
ほんと、いろいろ助けられています。ではあるのですが。

書籍、論文等々、研究室・ゼミなどで喧々諤々した結果が、ロジカルにまとめられて発表されるのだと思います。
この後半の「まとめる」という過程において、スキルのあるなしが大きく影響してしまう。なんならネタがどうしようもなくとも、言いよう、表現方法でよく見えることがある。
なので表現力のある人というのが、より高度な思考を持っているかのように見えてしまう。

でも、この喧々諤々の過程において、ある一言やあるアクションがその発見につながっていることがある。
もちろん、その後まとめあげる人も賞賛に値するのですが、ディスカッション上において、この刺激を与える行為もまた素晴らしい能力なのではないかと思います。

誰かの発言が、次の人の考えを生んで、発展していく過程。
この対話の価値が、もっと明らかになるといい。

まとめと宣伝

対話型で進化型組織を研究するevOrg(エヴォーグ)というのに参画しているのですが、その対話をそのままnoteにしております。

いやいやこんな意見もあるだろうと想起される人がいるなら、誰かがこれを解析に使うなら、それもまた価値があるのだろうと思います。
まだ有料記事が半分を占めるというアグレッシブすぎる状態なのですが、なんか起きるかもなくらいの期待がてら、有料記事に応援いただけたら、参加者全員、両手をあげて喜びます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?