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『ヒーローと正義』を読んだ

今日も今日とてドンブラザーズ絡みの話ですわ!

現在放送中の『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』や、平成仮面ライダーシリーズを手がけた東映プロデューサー、白倉伸一郎の著書を読みました!

ヒーローとは、正義とは何か。怪人もヒーローも、人間社会を超越する混沌の存在である。では両者を分ける基準は何か?それは「わたしたち」人間の共同体に属しているか否か、である。

「あいつら」の混沌を秩序の力で解体し、「わたしたち」側の混沌へと屈服させる行為こそが、ヒーローの営みとして描かれてきた。

しかし、人間の歴史の中で繰り返されて来た、「わたしたち」と「あいつら」の二元論的な対立、そして、「あいつら」を「わたし」という一元的原理で秩序づける営みは、世界がすべて「わたし」になるまで終わらない。

それならば、わたしたちが為すべきことは、世界や他者という混沌を、混沌のまま受け入れること、「わたしたち」と「あいつら」の間に境界線などないことを認める勇気を持つことである。

…といった内容の本でした。合ってる?

この間、『現代思想入門』を読んだので、あっ!二項対立、脱構築、デリダのやつ!と思いました。ちゃんと覚えてて偉い!

2004年の本か…。ほぼ20年前の本ですね。白倉P個人の当時の考えに過ぎないし、番組はいろんな人が関わって作っているものなので、この本の内容をそっくり番組に当てはめることは出来ないんだろうけど、今、ドンブラザーズという、人間の混沌の奔流のような番組を手がけているのも納得だな、とは思いました。

ドンブラザーズって、境界を超えた(=怪人化した)他者を許し、受け入れる為に戦っているので、白倉イズムど真ん中なのかもしれない。

なんか、こういうクリエイターの思想が強く出た本を読むと、「この思想に沿った作品だから、この作品は優れている」みたいな評価軸になってしまいそうで、ちょっと怖くなってきちゃった。それも一つの一元化なんじゃないか?


この本が出た当時の僕は小学生だったので、社会的背景を知らずに平成ライダーを見てきたので、屈託なく純粋に物語を消費することが出来た。

でも、こういう批評的な本を読むと当時の世相を踏まえた読解が出来て、また違った楽しみ方が出来る様になる反面、その世相からこういう表現になるかね?的な疑問も出るわけで…。

僕はずっと『仮面ライダークウガ』が好きだったんだけど、この間読んだユリイカも、宇野常寛の『リトルピープルの時代』も、そしてこの本でも、クウガってあまり良い作品として評価されていないんですよね。

それは、「大きな物語」が成立しなくなった時代に、暴力的に物事を解決する主人公という欺瞞を抱えながら、説教臭い道徳を説くことで大文字の正義に縋っているところとか、少年犯罪に対する過剰に批判的な表現とか、まあ、そうやって説明されると確かにあんま良くないよね、というのは理解できる。

でも、クウガ、好きだったんだよな。説教臭いことを自然な笑顔で言えるオダギリジョーの演技とかさ、警察機構とか古代文明とか、ディティールの細かい理由づけがあってさあ!

まあでも、そういうものを楽しむ気持ちも同時に持ってて良いんじゃないのかな、こういう作品も人間の混沌の産物なのだから。

そういうことなのか?そういうことにしておくか…。

最後に、この本の最後の方に書いてあった、かっこいい言葉を書こうかな…。

「ヒーローたちよ、混沌であれ!」

…かっけ〜!!!

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