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読書は決して穏やかな趣味じゃないぜ?

はじめまして。カタクリタマコです。
小さな町の図書館で、司書として働いています。
趣味は読書です。よろしくお願いします。

はい。ここであなたに質問。
今、あなたの頭の中に浮かんだ「カタクリタマコ」像ってどんなんですか?

おそらく八割がたの人が、黒髪、メガネ、紺かグレーのセーターに黒のスカートを合わせちゃう感じな地味子で、声は小さめ。クソ真面目というか、単に頭が固くてたぶん卑屈、休みの日は家から一歩も出ない超インドア派な、イマジナリーフレンドはいっぱいの陰キャを想像したのではないだろうか。

まあ、ほとんどそんな感じなんだけれども。

読書が趣味で、本に囲まれて生活しているのだというと、大抵「真面目でおとなしい人」に分類されてしまう。
静かな湖畔の森の影から、お紅茶とスコーンの入ったバスケット引っ提げて、ぬうっと現れそうな、そんな感じらしい。
じめっとした森の中に坐って、じっと文庫本を読んでいる、それが私らしいのだ、知人のおっしゃることには。

いやいや、ちょっと待てよ。
なんなんだ、その偏見は。
読書っていうのは、そんな「森の妖精さん」的な穏やかなもんではない。
森にいる生き物シリーズで言うならば、スズメバチさんかグリズリーさんだ。

本は、恐ろしいのだ。
そこに書かれた言葉たちは荒々しい。
こちらの心を揺さぶって、刺すし、噛むし、抉るし、殴るし、踏みつけもする。
非常に暴力的なのである。
そいつを手なずけてやろうっていうのが、読書だ。
大人しいわけがあるかい。

なかでも百冊に一冊くらいの割合で遭遇する、モンスター級の良書。
これにはもう細胞の全部がやられる。私が私でなくなる。
自分のそれまでの人生が、言葉によって切り刻まれ、大きな鍋にぶちこまれ、ぐつぐつ煮込まれ、新しい料理へとメタモルフォーゼされる。
昨日の肉じゃがが、今日はコロッケになって出てくる。
そんな感じ。
本を読む前の私と、読み終えた後の私では、確実に違っている。

破壊と再生。それが、読書だ。

こんなことを言いたくなったのは、
『人類の深奥に秘められた記憶』
(モアメド・ムブガル・サール著 野崎 歓 訳 集英社)
を読んだせいである。
この本を読んでから、読書というもの、文学というものについて、私はずっと考えている。

『人類の深奥に秘められた記憶』は、文学に翻弄される人々を描いた長編小説である。
登場人物全員が、『人でなしの迷宮』という幻の本によって、人生が狂わされていくのだ。
まるで、『人でなしの迷宮』自体が悪魔的魅力に満ちた美女で、その美女をめぐって破滅していく男たちを描いた小説であるかのよう。
この小説のヒロインは、『人でなしの迷宮』という文学作品なのである。
登場人物全員が、『人でなしの迷宮』に激しく恋をしている。

その様が、いい。
生半可な恋ではなくて、命がけなのだ。
どんなに傷つけられ、拒絶されても、泣いて縋って追いかけ続ける。
文学は、人生そのもの。
文学を失ったならば、生きる意味などない。

うわああああああ。
なんという一途な覚悟だろう。
この小説の舞台は現代だが、まるでシェイクスピア劇を見ているかのよう。
登場人物全員が、あまりに苛烈。激烈。
悪く言えば、全員イカレテル。
だからこそ、私は彼らが羨ましくてならない。
そんなふうに、自分を見失ってしまうほどのめり込める文学作品に出会えるなんて。一生に一冊、出会えれば奇跡なんじゃないだろうか?

私が本を読み漁るのは、『人でなしの迷宮』みたいな一冊を探しているからだ。
私は、打ちのめされたい。
私は、制御不能なくらい、文学に狂いたい。
私は、文学に喰われたい。
そして、文学の一部になりたい。

読書好きな人間は、みな、同じように彷徨っているのかもしれない。
冒険者なのかもしれない。
自分を熱狂させてくれる一冊を探して、読んで読んで読みまくる。
その果てに、最高の一冊と出会えたならば、もう、身も心も捧げたってかまわない。

読書が穏やかな趣味だと思っている人々は、まだ知らないのだ。
図書館なり、おしゃれなカフェなり、電車なりで本を読んでいる人間のその内面で何が起きているのかを。
彼らはみんな、叫んでいるんだぜ。
飛び跳ねているんだぜ。
時には、鋭いジャブくらって血反吐はいているんだぜ。
読書ってのは、言葉と自分のタマシイとの殴り合いなんだぜ。
うそだと思ったら、読んでみな。
人類の深奥に秘められた記憶』を。

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最後までお付き合いいただきありがとうございます。 新しい本との出会いのきっかけになれればいいな。