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アフガン国境行き夜行列車

最後の記事を書いてから5か月も経ってしまいました。本当は下記に書いたもうひとつのブログを続けて、そちらを中心にするつもりだったのですがうまく続けられず、こちらのブログも止まってしまっていました。

とはいえ、書きたいことはときどき出てきますので、もうひとつのブログのほうを閉鎖して、こちらのnoteにふたたび戻ってこようかなと思います。今はその準備のために、もうひとつのブログのほうで少しだけ書いた記事を以下に、転載します。

2022年5月10日に投稿した「アフガン国境行き夜行列車」と同6月25日、26日に投降した「2年半ぶりのテルメズ遺跡めぐり」です。次の段落からそれらの記事の転載です。

「アフガン国境行き夜行列車」

中央アジア、ウズベキスタンの首都タシケントから4泊5日で、同国南部に位置するテルメズ市に行ってきました。なぜテルメズに行くことにしたのか、テルメズとはどういうところかといった説明はこれからおいおい書いていきます。まずは今回のテルメズ行きについて書いてみました。


4月21日(木)
テルメズ行き夜行列車は夕方7時25分、タシケント《南》駅発。本当は翌朝の飛行機で行くつもりだったがすでに満席だったのか、航空会社のサイトでその便が出てこなかったため、前日から夜行列車で行くことにしたのだった。

1時間前には駅に着いておこうと18時過ぎに自宅のアパートを出た。駅に着いて、乗車前に夕食を済ませようと駅舎の2階にあったファーストフード風の店に入るが材料がなくて食事は何も作れないらしく、さも当たり前のように、コーヒーを飲むのか砂糖はいるかいらないのかと店員から注文を取られる。呆気に取られたが別の店に移るのも億劫でとりあえずコーヒーを飲んで落ち着く。

タシケント《南》駅
停車中のテルメズ行き夜行列車
車両に掲げられた行先表示板

コーヒーを飲み終え、並びの食料品店で水と菓子パンのようなものを買い、プラットホームへ。余裕を持って駅に来たと思ったがもう出発まで30分もない。幸い、列車は一番手前のプラットホームに停まっており、自分の車両を見つけて車掌に切符を見せ乗り込む。座席は予約したときに車両の中央あたりのコンパートメントにしてあった。自分のコンパートメントを覗くとすでに4人座っている。コンパートメントは4人1室なので、あれと思って自分のチケットを見せると、ひとりは別のコンパートメントから話に来ていただけのようで席を空けてくれる。7時25分、定刻通りに列車は出発した。

コンパートメントの4人の乗客のうちふたりが大学の先生で、その人たちを敬わないといけないような組み合わせ。列車が動き出してもあまり会話が弾まない。ふたりの先生が夕食を食べ始めたタイミングでもうひとりの客は部屋を出て行った。私も廊下に出て車窓からの風景を眺めることにする。しかし1時間ほど走ってシルダリア州グリスタンを過ぎると車外の明かりがめっきり少なくなって真っ暗になる。タイミングを見計らって部屋に戻るとすぐに2段ベットの上段の自分の席によじ登り、横になった。

持参したKindleで本を読んでいるとすぐに眠くなってきたので早々に寝てしまう。ただ途中、電車が止まるごとに目が覚める。サマルカンドは分かったが、ほかの駅はどこなのか探る気力がなく起きてはすぐに寝入ってしまう。途中どこかの駅でプラットホームから日本語が聞こえたような気がしたが、夢だったかあるいは(『地球の歩き方』で1ページだけ割り当てられている)山あいの町ボイスンに行く観光客だったか。

4月22日(金)

7時ごろ起床。朝食は年長の大学の先生と一緒に食べる流れに。今はイスラームの断食月だがこの先生は断食をしていない。ソ連時代もそうだが、ソ連からの独立後も25年間にわたって世俗主義を守ってきたこの国ですごして来た世代にとっては断食しないほうが自然なのだろう。この点で世代間の断絶がかなりある。

朝食のあとは例によって廊下に出て外の風景を眺める。すでにスルハンダリア州に入っていて砂漠の風景が続く。しかしまったくの砂漠ではなく、まだらだが草が全体的に生えている。乾燥に強い草なのだろう。

スルハンダリア州を行く列車から見た景色

9時30分ごろテルメズ駅着。何かのスポーツ大会に参加した団体が乗っていたのか、それを歓迎するユニフォームの一団が笛、太鼓とともにプラットフォームで出迎え。私は人混みを避けようと他の人たちがだいたい降りてしまってから列車を降りた。通常の客の出口は改札も何もなく、ただ鉄製の扉が開け放たれているだけの素っ気ないところである。知り合いのテルメズ大学のS先生が若い先生(Aさん)を迎えに送ってくれていた。Aさんと無事に落ち合い、車でホテルまで連れて行ってもらう。

ホテルにチェックインし部屋に荷物置くとすぐ、Aさんがふたたび車で大学に連れて行ってくれる。ホテルからテルメズ国立大学は車だと5分ほど。とても近い。

最初に講座長のS先生の部屋に行って挨拶。部屋に入る前に、テルメズでの考古学調査で旧知のZ先生に声を掛けられる。その後、講座室で講座の先生たちに紹介される。S先生から大げさに紹介されむず痒いが、私のようなどこの馬の骨とも知れぬ者を大学で受け入れてもらうためにはいろいろ「話を盛ら」ないといけないだろうことは分かるので大人しく座っていた。

紹介が終わった後、ひとりの中年の先生が近づいてきてお前は煙草を吸うのかと私に質問した。いや吸わないと正直に答えたが、ああ違ったと思い直し、普段は吸わないが皆が吸うときは一緒に吸う、と答え直した。日本では煙草が害悪と見なされ愛煙家の肩身はどんどん狭くなっているようだが、こういう国ではまだ多くの男性が煙草を吸っているし一服しながら雑談をするというのが必要なコミュニケーションと思われているようである。2年半前に日本でのシンポジウムにウズベキスタンから招待された先生たちに同行したことがあったが、予定の合間にデパートで買い物したときひとりの先生が煙草を吸いたいと言い始めたので唯一喫煙場所のあった屋上まで上がってその先生と一緒に煙草を吸ったが、それも一種の付き合いであった。

続いてS先生が私を大学執行部に紹介してくださるというので大学本部の建物へ。S先生の元学生だという研究・イノベーション担当の副学長にはすぐに会えたが、私の受け入れでおそらく重要な意味を持っている国際担当副学長が、学長との会議に呼ばれていて全然帰ってこない。結局1時間半ほど待ってようやく話ができる。

穏やかそうな若い女性の副学長で、CVを見ています、ビザは問題ありません、とのこと。この町でテルメズ国立大学は権威があるようで、公的な手続きなどはスムーズにできそうな印象を受けた。

その後はS先生と学内の食堂で昼食を取る。学食といっても、調理場は屋内だが日よけのある屋外にテーブルが並べてあるという造り。S先生は先に学生に命令して場所や食事を用意させている。学生は素直に言うことを聞いているが彼らは断食を守っているので食べない。申し訳ないなと思いつつS先生と食事する。S先生は来るときの列車の年長の先生と同じくソ連を生きた世代で断食はしていない。ロシア語が苦手で私と話そうとしない学生に対してS先生は話し始めた。

S先生はかつてサマルカンドにある考古学研究所で働いていたそうだが若き頃、そこから数ヶ月、当時のレニングラードに派遣されたそう。レニングラードに行くと、真面目なS先生は図書館に籠ってずっと本を読んでいた。自分の先生と電話で話したときにそう報告するとその先生は「おい、本なんかサマルカンドにあるから、お前は町に行って、女の子とダンスでもしてなさい」と言ったそう。そのときレニングラードはちょうど白夜のころで、夜遅くまで明るい町に繰り出してロシア人は遊んでいる時季。それでも真面目なS先生は図書館に籠って本を読んでいたが、数週間後に自分の先生と電話で話したときにもふたたび、本なんか読まずに町で遊びなさいと言われ、仕方が無く町に出てロシア人とダンスして楽しんだそう。それまでロシア語は読めたがあまり話したことがなく話すことに自信がなかったS先生だったが、それをきっかけにロシア語で話せるようになったという話。

ロシア語に自信のない今のテルメズ国立大学の学生に、私とロシア語で話すよう説得するためにこのような話を持ち出したS先生。会話の上達法ということでは正しい話だが、今のウズベキスタンの学生はS先生の若いときと置かれている状況が違うので、この話を聞いて微妙な心持ちだったかもしれない。

ソ連時代、それぞれの民族共和国がありウズベキスタンもそのひとつだったが、実際のところはモスクワの指示のもとで動いており公的な場ではロシア語が使われていた。そのような社会ではヒエラルキーの上に行くためにはロシア語ができることが必須だっただろう。そして独立後のウズベキスタンでも初代大統領I.カリモフのもとではロシア語が公的な場所で使われ続け、公的な会議もロシア語でおこなわれていた。もちろん大統領自身もロシア語で話していた。

しかし今の、第2代大統領S.ミルジヨエフは公的な場所でウズベク語を話しはじめた。彼はカリモフ前大統領のもとで首相の地位にあったので、当然そのときはロシア語で話していたはずだが、自分の治世になると方針を切り替え公的な場での使用言語をウズベク語とした。役所での文書ではまだロシア語も使われているが次第にウズベク語の文書が多くなってきている。こうした社会状況の中で今の学生たちがロシア語を学ぶ動機は以前より下がっているはずである。

そもそも前大統領の時代ですら、地方からタシケントに来る学生はロシア語ができない人が多く大学に来てから苦労していた。首都タシケントはロシア語を話す非ウズベク人の人口が今でも約4割を占める(wikipediaにある2008年の統計による。一方、国全体人口における非ウズベク人の割合は2017年の統計で約16パーセント)。タシケントではロシア語が共通語として生きており、ウズベク人の学生でも幼いころからロシア語を話す機会があり、ロシア学校(ロシア語でロシア式の教育をおこなう学校)に行って教育を受ける人も多い。しかし地方ではロシア人が少数で共通語としてのロシア語を学ぶ機会も、必要も少ないであろうし、ロシア学校もタシケントほどは多くないだろう。

S先生はウズベクの歴史を学ぼうとすれば、先行研究がぜんぶロシア語なので必ずロシア語を学ばないといけないと話されていた。たしかにそれは正しいが、ウズベキスタン全体でロシア語が共通語の地位を失っていっており、この傾向は不可逆的なものであることを考えると、ロシア語だけでウズベクの歴史を学ぶ時代は終わりを迎えつつあるだろう。

これからの時代はウズベク語でウズベクの歴史を学べるようにしていく必要がある。しかしウズベク語による先行研究が少ないのならば、ロシア語の先行研究も引き続き読まないといけないのも当然である。ただロシア語は読めればよいということになるので、ロシア語との付き合い方は変わってくるだろう。一方でこれまではロシアの学界のみを向いていたのでロシア語だけで研究すれば良かったが、今後は他国の研究者とも付き合うために、英語やその他のヨーロッパ諸語での研究も理解していく必要があるだろう。

S先生は9月から私が担当することになる授業はロシア語でやればいいと言い、普段もロシア語で話して学生の刺激となってほしいという意向だったが、このような今の状況やまた実際のところ学生たちがロシア語があまりできない様子を見ると、私のほうがウズベク語をよく勉強して自分の考えるところを伝えていかないといけない。そんなふうに今回のテルメズ行きを終えて思っている。

S先生はさすがに忙しいと見えて昼食後は足早に立ち去られた。その後はS先生に指示された学生が大学構内の案内を私にしてくれることに。

まずは図書館へ。3階建ての真新しい建物(改装しただけかもしれない)だった。それぞれのフロアを案内されるが開架されている本は教科書のようなものばかりで、日本の大学図書館に並んでいるような専門書は見当たらない。もちろん閉架になっている本もたくさんあるのだろう。ただ、どのフロアの司書の人たちも一様にその開架されている本を熱心に紹介してくれたということは、これらの本が中心なのかもしれない。

続いて寮を案内されるが女子寮。困惑しながらも見せてもらうが、1階や地階にある共用スペースの図書室、娯楽室など。本来は、9月に私がテルメズに来た時に大学寮の中にゲストハウスのような外国からの研究者が泊まれる施設があるので、私もできたらそこに入ったらどうかというS先生の話で、そのゲストハウスを見せてもらう予定だったのだが、おそらく学生たちはゲストハウスについて良く知らずどこでもいいから寮を見せれば良いと思ったのだろう。

いくつかの建物の前を通るが中には入らず、何の学部であるかだけ紹介される。テルメズ国立大学は学生数26,000人以上の大きな大学で学部が14もありキャンパスもここだけではないという話だが、物理・数学学部、英語学部やロシア語学部などの外国語の学部などを通る。

最後に博物館があるというので何かと思って連れられていくと、いわゆる「抑圧犠牲者追悼博物館」だった。タシケントのテレビ塔の近く、ボズス運河のほとりに「抑圧犠牲者追悼博物館」がある。そこには、帝政ロシアが中央アジアを植民地化して以降ソ連時代にかけて、ウズベクの人々がどれだけ政治的に抑圧され犠牲となってきたかをプロパガンダする展示が並んでいる。そのミニチュア版といえるような展示がテルメズ国立大学内にもあるのであった。もしかすると大学でそういう授業もあって授業の教材としてこの展示を使っているのかもしれない。

以前サマルカンド国立大学に行った際には、学内に複数の博物館があって正式名称とは違うかもしれないが、サマルカンドの歴史および大学の歴史を紹介する歴史博物館、考古学博物館、動物学博物館があり、とくに最後の動物学博物館は剥製が所狭しと並べられていて、私がサンクトペテルブルグで留学中に見た動物学博物館を思い起こさせ、帝政ロシアからソ連時代にかけてサマルカンドへ持ち込まれたロシアの学問伝統を髣髴とさせた。

テルメズ国立大学とサマルカンド国立大学では、その設立背景も歴史も異なると思われるので単純に比較できないが、サマルカンドのほうはヨーロッパ風の学問伝統の香りがあるけれども、テルメズ国立大学は国家によって設立され、国家に有意な人材を育成する機関という色合いのほうが濃いのかもしれない。全国の人口約3400万人のうち、人口約18万人にすぎない地方都市の大学に多くを求めてはいけないが、首都のコピーでなく国の出先機関でなく、大学らしく学問をする場所としての雰囲気を作っていくことが「ガイジン」教員には求められるのかもしれない。

大学見学が終わって16時ごろふたたびAさんに車でホテルに送ってもらう。部屋に入りひとまずシャワーを浴びて落ち着く。そういえば今日は夜行列車でテルメズに着いてそのまま大学を訪れたのだった。

ここに来るまであまり良く考えていなかったのだがテルメズはタシケントより暑い。日差しがタシケントより強く感じられる。そもそもウズベキスタン自体暑く日差しが強い地域なのだが、テルメズはそのウズベキスタンの中でも「一番暑い町」と言われているらしい。元来暑さが苦手で、冷涼なロシア、モンゴルと渡り歩いてきた自分は7年前、ウズベキスタンに住み始めてみて、来る国を間違ったと気付いたが今回はテルメズに来てみて来る町を間違ったことを思い知ったのだった。頭で考えればテルメズに来ることにいくつも理由を付けられるのだが自分の身体には合わない無理な選択をしていることを思い知らされた。

今日は屋外にあまりいなかったはずだがそれでも少し熱中症気味なのか少し頭が痛い。しかしAさんと一緒にホテルまで来てくれた学生のひとりが最後に、夕食を一緒に食べましょうと言ってくれていたのでこのまま寝てしまうわけにもいかず、短い時間でアラームを断続的にかけながらベットで横になる。そんな状態で休んでいると7時になり、8時になる。断食月なので学生が断食しているなら普通でも7時半か、8時くらいからしか夕食が始められないがその後待っても学生からの連絡は来ない。仕方がなく、来るときの列車で食べようと思って食べられていなかった菓子パンのようなものを食べて夕食とする。そしてそのまま寝てしまった。

4月から知り合いのウズベク人の日本語の先生たちと日本語読書会というのをするようになった。テクストは須賀敦子『トリエステの坂道』。私が須賀敦子が好きでウズベキスタンまで本を持ってきていたので、それを無理に読書会のテクストに選んでもらった。12のエッセイからなる本だが、本の題と同じ名を持つ冒頭のエッセイ「トリエステの坂道」を今、皆で読み始めている。初回に読んだ部分で出て来た表現で、参加者が気に入った表現が「……私は、まるで季節はずれの黒い小さな昆虫だった」。このエッセイにも、そして須賀敦子の文章全体にも通奏低音のように横たわっているのはふたつの文化を生きるジレンマだと思うが、この表現は詩人サバのことを理解したくてサバの生きたトリエステに夜の飛行機で向かおうとする筆者がミラノの空港で、ほかのイタリアの都市に向かう便とはまったく違う乗客の雰囲気に戸惑っている描写の中で、比喩として使われている。私はこの地域の歴史、文化、社会などを日本に紹介する仕事をほんの僅かでもできればという思いでテルメズに来ようとしているのであるが、そんなのは頭で考えていることにすぎないんだと嘲うように、現実は私とテルメズの社会との間にある大きな溝を見せつける。それを前に自分も須賀敦子のように「季節外れの黒い小さな昆虫」であると感じざるを得なかった。

「2年半ぶりのテルメズ遺跡めぐり」

4月23日(土)

この日ももし大学に行く必要があればと思って予定を空けていたが、結局大学に出ることはなく、S先生の講座の人たちがテルメズの遺跡を案内してくれた。

きのうは慌ただしくて余裕がなかったがひと晩寝てやっと、泊まっているホテルの様子を落ち着いて観察できた。このホテル「スルホン」はソ連時代からのホテルで、エレベーターはソ連式。旧ソ連の国々の文化・歴史を日本の読者に紹介した加藤九祚(きゅうぞう)の本『シルクロード文明の旅』には、氏が1991年5月にユネスコのシルクロード調査団の一員としてテルメズを訪問したとき、このホテルに泊まったという記述がある。

スルホンホテル
スルホンホテルの食堂・ロビー
スルホンホテルのエレベーター

7時前に起きて1階のレストランで朝食。朝食のテーブルには断食月中の、日の出と日没の時刻をまとめたカレンダーが置いてある。

さて今日は9時集合という話だったはずだが、Aさん始めみんなが来てくれたのは10時すぎ。9時半ごろ、今日も来てくれそうだったきのう最後まで付き合ってくれた学生Fさんに電話したが結局彼は来なかった。今日付き合ってくれた皆も自発的に案内してくれているのではなくてS先生の命令で案内してくれたのに違いなく、ウズベクの人たちのそういうところの内心を読み解くのはとても難しい。年長者や地位の高い人の命令が絶対的な社会なので、それによって各個人の本心は隠されてしまうことが多い。今日来てくれたのはAさん、Dさん、Mさん。

何はともあれ車で遺跡めぐりに出発。私自身テルメズに来たのはこれで4、5回目で、おもな遺跡はもう見ているのだが、コロナ禍のあいだは来れなかったのでテルメズ自体が2年半ぶり。久しぶりのテルメズ遺跡めぐりということになる。

テルメズ中心部から西北方向に郊外に出て、まずは1つめの遺跡、ファヤズテパへ。ここは1世紀ごろに創建され、5世紀には衰退した仏教寺院の遺跡。縦長(117×34メートル)の僧院と、僧院中央部の北東に隣接する仏塔(ストゥーパ)が組み合わさっている。

ファヤズテパの仏塔(ストゥーパ)
ファヤズテパの僧院
僧院から見た仏塔

ファヤズテパの次は同じく仏教遺跡のカラテパを見学。この遺跡はかつて軍の管理区域内にあったために事前に申請して許可をもらわないと立ち入ることができなかったが、2019年ごろからはそのような制限がなくなり、今はファヤズテパからつながる道路を通ってカラテパに自由に行くことができる。私自身は2019年9月にやっと見学することができたのだった。両遺跡は近く、車なら2、3分の距離だ。

カラテパは1~2世紀に創建されたとされる仏教遺跡(南北420m、東西250m)で、いくつもの建物が組み合わさって建造されているため「僧院コンプレックス(複合群、建築群)」と呼ばれている。

1998年から2016年までカラテパでの発掘調査に従事した加藤九祚は、この遺跡のうち北丘と呼ばれる区画の調査で、大ストゥーパと僧院が組み合わさった遺構の発見に立ち会っている。

カラテパ(北丘の僧院とストゥーパ)
カラテパとファヤズテパ
アムダリア川。奥の水面の向こうはアフガニスタン。

カラテパの後は古テルメズへ。ここは1220年のモンゴル侵攻まで、テルメズの町があった場所。いくつもの歴史的建造物のほか博物館もあり、また敷地全体は公園としてもきれいに整備されている。以前にも訪ねたことがあったが9月の暑い時期に来ることが多かったので、4月に来ると暑くなく緑も多くて美しく見えた。

古テルメズ(1)
古テルメズ(2)

今日の遺跡めぐり当初から、ズルマラの仏塔を見たいと同行してくれたテルメズ国立大学の人たちに言っていたのだが、どういうわけかその願いはスルーされ、古テルメズの後はテルメズの中心部に戻り昼ご飯ということになった。Iさんはなぜか古テルメズを出るところから合流。

断食月中なので、一緒に来ていても半分の人は食べず、Aさん、Mさんだけが私に付き合ってくれた。お店も断食月中で客があまり来ないようで閑散としている。シャシリクを焼いてもらって食べた。

食事の後はテルメズ考古学博物館を見学してその後解散。みんなはお客さんの接待から解放されてヤレヤレといったところだろう。車でホテルまで送ってもらう。その際、18:00にもう一度会って、シェラバット区の誰かのところに行くようなことを言われるが、はっきり分からず。

18:00ごろからホテルのロビーで待つが、誰も来ず。19:20ごろ、学生のFさんから電話があってようやく迎えに来てもらえるかと待っていると、Iさんが来る。そして車でAさんが来て、3人で夕食することになる。Fさんがどうなったのかはよく分からなかった。長くテルメズにいれば、いつかこのあたりの事情も察せるようになるのだろうか。

どこのレストランにするか決めるのに、静かなところと踊れるところがどちらがいいかと聞かれる。個人的には静かなところがいいが、一般的にウズベクのレストランはうるさくても踊れるところがサービスがいいと考えられているので、踊れるほうと答えた。

行ったのは「アジズベク」というレストラン。キーマ(ひき肉)のシャシリク(ケバブ)を食べる。おいしかった。Iさんは日本で働きたいという話を始めるが、これも一般的にウズベク人のあいだで日本に行けば稼げると思われているので、とりあえず話してみたくらいなのではないかと聞き流しておく。

レストランの後は、1階にスケートリンクのあるショッピングモールに連れていってもらう。テルメズのような地方都市にもこんな施設ができていて驚く。しかもコロナ禍の間のことである。

ただ遊ぶところはそんなに多くないと見えて、ショッピングモールを歩いていると、テルメズ国立大学の学生にたくさん会って、挨拶を繰り返す破目になる。おばちゃん3人組にも絡まれ、そのうちひとりのおばちゃんから猛烈アタックを受けるが、なんだか懐かしく感じた。以前サマルカンドに行って夕食に行くとこのようなことがあったが、タシケントではこのようなことはないし、最近のタシケントは経済発展がめざましくさらにこういう雰囲気が減っているように感じる。全体的にテルメズでは以前のウズベク人の気質が残っているようだった。一方でタシケントより自由な感じを受けた。普通は都会のほうが自由なはずだが、なぜそう感じたのか理由はわからない。

23時前、ホテルに戻る。Aさん、Iさんには遅くまで付き合ってもらって感謝。

レストラン
ショッピングモール

(以上、転載終わり。)

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