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生活保護日誌.80


日曜座禅

こんにちは、二足の草鞋です。

今朝は近所にある寺で日曜座禅をしました。デイケアに行く時に毎日その寺の「日曜座禅」と書かれた看板を見掛けました。その看板を見るたびに「いつか境内で座禅をしてみたいなあ」と思っていました。

寺には15人ほどの人が座っていました。半分に畳んだ座布団の上にもう一枚色の異なる座布団が敷かれていてそこに座禅しました。朝の7時から8時の間で約1時間座りました。虫刺されが気になっていたのですが蚊は一匹もおらず、温めの風が堂内に吹き抜けて線香の香りが漂う中目をつぶって座りっぱなしの1時間は長く感じましたが終わりの合図の拍子木が鳴った時にはあっという間の1時間に思えました。

座禅を長時間組み慣れていないので最初の30分は結跏趺坐で座っていたのですが足が痺れてどうにもならなかったです。早く休憩時間が来ますようにと体をもそもそと動かしました。なかなか時間が経たないので「もう限界だ」と思いましたが何とかなるようです。結跏趺坐の状態で見事30分座禅を組めました。残りの30分は半跏趺坐で座りました。さすがに足が痺れた状態で結跏趺坐をもう30分するのは無理だと思いました。でもそうした自分の限界を見極めて無理をしない心構えは大切だと思います。無理して体を痛めても誰も褒めてくれませんし、たとえ頑張って座禅を組むことにご利益があったとしてもまだ今日という日が始まったばかりですしその後も僕は僕で生活をしていかないといけないですから。

目を閉じている間は耳が鋭敏になるので僧侶のすり足の音だったり木の棒で床を叩く音だったりが気になりました。目を閉じたままだと僕が空間に溶けているようで空間そのものが「僕」のような錯覚に陥りました。僧侶が前を通り過ぎたり床を叩いたりするのは空間を調律する意味合いなのだと僕は勝手に思ったのですが、僕の呼吸の仕方や音だったり体をもそもそ動かしたりするのは僕が意識して行ったわけじゃなくて真っ暗闇の堂の一部として僕が一体化してそう動かされたのかと思いました。

自分がどれほど日ごろ視界に頼って生きていたのかを改めて思いました。目を閉じると真っ暗闇が現実で自分の体を見て確かめることができず、かといって音は聞こえて体からじんじんと動きたい気持ちが暴れ出して「ここから早く出たい!」と怖くなりました。

目を閉じると宇宙に放り込まれた宇宙飛行士のごとく思うように身動きができません。地球より何倍も何十倍も何百倍も大きい宇宙が広がって頼るべきは体から立ち上る感覚です。でも目の前は真っ暗で心のよすがにする明かりはどこにもありませんし動きたいとのたうち回る感覚だけがあります。

これだけ頑張ったのだから何か自分が生まれ変わったのではないかと期待しました。されど帰りの境内を歩いてみても朝日に当たった木が敷石が黄色に染まった様子に特別感動することもなく、まるで何もなかったかのようにその場で解散した参加者は止まることなく境内から出でて、僕は一度来た道を車が行き交う道路を歩いていました。

喉元過ぎれば熱さを忘れるということわざがありますが僕が真っ暗闇で動きたくて苦しかった時間はあっという間でした。時の無常さと変わらない日常が僕がそこにいなくても展開されていく無情さに「一体僕は何のために存在しているのか」と自分が空っぽになった気がして、でもそれが頭が空っぽになることなんだと思うと、苦しいことも喜びの後のそれを失う恐怖心も僕の中にないのだなと一瞬だけ胸をすく気持ちになりました。

こんな僕でもこの世界に入って行っても許されていて、僕をちっぽけな存在だと立ち返ることでこの世界の一部である僕が地続きとなって世界を成すと思うとどこにも居場所を感じられずに孤独な思いをしていても寝っ転がれば世界が僕を包み込んでくれる、僕がいつかこの世にいなくなったとしても世界が変わらず続いていてくれる安心感があります。

目を閉じて無限に広がる暗闇の中空間の一部となった僕が体を動かしたくなったりここから逃げ出したいともそもそするそれこそがあの世に行った僕の演習だとしたら。死してなおもがき苦しみが起こりつつも空間の一部として体が温かかったり風が吹いて涼しかったりを感じることができる。僕がいなくなっても世界の一部として僕は在り続けられる自信が湧いてきました。

これは単なる宗教体験に過ぎません。

また来週も日曜座禅に行きたいです。

今週の振り返り

先週の金曜の診察で服薬していた薬を無事断薬しました。

離脱症状が強いのかどうかは分かりませんが薬に頼る生活から今度は生活療法的にしっかりと朝の散歩をしたり運動をしたり睡眠をしっかりとって体調を安定させていきたいです。

今年の3月から生活保護課のケースワーカーの就労指導から逃れたいがために病院に通うようになってそこから薬を飲み始めました。当時はマンションの隣のベランダから桶を叩く音がしてうるさい、道行く人と空気感が自分と繋がっているような気がして人の目が気になったりして疲弊するなどの症状で薬を処方されました。今はその桶の音は隣のボイラーが起動した音だと分かったり視線で見えない波動を投げて相手から気取られたりするなんて馬鹿なことはないと冷静になれてます。

薬の処方もさることながらこれもデイケアに通って定期的に人と接することが僕の人に対する恐怖心をなだめてくれたのだと思います。

半年余り薬を飲み続けて少しずつ薬の量を減らして飲まなくてよくなったこともあってか、今週の僕は大分不安定だったと思います。とにかく自分が今置かれている環境に対して不満を持っていました。つい2chまとめブログやウェブマンガを見て時間がもったいないと思い「パソコン部屋があったらなあ」とワンルームじゃなくて3DKくらいの賃貸マンションに住みたいとこだわっていました。パソコン部屋があってアトリエがあって寝室があればそれぞれの部屋をしっかり管理してすぐに物事を始められる仕組みを作ってネットを見て時間を無駄にしない生活ができるのにと思いました。

でも僕は生活保護受給者なので引っ越すお金もありませんしあったとしても3DKのマンションの家賃を払い続けられません。現実的じゃありません。心理士のカウンセリングの時だったりデイケアで僕の担当をしている精神保健福祉士に「僕はこうしたい」と訴えたのですが彼らが解決してくれるわけでもなく逆に彼らが僕の悩みを解消してくれないことに腹を立てました。

最近は僕のこの現実的ではないこだわりの熱は冷めつつあります。でも形を変えて「今住んでいるワンルームに壁掛け収納を作ってそこに自分がいるものだけをすぐ手が届くようにディスプレイする」というこだわりになりました。壁掛け収納に日ごろ使うティッシュだったりゲームだったりを置いてパッと手に取れるようにしたら、欲しいものを部屋の中から見つけ出す手間を省くことができます。

だから今僕はいらないものを少しずつ捨てています。

呼んでいないマンガ本は破って可燃ごみの袋に入れました。まだ使えそうなレターセットや原稿用紙も捨てました。もったいないですがいつか使えると持ちっぱなしで1年以上経っていますからこれからも使う予定がないと思います。1年前に実家から持ってきてもらった収納ボックスや衣装ケースは今度兄が来た時に持って帰ってもらう予定です。

僕はDIYの経験がほぼないのでお手本のような壁掛け収納が作れるかは分かりませんが挑戦してみたいと思います。ホームセンターで木材を切り出してくれるコーナーがありますし電動ドライバーなどの器具をレンタルできます。切り出した木材を車で運ぶ必要があって生活保護の僕は車を運転することはできませんが訪問看護の時に担当のスタッフが車を運転してくれるかどうか今度聞いてみたいと思います。

この先何があるか分かりませんが希望はかすかに見えてきました。でもそのたびに自分の浅はかさに落胆してどうにもならないことにこだわりだして気疲れすると思います。忍耐力をつけられたらいいです。

環境を変えたい、そのためにお金を稼ぐために早く働きたいと焦る僕でしたけど大分落ち着きました。良かったです。

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