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対価と退化

今の世の中、科学技術は日進月歩で爆裂発展中です。

昨日できなかった事が、明日にはできているかも知れない。

それは悪い事では無いでしょう。でも、良い事ばかりではありません。

これまでなら会う事も出来なかった人たちとコミュニケーションが

取れ、行けなかった所へも行く事が出来、食べられなかったものが

食卓に並ぶ。完治が難しいとされた病の治療法が見つかる。

まさに良い事尽くめですね。それだけであれば。

ですが……と思うわけです。

自動車や電車を使えば、

どこまでも自分の足を傷めずに遠くまで行けますが、

その分足腰が強くならず、体力も付きません。

(都会の人は乗り換えですっげぇ歩くんだぞ!とかそういうのは

置いておいて……)

キーボードでカチカチ文字を打てば勝手に漢字に変換してくれますが、

果たして手書きでどこまで漢字で書けるか分かったものではありません。

スマホがあれば色んな人に電話できますが、電話番号を覚えている人

なんてほとんどいなかったり。昔は公衆電話で掛けたりしたものですが。

(最近は電話すらしませんけどね。SNSがあるので。)

そのうち将来勝手に自分の感情に合わせてAIが話してくれたりするかも

知れませんが、その分自分では何も言葉に出来なくなるかも知れません。

(病気などで話せなくなった人と苦労なく会話出来るようになれば

それはとても良い事ですが)

物理のエネルギー保存則と同じように、

何かを得たら、何かを失う。これが自然の摂理なのだと思います。

恐らく進歩したところがあれば、必ずそれの代償として後退する部分が

出て来るのだろうと思います。

今当たり前のように、様々なモノが溢れていて、カネを出せば手に入れる

事が出来て(中には無料で手に入るものまで!)、やろうと思えばかなりの

部分で実現可能です。特にバーチャルの世界であれば何でもありです。

簡単に手に入る、実現できることで、苦労して手に入れた時の喜びみたい

なのものは分らなくなるだろうし、相手に対する、(人であろうが、

物であろうが)敬意なんかも分からなくなるんだろうなと思います。

その手に入れたものがどうやって作られて、どうやって手元にやって来たか

なんて考えもしないだろうな、と。

何も考えずに生きているとそうなっていくだろうな、と。

そんな状態で、『人の命の重み』なんて言っても分かる訳ないと

思うんですね。人の気持ちを考える事もしなくなってしまうの

ではないだろうか、と少々恐ろしくなるわけです。

「もうこの辺で、この技術、良くない?」

ってストップをかける事なんで絶対に無いですよね……

少なくとも常に、これがあるとこういう事をしなくなるな、

とかこういうのが無くなるな、みたいな事を想像する事は

常にやっておかないと、と思います。

私は個人的に、

「もうこの辺で、抜け毛、良くない?」

って思うんですが、全くストップがかからずに頭の上が淋しく

なる一方です。でもそれは技術とは関係ありませんでした……

どうも失礼しました。

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