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俺がダンカンに攻撃を当てたと思っているとき、ダンカンは俺の脊椎を引き抜いている

今日相棒を観ていたらダンカンが出てきた。
僕はダンカンをTVでがっつり見ていた世代ではないが、ダンカンが古参の芸人だと言うことは知っている。だから、あ、ダンカンだ。と思った。
けどもう画面の中のダンカンは殺人の罪に問われている死刑囚の役で、回のあらすじにも名前が載っていなかったので何の前触れもなく俳優として現れたダンカンに面食らっていた。

俺この感覚たまにあるのよ。芸人に限らず、ある分野で有名だった人が今別の所で頑張ってるみたいなとき。尚且つ昔の分野より今の方に力を入れてて、そこに昔の分野の名残を感じさせていないとき。
良い悪いとかじゃなくて、絶対にあ、〇〇だって思ってしまうんやけど、そう思う俺を置き去りにするように完全に俳優と化しているダンカンに寂しさとも違うなんだろう、「待ってよ」って思うんだよな。「早ぇよ」って思うんだ。そう、速度を感じるんだよ。
例えるならこう…火葬の後で骨を壺に入れるイベントでさ、鉄板焼き終盤みたいに菜箸でズババババーって集めて横に寝かせた壺にかき込もうとしてる奴がいたら思うだろう「いや早ぇよ」って。「待てって!」って感じでしょ。そういう感じかな、わかる?わかりづらかったかな…。
要は常に一歩先を行かれているような感覚、四天王2人目のスピード勝負のやつと相対しているような、「待てって!」と思うんだよ。

もうダンカン的にも完全に俳優として評価されたいという思いがあったりするのかなとかも思うしね。芸人だからではなく、一からキャリアを築いていきたいという。
別の顔を覚えているこっちが野暮なのかなとも思ってしまうよな。もっと下の世代だと完全に俳優としてみてる人も全然いるんだろうな。夙川アトムとか、きたろうとかもコントグループとしてのイメージが色濃い世代は4.50代だけなんじゃなかろうか。
ていうか俺が結構俳優の経歴を調べてみたりする性質なだけで俺の世代でもかなり完全な俳優として認識している人が多いだろうな。

ふとこれを思い立ってお昼休みのときおばさんに絶対わかってもらえないだろうに無理やり話してみたら、「あたしもいかりや長介に同じこと思ったわ」と、まさかの“それ”が出てきて驚いた。
「全員集合を見ていたときのあたし達が置き去りにされてる感覚があったわ」と、ああ確かにそういう感じだなぁと納得してしまった。
加えてそれはもう俺が抱く「待てって!」から純粋な「寂しい」になっているなとも思った。

俺は最初に言った通り芸人としてのダンカンをさほど知らないというか、ほとんど芸人という肩書きだけを知っていてむしろそれ故に浮いて見えるのかもしれないくらいだけど、かつて大人気だったであろうコント番組の一員としてその目にいかりやを焼き付けていた世代の人にとって踊る大捜査線等で俳優の顔をしているいかりやを見るのは応援したい気持ちと裏腹に一抹の寂しさがあるのは想像に難くない。
俺が今日感じたダンカン早ぇなみたいな気持ちの比じゃないだろうな。置き去りにされたというか、もう先に行き過ぎてて完全に認識できなくなっちゃったような。どこ?って感じだよな。

おばさんが子供の頃時間になったら晩御飯もそこそこにせっせとTVの前に駆け込んでオモシロコントをワクワクしながら見ていて、いかりやの「次行ってみよう〜!」の掛け声と共にコント内でいかりやだけを認識できなくなったらめちゃくちゃ寂しいよな。
(五感で認識できるレベルではない)次(の領域に)行ってみようってことだったのかみたいな。コント内でも確実にいかりやが喋っていたであろう間とか、空間はあるんだけど、なんか見切れてたり変な影とかノイズが入って何もなかったみたいになってるんだよな。
もう完全に概念化してて他のメンバーも長さん長さんと言う(ノイズではっきりとは聞こえない)くせに具体的なエピソードを話し始めると変なとこでループして別の話になっちゃうんだよ。悲しすぎんだろ。

いなくなるにしても元の次元での痕跡をここまで消すことはないだろ。ハクション大魔王かよ。そんなのってあんまりだよ。
そんで本当に俺だけなのかこれ?って必死に探したら踊る大捜査線とかに俳優としてのいかりやだけが映ってるんだよな、寂しすぎるよ。受け入れらんないよそんなの。

なんかすごい怖くなってきた。ドランクドラゴンの塚地とか俳優としてのポジションを築いてきている芸人達があまりTVに出なくなったら俺もそういう拭えない寂しさに襲われることになるのかな。彼らの元の分野での生き様をしっかりこの目に焼き付けてたとえ概念化してもこの人昔は芸人さんやったねんでと若い子に教えてパラドックスを起こしていきたいな。

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