抽象度が高いということは視点が高いということで、より広い世界を見ることができます。一方、抽象度が低い人は視野が狭く、落とし穴に引っ掛かる危険性が高くなります(中略)現代の民主主義は、多数決の論理で動いています。ということは、抽象度の低い人たち、はっきりいえばバカの意見が通ってしまうのです。権力者はこのことをよくわかっています。だから、愚かな多数者をメディアを通じてコントロールする戦略が加速(中略)そう考えると、抽象度を上げて、社会に意味がある自己実現を目指そうとする人は覚悟が必要です。社会にとって、世界にとっていいことをすればするほど、周囲に敵視され、足を引っ張られて損をする可能性がある(中略) これは極端な例ですが、実際、抽象度の高いゴールを目指したイエス・キリストは、磔になっています。 釈迦はおそらく毒殺された可能性が高い。日蓮、法然、親鸞などの生涯は権力に狙われる「法難」の連続でした。こうした状況を踏まえた上で、社会を変えるような自己実現を目指していくにはどうすればいいか、を考えなくてはいけない(中略)釈迦の教えは宗教ではなく、哲学であると述べました。たしかに、釈迦の教え、縁起の思想とそこから出てくる「空」の思想は哲学としては究極の哲学で正しいのです。でも、それだけでは社会の役に立たない。そこで考えるべきはことは、「空観」を手に入れた後にどのような道を取るか(中略)この「空観」から次の段階に進むための実践として、具体的に何をするべきか(中略)次のステップとしての 「仮観の悟り」(中略)釈迦の道は「悟りの道」です。「悟り」は英語で「enlightenment」、つまり目が開くということです。いままで見えていなかった自分の仕事の実像、社会のカラクリが全部わかった上で、「心から自分が幸せになるための道」を歩むのが釈迦の道なのです。何も知らない無知な「奴隷の道」とは違います。ですから、それは決してやさしい道ではありません(中略)禅における空へのアプローチは、ただひたすら座ることにありますが、密教においては段階的に空の世界へ至るようになっています(中略)瞑想し、イメージを通して空の世界へ行く(中略)空は本質的に実体をもたないものですが、そこに「仮」のイメージを付け加えることによって、より空の世界へ行きやすく工夫したのが意密といえる(中略)悟りの世界へ行くといっても、「涅槃」があまりに抽象的な概念なので、人々はその教えを理解することができなくなっていました。そこで涅槃に行く中間地点として「浄土」という概念が生まれたのです。涅槃とは究極の悟りの世界、浄土とは「涅槃に至る過程の悟りの世界」と考えるとわかりやすいでしょう(中略)浄土には阿弥陀という仏がいます。阿弥陀は衆生(あらゆる生物)を救済するために涅槃に入らずにあえて浄土に留りました(中略)空海は五大に「識」を加えることによって、まさにこの世界を物理空間・情報空間としてとらえることに成功しました。 「空」の思想につながる「識」(意識)を含めたところに、空海の天才性が見られます(中略)「識」とは密教的には大日如来のことを指します(中略)法身という私たちの目には見えない存在であり、存在があるとかないとかいうレベルを超えた存在であり、もはや私たちにはわからない計らいをする存在です。このように記してみると、まさにキリスト教の神、親鸞の阿弥陀と本質的には同じであることがわかります(中略)大日如来は釈迦如来とは違います(中略)しかし、釈迦本人の言葉として「七仏通誡偈」という教えが残っています(中略)つまり、ブッダは一人ではないのです。 だから大日如来が仏教の仏であっても、何の問題もありません。ここにはブッダが汎神論を持つ存在であることが示されています(中略)空海の定義した「識」という概念は大日如来を指します。識はキリスト教における神の概念にあたります。識が存在してはじめて宇宙が成り立ちます。この考え方は、この世は神が創造した世界であるということにつながります。仏教の母体となったバラモン教は、キリスト教にきわめて近い宗教です。そのバラモン教の考え方を再度取り入れた密教がキリスト教と近いのは必然かもしれません(中略)さて、即身成仏とは「生きたまま仏になる」が直訳の意味ですが、もう少し掘り下げていえば、即身成仏とは「今ここで、大日如来を受け入れること」なのです。そうです。先に解説したキリスト教の原理とまったく同じです───苫米地英人博士(著書名失念)