(※幕府公認の)女郎たちの値段は高かった。前述した一両二分(12万円)だ。金持ちたちしか、そんな散財はできない。だから、もっと近場で、かつ安く遊べる深川などが栄えた(中略)江戸にたくさんいた女郎(遊女)たちの中で、最下級の売春婦は、局見世とか夜鷹という。河原にござやむしろだけを敷いて、安いお金で、40代の老婆たちが売春をした。江戸時代は、40歳で老人だ。40歳でほとんどの人は死んだ(中略)吉原の高級女郎たちは、28歳で年季明けで、退職した。この歳で女郎を本当に辞めさせられた。当時の28歳は、今の40歳ぐらいだと思う。その後の人生は人それぞれだ(中略)「吉原炎上」は、何十回も起きている(中略)火付けの真犯人は権力者たち(※火付盗賊改役)自身であった。伝染病の蔓延を防ぐために都市を人ごと焼き払った(中略)江戸のヒーローとしてのイメージが定着した(※鬼平犯科帳の)長谷川平蔵(※平蔵は密貿易の田沼意次失脚までの間、意次への賄賂受け取る役目。また1から2万人の浮浪者や失業者の面倒も見ていた)(中略)長谷川平蔵の配下の一人、穢多頭の弾左衛門。明治になって弾直樹と名乗って大きな西洋式の製靴業者となった(中略)吉原を支配した非人頭、車善七(※髭の意休)の屋敷は、吉原の遊郭の隣(中略)弾左衛門も車善七も 〝大名待遇〟であった(中略)非人たちは江戸の堀割りの清掃や衛生を受け持った。両者とも13代まで続いて、明治時代を迎えている(中略)〝歌舞伎十八番〟(9代目市川團十郎が明治に復活させた)の代表演目、あの「助六」の真実のストーリーは何か。それは、幕府の許可で歌舞伎役者達が非人頭の支配下から自由になった。このことの喜びを表して、2代目市川團十郎が初演したのである(1680年ぐらい)(中略)売春施設と、歌舞伎の世界は深く関係している。合わせて花柳界という(中略)吉原の花魁(高級女郎)たちの中の、頭がいい女たちは、密かにキリシタンであった(※西郷隆盛も)(中略)長谷川平蔵の経歴を調べてみると、自ら相場、博奕を張って、銅とか銀とかの取引市場にも手を出している(中略)鬼平(※平蔵)はここで利益を出して資金を作った。それで佃島の人足寄場を経営したようだ。大したものである。そうでもしないと幕府(公議)にいくら頼んでも、資金を出してくれなかったからだ。長谷川平蔵はこういう人助けをやったので、江戸の庶民から大変立派な人物として尊敬された。人々の脳裏に深く刻み込まれて、今に名前が残っているのである。それぐらいでないと歴史上の人物になれない。※引用者加筆.