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肌の白いヨーロッパ人が出現したのが、実は驚くほど最近のことだ

チームで発見を祝ったときちょうどキャンプのラジオからビートルズの『ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ』が流れていたことから、この骨にはルーシーという名前もつけられた。

最も有名な化石はもちろん、かの魅力的な女の子、ルーシーだ。

約五万年前、さまざまな種類のヒトが地球を歩いていた。ヨーロッパとアジアにはネアンデルタール人がいた。そのころには、デニソワ人の子孫の一部が山のなかの住処を離れ、東アジアの高地まで下りてきていた。彼らはゆく先々で、深い洞窟から樹木の茂るジャングル、孤島から平原、最高峰の山々へと、新しい環境に挑戦し、変化していった(中略)デニソワ人の名前は、彼らの遺骨が最初に発見された南シベリアのアルタイ山脈にある洞窟に由来する

個々のネアンデルタール人の集団は、地形的にそれほど広範囲に広がっていなかった(中略)しかし、彼らの親戚のなかには、さらに高い目標を掲げた者もいた。三〇万年前より以前のあるとき、中央アジアのネアンデルタール人の分派が、ふと見上げると、そこにチベット高原があった。極地を除けば、おそらく人類にとってもっとも住みにくい地域だ。空気は冷たく、厳しく、薄い。雪は決して融けない(中略)それでも、このホモ属の一団は、「世界の屋根」の高いところに行けば、どうにか生きていかれる気がした。そして、彼らはそうした。登ったのだ。そして、登りながら、進化していった。彼らはデニソワ人となり、数千年後にこの高原で暮らしていたとされる伝説のイエティを彷彿とさせた。

この発見を伝えたある新聞の見出しは「指が明かす先史時代の歴史」だった。驚いたことに──いや、おそらくは予想どうり──現生人類はデニソワ人とも交わっていた(中略)ホビットとデニソワ人の発見によって、現生人類は新たに二種の仲間を得たことになる(中略)「いいですか、腰を抜かさないでくださいよ」。DNAは、その人差し指が、現生人類のものでもネアンデルタール人のものでもないことを指していた。その指の持ち主はまったく未知のホミ二ド(ヒト科)だった(中略)すべての現代人は、およそ二十万年前にアフリカ(※マカディカディ湿地)に住んでいた少数の人々の末裔とされる(中略)ネアンデルタール人を完全に絶滅に追い込む前に、現生人類は彼らと交雑している(中略)両者は恋に落ちなかったかもしれないが、それでも交雑した。そうして生まれた雑種は怪物扱いされたかもしれないし、されなかったかもしれない。いずれにしても、多分最初はネアンデルタール人か現生人類のなかのだれかが、この子たちの面倒を見た。雑種の一部は成長して自身の子を設け、その子がまた子をもうけというように現在まで連綿と続いてきた(中略)現代人の大半は、わずかであるとはいえ(最大で四パーセント)ネアンデルタール人の血を引いているのである。※引用者加筆.

激しい地球寒冷化

ヘロドトスが記した歴史、古代リディア人は何のためにサイコロゲームを発明したのかという、論議を呼んできた歴史にもう一度戻ってみましょう。それは、食事をする日を一日置きとし、その間の日はサイコロゲームをして過ごすことで、十八年続いた飢饉を一致団結して乗り越えるためでした(中略)古代リディア人はその後どうなったでしょう。ヘロドトスの記述が正しいとすれば、彼らの物語は意外なハッピーエンドを迎えました。サイコロゲームを一八年続けた後、彼らは飢饉がまだ終わりそうにないことに気づきました。悲惨さから目をそむけてただ待っているだけでは、この飢饉を生き延びられないと、彼らは悟りました(中略)そこで彼らは、みんなで最後のゲームをすることにしました。王国の住人が半々に分けられ、どちらの半分がリディアに留まり、どちらの半分がもっと暮らしやすい土地を求めて旅立つかがくじ引きで決められました。この最後のゲームこそが、リディア人を彼らのエピック・ウィン、すなわち飢饉という問題に対する意外ではあるものの輝かしい解決策に導いたものでした(中略)新しい土地を求めて旅だったリディア人たちは、ヘロドトスによれば、現在のイタリア・トスカナ地方に住み着いて繁栄し、きわめて高度なエトルリア文化を築きました。言うまでもなく、エトルリア人はローマ文化に最も重要な影響を与えた民として知られています。歴史学者たちの広く一致した見方によると、都市計画や土木工学の偉大な技術を最初に発展させたのはエトルリア人であり、世界を変えたローマ帝国──したがって現在の西洋文明の大部分の──基盤を築いたのは、芸術や農業や政治制度を発展させたエトルリア人の努力だったのです(中略)ヘロドトスの説とは異なるトスカナ地方の歴史では、地元のプライドの問題として、エトルリア人は移民ではなくこの地域の土着の民だったと、何世紀ものあいだ、主張されてきました。ですが、この説もまた。ヘロドトスが書いた歴史の多くと同じく、一部の人々から信憑性に疑問が投げかけられました。飢饉に苦しんだリディア人と彼らのゲームの物語はきわめて現実離れしているため、近代の多くの歴史学者がそれを神話もしくは寓話として片づけてきました。事実にヒントを得た話かもしれないが、事実だけを語ったものではないと。しかし、最近の科学的調査によって、リディア人についてのヘロドトスの記述の重要な点が──彼らが直面した飢饉と彼らの集団移住の両方が──ついに決定的に裏づけられたようです。今日の地質学者たちは、紀元前一一五九年から一一四〇年の間に激しい地球寒冷化が起きたと考えています。一九年というこの期間は、地質学者たちが年輪年代測定法によって特定したものです(中略)一方、二〇〇七年にイタリア・トリノ大学の遺伝学者、アルベルト・ピアッツァの研究チームが、ヒト遺伝学の画期的発見と広くみなされている成果をあげました。この研究チームは、現在のトスカナ地方の住人で、エストニア人の直接の子孫として知られる三グループの人々のDNAを分析しました。そして、エストニア人のDNAは他のイタリア人とのつながりより中近東の人々とのつながりをはるかに強く示していたことを発見しました。しかも、決定的なことに、かつてリディア人が住んでいた地域、トルコの人々にしか見られない遺伝変異体も見つけたのです。この発見をしたとき、ピアッツァは報告書に次のように記しました。「われわれはの調査は、ヘロドトスは正しかったこと、エストニア人は本当に古代リディアから来たことを裏づける説得力のある証拠を提供すると、われわれは考えている」

肌の白いヨーロッパ人が出現したのが、実は驚くほど最近のことだ。七〇〇〇年前のヨーロッパ人は、肌が浅黒く、髪も黒かったことが、スペインの狩猟採集民族の遺伝子分析によって示されている↓
人間は言うなれば雑種で、人種の違いは存在しない↓
アーリア人思想とコーカソイド(白人優越)思想が、ナチスの思想となり、今のウクライナで復活し、暴走した↓



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