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オッカムのウィリアムが教皇の怒りを買って逃亡者となった

あまり知られていないが、サイコパスは聖職や公務といった向社会的な、すなわち「人助けをする」地位にあり得ないほど多くいる(中略)サイコパスは全員犯罪者かCEOか、さもなきゃウォール街の株屋だなんて一般人には思われてるようだが、そんな濡れ衣を黙って着せられてやる必要はない

オッカムのポケット剃刀を当てはめて見てほしい。ホメオパシーやクリスタル療法といった疑似科学的医療が有効であるとする説明と、いっさい効かないとする説明に、この剃刀を当ててみるのもいいだろう。地球温暖化とその原因をめぐる論争も、ポケット剃刀の切れ味を良くするための砥石としてなかなか興味深い対象だ(中略)オッカムの剃刀を手にした科学は、不可解な宇宙を道理づけるとともに、大多数の祖先が耐え忍んだ人生よりも幸せで長く続き、健康的で充実した人生を我々にもたらすことで、その価値を証明してきた(中略)懐疑論者の中でもとりわけ大きな影響力を持っていたのが、学者で詩人のフランチェスコ・ペトラルカ(一三〇四 ─ 七四)、イタリアルネサンスの哲学者で人文主義の父とされている人物だ。ペトラルカはトスカーナで生まれたが、幼少期の大半をアビニョンで過ごし、オッカムのウィリアム(※構成する要素の倹約を好む学者で修道士)がこの町に足止めされていた時期とも重なっている。ペトラルカもウィリアムと同じく、教皇を堕落していて偽善的だと批判した(中略)(※マルティン・)ルターは人格を形成した大学生時代にオッカムのウィリアムから大きな影響を受け、のちにウィリアムのことを「敬愛する師」と呼んで、「論理学を理解していたのはオッカムだけである」と主張している(中略)ケプラーがこの世界の部品のリストを極限まで切り詰める決心をしたのは、オッカムのウィリアムに導かれたからだった(中略)ガリレオがオッカムのウィリアムを意識していた(中略)三〇〇年近く前にオッカムのウィリアムがにらんでいたとおり、天界は神々や天使の住処などではなく、地球とさほど違わない世界だった(中略)オッカムのウィリアムが教皇の怒りを買って逃亡者となった(中略)ウィリアムは当時の教義にことごとく異議を唱え、古代以来のしがらみをバッサバッサと切り捨てていった。教会権威の定めるスコラ哲学を否定し、神学から科学を切り離した上に、教皇を頂点とする封建体制にも批判を加えた(中略)もしも捕らえられれば破門されて投獄され、あるいは燃えさかる薪の山の上でゆっくりむごたらしい死を迎えることになる(中略)怒り狂う教皇の手の届かないところまで逃げおおせた。こうしてウィリアムは命拾いしたが、知られている限りフランスにも祖国イングランドにも二度と戻ることはなかった(※その後六〇歳頃に世を去るまで神聖ローマ帝国皇帝ルートヴィヒ四世の庇護のもと亡命政府に相当する組織を維持。そこにはウィリアムに共感を抱く学者が次々と訪れた)(中略)(※ウィリアムは)依然として代々の教皇の手先に追われながらも、ときどきヨーロッパの各都市を訪れて講和をおこなった(中略)ある教皇に至っては、逃亡者ウィリアムを捕まえるためだけに、現在のベルギーにあるトゥルネーの町を焼き払うと脅したほどだった(中略)ところがその革命的な思想があちこちで根付き、さまざまな方向に枝葉を伸ばしていく ※引用者加筆.

ホメオパシーは、直感的に正しいようにも思えるが、その後の研究により効果がないことが実証されている↓
プランクはそのエネルギーの基本的な量を、ラテン語で「どれだけの量か」を意味する “quantum”(量子)と名づけた↓

オッカムの剃刀から生まれた史上初の現代的な科学法則、ウィリアムの唯名論(※単語はこの世界に実在する普遍や本質ではなく、我々の頭の中にある概念を指しているとする主張。〝正確な位置〟というのは我々の心の中やモデルの中に存在する抽象的な概念に与えられた単なる名前であって、この世界のどんな物事にも対応しない虚構。論理学はあらゆる学問の中でもっとも有用な道具である。それがないと科学を完全に理解することはできない)から影響を受けたルネサンスの人文主義(中略)量子力学ではまさにそのような(※ウィリアムの唯名論的)立場を取る。測定できない微小なエネルギー差は実在するとはみなさず、エネルギーは一個一個測定できる小さな塊、すなわち量子としてしか放出されないと考える。同様に、熱力学では粒子は連続的な範囲の振動数で振動できるが、量子力学では測定可能な振動数でしか振動できないとする。この〝量子化〟という考え片から、黒体放射の奇妙な性質やプランク方程式(※黒体から発せられる光のエネルギーは飛び飛びの振動数を持ったエネルギーの小さな塊である量子として出てくる。光は電磁気力の一つの姿)が導き出されるのだ。しかし量子力学の奇妙な点はエネルギーの量子化だけにはとどまらない。量子レベルの不確かさは、直感に反する粒子のさまざまな性質にも表れる。同時に複数の場所に存在したり、古典物理学では通り抜けられないはずの障壁をすり抜けたり、同時に二方向に自転したりするといった振る舞いが実際に起こるのは、単にそんなことは起こらないと証明できないからにすぎない。さらに、複数の粒子が時間と空間を隔てて不気味なつながりを持つこともあり、それもまた、ハイゼンベルクの不確定性原理(※マクロな物体は無視できるが、ミクロの世界では我々が物事を知る上での精度に根本的な限界を課している)によるとそんなつながりは存在しないことを証明できないからでしかない(中略)現在のところ宇宙の構造をもっともよく記述する一般相対論と、現在のところ原子の構造をもっともよく記述する量子力学とを統一する術はまだ誰も見つけられていない(中略)量子力学のもっとも不思議な特徴の一つとして、完全に何もない状態というのも確実ではない。それはハイゼンベルクの不確定性原理から導きだされる奇妙な結論の一つで、完全な真空には質量もエネルギーも存在しないということすら確実には言い切れないのだ。そのため量子力学によると、たとえ空っぽの真空であっても、実際の空間の中では仮想粒子が出現したりしている(中略)(※唯名論者であるトマス・ホッブスは唯名論に基づいて)人類は不可知で薄情な神などに祈るのをやめ、人間の創意と政治と科学によって〝共和国〟を築くことで、秩序を維持して苦しみを減らし、幸せを育むことを目指すべきだと迫った(中略)デカルトの唯物論的な宇宙(中略)ルネ・デカルトが、我々が確実に知ることのできるのは「我思う、ゆえに我あり」という前提だけであるという単純な信念に基づいて、西洋哲学を解体・再構築した。アインシュタインも物理学においてそれと同様の方法論を取った(中略)レオナルド・ダ・ヴィンチを生んだのがルネサンスの人文主義  ※引用者加筆.

デカルトの方法はサーストンやベン・アンダーウッドの方法を思わせる↓

(※リー・スモーリンは)標準モデルの粒子と力を重力(※一般相対論によると、重力は力ではなく、時空のゆがみによって引き起こされる加速)と統一する試みの最前線を走る、弦理論と超弦理論を打ち立てた一人でもある。弦理論(何種類かある)では、クォークや電子や陽子などの物質粒子はすべて、振動するきわめて微小な弦の取る姿であると考える。しかし弦理論をうまく成り立たせるには、その弦が二六次元または一〇次元の宇宙の中で振動していなければならない。残念ながらこのように次元の数が多いせいで、考えられる弦理論の数は天文学的に増えてしまい、無限個にすらなりうる(中略)現在のところ弦理論では検証可能な予測を導き出すことはできない。弦理論を現実と結びつけられないことに失望したスモーリンは、微調整問題を説明するための別の方法を探した。そして一九九九年の著作『宇宙は自ら進化した』と二〇一三年の著作『生まれ変わる宇宙』の中で、この宇宙がありえそうもない姿を取っていることは自然選択によって説明できるかもしれないと論じた(中略)素粒子物理学の標準モデル(※一七種類の素粒子から構成)には、クォークや電子や光子などの粒子、およびそれらのあいだに作用する力だけでなく、かなりありえなさそうな数値もいくつか含まれている。すべての素粒子の質量や、それらのあいだに作用する力の強さの値である。これらの数値は何らかの理論から予測されるものではない。二〇〇〇年前にプトレマイオスが天文観測データに合わせて周転円を決めたのとほぼ同じように、粒子加速器によって得られたデータに合わせて決められているにすぎない。分かっている限り恣意的な値なのだ(※プトレマイオスは間違っていなかったが、過剰に複雑にした)(中略)標準モデルにおける第二世代と第三世代の物質粒子は第一世代の粒子と質量しか違わないし、通常の物質には含まれていないため不必要であるように思える(中略)通常の物質の構成部品でないのにクォーク(※クォークは基本的な素粒子の三つ組で構成されていてアップ、ダウン、チャーム、ストレンジ、トップ、ボトムの六種類)やレプトン(※電子やニュートリノなど)の大部分を占める第二世代と第三世代の粒子は、いったい何のために存在しているのか?(※クォークとレプトンは互いに違うように見えるが、実は根本的な単純さを通じて結ばれていて、きわめて高いエネルギーになるとそれが表に出てくるという同じ粒子のそれぞれ異なる姿とされる)(中略)第二世代や第三世代の粒子が第一世代よりも重いのは、ヒッグスボソンとの相互作用の程度が異なるためである。もしもヒッグスボソンが存在していなかったら、三つの世代はすべてまったく同じだったことだろう(※光子やもっと奇妙なヒッグスボソンなど、力を運ぶ〝ボソン〟と呼ばれる粒子)(中略)ダークマター(※ダークマターのハローが重力の盾になり重い元素がふさわしい場所に導かれるために必要だったとされる物質)が我々の存在に果たした役割は分かったが、ではダークエネルギーの役割も見つけられるだろうか? いまはまだ見つかっていない。しかもダークエネルギーは謎めいた存在のままだ。その存在を示す証拠は、宇宙の膨張が加速しているように見えるという驚きの発見ただ一つである(中略)我々は確かに星屑でできていて、それをばら撒いたのはほかならぬちっぽけなニュートリノだったのだ。質量をほぼ持たない中性粒子であるニュートリノ(※凄まじく数が多いわりにはほかの粒子とほとんど相互作用せず恒星を燃え上がらせたとされる)は不必要な代物であるどころか、もしもそれが存在していなかったらこの宇宙はとても退屈な場所になっていたことだろう。※引用者加筆.

キリスト教世界では古代ギリシア・ローマの思想が再発見され、科学と探検の分野で文芸復興(ルネサンス)が始まった↓

ローマカトリック司教のジョージ・バークリーが、ニュートンの機械論的な科学によってキリスト教の教義がむしばまれかねないと恐れを抱いた。そして「不信心な数学者」に宛てた論文の中で、ニュートンの編み出した微積分と呼ばれる数学的手法を非難すると、ベイズはすぐさまその微積分の擁護に回った(中略)「そもそもこの論争に宗教を持ち込むのは大いに間違っている」と主張したのだ。さらにベイズは長老派教会の牧師でありながら、「いまやこの分野は、宗教とのあらゆる関係から切り離された単なる人文科学の一つであるとみなさなければならない」と力説した。四〇〇年前にオッカムのウィリアムが手掛けた、宗教から少なくとも物理科学だけは切り離すという試みは、この頃にほぼ片がついたといえる(中略)トマス・ベイズは本書で取り上げる英雄たちの中でもとりわけ謎の人物である。彼について分かっていることはオッカムのウィリアムと同じくらい少ない(※現存のベイズの肖像画も彼かどうか疑わしい)(中略)ベイズが最初に確率論に関心を抱いたのは、スコットランド人哲学者のデイヴィッド・ヒュームが著した『人間本性論』を読んでからだったと思われる。ヒュームは、啓蒙運動以降優勢だった科学的方法への批判として、〝帰納法問題〟とのちに呼ばれることになるものを唱えた。※引用者加筆.

哲学者、デイヴィッド・ヒュームが「奇跡論」という論文を書いた(中略)ヒュームの念頭にあった「奇跡」とはもちろん、キリストの復活↓


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