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オリンピックも万博も「要らない」と言える社会の「成熟」を考えてみた話

少し前にこの国は「空気」で作られた「流れ」を止めるという成功体験が必要だということを書いた。

僕は「なるようにしかならない」というニヒリズムが、この国の市民社会の成熟にとって一番のガンになっていると思っているので、このような主張を試みたのだけど、今日書いてみたいのは、もう少し違うことだ。それは大谷選手の疑惑についての一連の報道が加熱しているらしいことを聞いて考えたことだ。それは要するに、オリンピックや万博を「止める」と言ったときに、そこにはいくつかの異なる背景がある、という話だ。

たとえば先の2020年の(実際に開催されたのは2021年の)東京オリンピックを、僕はかなり初期の段階から(招致成功の直後から)批判していた。そしてその後仲間たちと「オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト」という、自分たちならこの東京オリンピック/パラリンピックを「こうする」という代替案を作成して発表した。それが、いちばん建設的な批判だと考えたからだ。要するに僕は、招致が決定してからは開催反対派から妥協して、「どうせやるなら、きちんとやろう」という考えに「転向」したとも言えると思う。

しかし「オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト」から10年近く経って、いま考えるのは同時に開催反対のアクション「も」もっと必要だったということなのだ(このアクションは「オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト」とも特に矛盾しないはずだ)。その理由は二つある。一つは先述の通り、この国には「一度出来た流れは、もう止められない」というニヒリズムが蔓延しているところがあり、これを解除するために、市民運動の「成功体験」が必要だと考えているからだ。

それともう一つ。世界には「そもそも別にもうオリンピックや万博といったものを用いて社会をエンパワーメントする、という発想からは卒業してもいいんじゃないか」という考えもあって、実のところ僕はそちらの考えほうがしっくり来る。僕は子供の頃から、こういう「みんな」で神輿をかついで頑張ろう、という発想が苦手だ。こういうイベントで気持ちよくなれるのは、要するにその共同体の中心に近い位置にいるマジョリティだけだ。

僕はお父さんだけが楽しい家族の観光旅行やオーナーや経営者、あるいは管理職だけが楽しい「飲み会」ほど醜いものはないと思う。それと同じだ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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