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「西新宿ストーカー殺人」から考える「対幻想」と「所有」の問題

今日は昨日の記事の問題ーー人間は「対幻想」から「自立」できるのかーーの続きを考えたいと思う。

昨日記した通り、1970年代以降のこの国の社会は基本的に団塊世代の転向者たちの生活保守的なメンタリティを中心に形作られてきた。だから政治的には「リベラルな」人たちも、「共同幻想」からの「自立」が基本線だった。イデオロギーが未曾有の大量殺戮を生み出した20世紀の反省としてこれは妥当な態度で、この問題の重要性は今日も失われていないがその一方でこうした「自立」の思想が政治的なニヒリズムと現状肯定に結びついたことも明らかだ。「左翼的に振る舞うことを目的にしてはいけない、しかし左翼的に振る舞うことを恐れてはいけない」という古くて新しい問題にどう現代的な解を見つけていくのかが、ここでは問われているのだ。

さて、昨日はこの共同幻想からの「自立」のために「対幻想」が選択され、そのあり方をめぐって批評史を描くことが可能である……ということを書いたのだけれど、今日はもう少しアクチュアルに考えてみたい。

僕はあまり社会的な「事件」に思い入れるタイプの人間ではないのだけれど、西新宿のストーカー殺人については気になっていろいろ調べてしまった。これは50代の男性が20代の元ガールスバー経営者に彼女の店で出会い、入れあげてしまったものの相手にされず、最終的にはストーカー化して凶行に及ぶ……という、まったく加害者に同情の余地のない事件なのだけれど、僕は彼が残したFacebookの記述にとても引っかかるものを感じたのだ。

彼はカーマニアで中古市場で1000万円以上するスポーツカーと数百万円するオートバイを、自分の分身のように大切に乗っていた。しかし彼は彼女との「結婚資金」のためにそれらを売り払った。愛車が引き取られていく日には、「自分の車が走っているのを自分は見たことがないから」と言って、途中まで並走していった旨がそこには記されていた。そんなに大切な自動車を、こんなことで手放してしまうなんて……と僕は思ったのだけれど、当人としては「こんなこと」ではなかったのだろう……。

そして端的に言えば、同じオタクとして(まあ、分野はだいぶ違うが……)「お前にとって車とバイクはその程度のものだったのか」と僕は思ったのだ。もちろん、他人がどうこう言える類の感情じゃないのは僕もよく分かっているが、反射的にそう感じたことくらい許して欲しい。で、僕は考えたのだ。彼の対幻想はものすごく幼稚な「所有の対幻想」で、まあ、軽蔑以上のものを感じるのは難しいのだけど、問題はあのカッコいい自動車とバイクがこの程度の安っぽい対幻想に負けてしまったという「現実」なのだ。

これは、あまりにも極端な例だと分かっている。しかし寂しいオタクたちがコンプレックスからネトウヨになり、才能のない自分を愛する手段を見つけられないサブカルたちが「正しさ」に逃避してネトウヨをそのまま左に裏返したような「他虐的なリベラル」になっていくのを見ながら物を書いてきた僕としては、この問題はやっぱり引っかかってしまうのだ。

では、どうすればよかったのか。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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