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おのれの「命運」を突くのか、突かないのか。

 年があらたまった。しかし、いつに変わらぬ新年を迎えるのとちょっと違うようだ。

 日々の暮らしから、経済、政治、社会、教育の行方、「ウクライナ戦争」、ロシア、中国、北朝鮮、台湾有事のことなど、少しでも先を見据えようとすれば、「あけましておめでとう」と言う我々のどこかに、不安の思いが隠れているのではないだろうか。

 明るい見通しがあるとすると、どこか個人的な、嬉しい話題で、これはうんと沢山あるといい。しかし、「政変」、「経済異変」、「災害」等で吹っ飛ぶから、世の中の動きに無関心というわけにはゆくまい。

長野県「善光寺」 表紙はその途中の道すがらで撮った写真(新緑の頃)

 僕は「なお、今も」、戦争と平和、それも非業の時を迎えた兵隊さんや家続のことを思い、考える。外国の兵や軍隊に命を奪われた人々、その家族のことを思い、考える。

 そして「今なお」よく理解することが出来ないでいる。それと言うのは、自分(ら)が天下を支配することでしか問題解決の道はないとの思い込みなのである。この「思い込み」なるものは、自分の体験に基づく限り、1960年代後半の学生生活に深刻な影を落とした。激しい憎悪を生む。社会や政治のあり方への「無関心」が取りざたされる反面、対立する諸潮流や組織が、我こそは、とヘゲモニー争いに血道を上げ、暴力に訴えるようになっていく。

 その傾向がただされたのであろうか。暴力が支持されることはないにしても、罵倒すること、決めつけて自説や自派に取り組むことを第一にすること、僕には、こうした傾向がおさまる気配はあまり感じられない。話し合いや交渉を尊ぶ場に取り替わったわけではない、とそう思う。

同じく善光寺正門から町なかに通じる境内

 「命運」なのだ。年頭に、僕はこの語に突き当たった。

 大正2年生まれのある作家(毎日出版文化賞受賞)が、戦中トラックで運ばれていく時、いったいどこへ連れていかれるのか、自分の意思のどれほども届かない力、これはいったい何なんだ、と思い、生き残った戦後が始まったとどこかで書いていた。それを10代に読み、僕の父親(中国で「滝連隊」という戦車隊に居たようだ)が、シベリアに強制労働させられている「戦友」のことや、産経新聞の戦争連載記事を熱心に読んでいるにも関わらず、戦争のこと、大陸のことなど、ほとんど語らずにいたことを思ったものだ。

 その父(大正11年生)は大酒飲みになって、やがて母(大正12年生)と離婚し、再婚した母(大正12年生)が爪の火を灯すようにして貯めたものを使い果たさせて、幸せの対極にあるような生活を強いた。まことに、言葉にならない。・・・話は横道に逸れたが。

 父は、ビルマ「インパール作戦」に酷く怒りを覚えたようだし、戦後のニュース映画(映画館上映)で、ソ連の戦車を見て、「ビックリ仰天」したと語ったことがある。戦車は自分の部隊「滝」が一番と思い込んでいた。僕は、大陸で戦っていた元兵隊の口からそう聞いたこともある。しかし事実は違った。

 「ノモンハン事件」(1939年)というソ連との戦いは有名だが、戦力均衡で決着がつかなかった、日本はむしろ勝ったと信じていたと、父は言った。それがあの映画でのソ連の戦車を見て、これでは子供と大人の戦いで勝つわけがないと一目で分かった、と言う。

 僕はどうしてそれが判るか聞いた。そうだ、僕は哲学の国際会議でボルゴグラード(旧スターリングラード、ナチス敗北のきっかけを作った忘れることが許されぬ激しい闘いの場だった)を訪れて帰ったばかりだった。平地の戦争跡地に陳列されていた戦車の話を父にしたからだった。この問いに、父は真っ先に応えたのである。「それはな、大砲の大きさを見れば判るさ。」と。「これじゃ,大人と子どもだ。勝てるわけがない。だけど、俺たちは勝ったとばかり思っていたからな。疑ってなかった。だから、実際にあちらの戦車を見て仰天したんだ。それを知っていたら、俺たちはあんな戦争を起こすことなんかできなかったろう。」

 もちろん一部の大幹部は知っていた。知っていたにもかかわらず、日本の「正論」を吹き巻いた。「天皇陛下万歳」で、右翼を自称する父も怒るのが当然である。又しても、話は横道に逸れたのだが・・・。

同じく逆方向から善光寺正門を臨む

 恐れていたことである。それは世代間ギャップなんていうものでは済まない。ごく最近、ネットで知ったのだが、僕より年長の作曲家がウクライナの事態を見て発言した。田中角栄さんの、戦争を知らない世代が政治の中枢となったら危ない、という言葉を引用し、「国を挙げての差別や殺戮とは、永久に決別しなければならない。命が大事、平和が第一だ。人が生きる権利は何物にも代えがたく尊いものだ。それを奪うことは、国家にさえも許されないのだ。」と結んだのだった。(三枝成彰、日刊ゲンダイDIGITAL)

 これに対する反対が、賛成より多く、要するに「命が大事、平和が第一」という使い古された言葉にかまけるわけには行かない、日本が危険にさらされていることを直視しない議論をするな、というのである。

 同作曲家は、自分が経験した時の例をいくつか挙げた。しかし、それはそれということで、説得力を持たないのである。現状の危機を見ていない、愛国心に欠けると反発する気持は分からぬでもない。しかし、戦前を知らない世代が、決してその頃を軽く見た発言ではないんだ、と完璧に言えるとは思えない。いつか来た道、のように思えるのである。

 「命運」である。自分ではどうにもならぬ、理解できない力に自らの「運命」を左右されるのである。例えば、地方、都会、どこに住もうとも、成人になる健康な男子が「赤紙」一枚で徴兵され、古参兵から暴力を振るわれ、果ては餓死したり、自決したり、無謀な死地から逃れるもことができない。

「善光寺」境内の小林一茶の句碑

 94歳の時、故人となった我が母が、沢山の人びとの前でマイクを握った。「特高で命を捧げた兵隊さんのことがどうしても忘れられない。」と。それを聞いた僕は驚いた。年を取った母がこんなことを思っていた、なんて考えていなかったからである。横浜港の汽笛が鳴ると(風向きによってすごく近くに聞こえる)、その音に手で耳をふさぎ、あぁいやだ、お母さんはこの音が嫌いなのよ、と小さい僕に言った言葉を思いだした。言うまでもない。空襲警報を思いだしたのである。東京小金井で行われた「9.11メモリアル」でのことである。

 僕たちはかなり単純に思考して、政治的、イデオロギー的、ヘゲモニー争いに巻き込まれたんだと思う。戦争を体験した前の世代はそういう道を阻止できなかった、我らは抵抗して亡くなった人々の意思を継ぐのだ、と思い込んでいたと言える。高度成長の波に乗って、遊びに夢中になった若者も一緒だとは思わないが、大部分は、イデオロギッシュに論じ、引っ張る論者の言うところ、書くところを信じ、従ったと僕は疑う。

 抵抗して命を落とした人々のことを常々思う。若い頃から、いくらかの知識を備えた。しかし、一方で「命運」が奪われた人々のことも忘れることもできない。自分たちが天下を握れば、で行けるような話ではない。

 「命運」を認識して、おのれの「命運」を突くのか、突かないのか、ほとんど「命運」を断たれていない日本に生きて、暮らして、僕自身の「命運」を活かさねば恥ずかしいと思うのである。

「善光寺」道中で

(2023年=令和5年が始まった。僕の場合、遠回りばかりの人生とも言えるが、昨今はそれらを思い返し、少しでも、皆さまのお役に立てればと念じる次第です。よろしくご教示お願いします。)

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