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きんの砂〜2.キンノコ堂(6)

 「まだ使ってるの、ブックカバー」

 公宣が目を丸くした。

 「便利だよ。本は汚れないし、漫画でもバレないし。僕は結構いくつか使い回してるんだけど」手にしていた文庫本を開き中を見せる。日曜日に家具を見に行った帰りに、駅ビルで見つけたのだ。昔のコミックスがこうして文庫本となり復刻したのは知っていたが、実は購入は初めてだった。

 好奇心に目を輝かす公宣の手に促され本を渡す。「珍しいから残しておいたんだ」地方の本屋でも独自のブックカバーを使う店があると聞いたことはあるが、たいした老舗でもなく繁盛していたわけでもないこんな店で作る意味などあったのだろうかと、横目で見ていた亞伽砂は考える。「私の名前、アガサはどこから出てきたの」さっきから気になっていた疑問をぶつけてみた。あの祖父が他人に対し孫の名前を口に出すことはないだろうと思うのだが。「パスワードだよ、今の」あまりピンと来ないような顔の2人に、彼は荷物の下に置いたままのメモ用紙を取り出して見せた。「単純な暗号遊びの一種」続けながらメモ用紙に1〜0までの数字を書き、その下にアルファベットを並べる。「1の下はaだから、最初はa。次の7の下はgだからg」アルファベットは26文字。10文字目のJの次のKはまた1から始まりとなる。個人で使うパソコンのパスワードはそれほど長くなる必要もないから、人の名前を使うというのは忘れなくていい方法だ。「使う人間が限られてるし、脈絡の全くない数字を覚えるというのも大変だからね」メモを追う亞伽砂の指の動きに、得馬の声が重なる。PCを求める店主に自作のPCをあてがったのが教授なら、きっとパスワードの組み方にヒントを与えたのも彼に違いない。

 「小柳さんて、もしかして産業スパイとかなの」訝しげな公宣の視線に、「違うよ」と彼は破顔する。「これは前に読んだ本に載ってたんだ」得馬を前にした公宣の目が輝いているのを亞伽砂は見逃さなかった。暗号から亞伽砂の名前を導き出しただけでなく、華麗なパソコン操作ですっかり得馬は彼の中ではヒーローとなっているに違いない。子供みたいに。

 「このパソコンだって、教授の自作ってわかっていたしね。バックドアがあるんだよ」ゼミではよく彼の作ったプログラムを解読させられた。制限時間があって、できなければ妙ちくりんな罰ゲームが待っていたのだ。「そういえば、この辺りに駄菓子はなかったかな」「ありましたよ。雑貨屋と繋がったお店が。いまはコンビニになっていて」亞伽砂の説明に心当たりがあるのか、大きく頷く。通りにコンビニは一つしかないので、道すがらの風景を思い出したのだろう。尽きぬ好奇心に再び公宣の口が開きかけた時、得馬の胸元で電話の音がした。取り出してみると発信先は会社だ。ロック画面に表示された時間を見て驚く。

 「ごめん、もう行かないと、会社が閉められる」急いでカバンを閉じた。「あの、この本」差し出された本を、そっと押し返す。「読んでみなよ。きっと面白いから。そのカバーも使うといいよ。次に来るときに」

 「ないんです」

 公宣だけでなく得馬の動きも止まった。

 「もう閉めるんです、この店。だから、次はないんです」意を決したように、亞伽砂ははっきりと伝わるように言葉を切った。

 祖父の店が好きだといってくれた彼にまたきて欲しいと、亞伽砂は思った。だがそれは出来ない相談だ。何故ならこの店はもうすぐ閉めるのだ。祖父の残した足跡をひとつひとつ片付け、最後にシャッターを降ろす。もう、二度と開けられることはないだろう。

 「どうして」手の中で鳴り続ける電話を切り、得馬は返した。問い返してはいるものの、亞伽砂の言葉が理解できていないような深い皺が眉間に刻まれる。

 「祖父はもういないんです。誰も次ぐひとがいないんです」「僕が継ぐよ」咄嗟に出た言葉だった。

 「でもあなたは他人で」先程の仕事ぶりから、きっと彼は優秀なエンジニアに違いない。手渡された名刺の会社名は、亞伽砂でも聞いたことのある有名企業だ。そんな将来のある人間に潰れかけた店を押し付けるなんてとてもできない。「事業継承だよ。第三者でも双方の同意があれば後継者となれる」得馬の手の中のスマートフォンがまた鳴るが、すぐに切る。「どうしてあなたは、そんなにこの店を残したいんですか」「じゃあどうして君は手放したいんだ、アガサ」一時の気の迷いだと、得馬自身もわかっている。ただ単に居心地のいい場所を失いたくない。それだけの、他人の勝手な感傷だ。だけど彼女は違う。パソコンが開いた時、カウンターの店主席に着いた時、あんなに嬉しそうな顔をしたのに。

 そして当たり前のように店は彼女を受け入れていた。彼女だけでなく、公宣も。店は彼らを認めているのに。

 「私は、無理、だから」商売云々よりも、祖父のように本を愛することはできない。意味もなくこの店を続けることは祖父にとっても店にとっても冒涜の行為でしかない。何よりそんな思いを胸にここに通い続けるなんて、自分が耐えられない。

 「じゃあ会議をしようよ」2人が口を閉し生まれた静寂を破り、公宣が声を上げた。「第一回店舗継続問題会議」場にそぐわない明るい口調は亞伽砂の気に触ったようだ。「第二回はやらないから」得馬という客人がいるにもかかわらず、やや怒気を含んだ声で公宣を睨んだ。しかし答えたのは得馬だ。「いや、やるよ。必要なら何度だって」

 2人の視線が同時に得馬に注がれた。とっさのこととはいえ、彼女が継がなければ自分がやると言ってしまったのだ。そう簡単に折れるのは男として沽券に関わる。すると公宣が体の向きを変え、得馬の横に並んだ。「俺だってこの店で育ったんだ。亞伽砂だけじゃない、花穂姉だって。この店はみんなの店だ」

 亞伽砂は衝撃で、空いた口が塞がらなかった。公宣が出会ったばかりの得馬の味方をしたからじゃない。彼の言葉に衝撃を受けたのだ。

 「花穂姉も入れて話をするべきだと思うんだ」

 わかってる。そんなことは。こんな大事な場所を自分1人の判断で失くすのは良くないとずっと思ってた。でも、まさか弟から諭されるように言われるなんて。

 「場所はここで。僕はいつ来ればいいのかな」弟の謀反とも取れる行動に彼女がショックを受けているのは、得馬からも見てとれた。でも兄弟の意見が必ずしも一致していないのであれば、話し合うのは当然だ。その場に自分がいてもいいのかとも迷いはしたが、公宣が横に並んでくれたのはきっと得馬を店の存続について話し合うメンバーに入れてくれるという、了解の意思表示に違いない。

 「に、日曜日。今度の日曜日、花穂姉も連れてくるから」その証拠に、日時を決めてくれた。「あの、花穂姉というは亞伽砂の上の姉です」「勝手に決めないで」カウンターから出て亞伽砂は弟の腕を握る。

 また、得馬の手の中のスマーフォンが鳴った。

 「わかった。日曜日、必ず来るから」今度は切ることなく、彼は仕事道具の詰まった鞄を手に店を出て行った。呆気に取られた亞伽砂の手を振り解き、公宣が追って外に出る。

 どうしてみんな、感情で動くんだろう。亞伽砂の頬を涙が溢れた。

 どうしてみんなのように、素直になれないんだろう。

 電話の相手は笠置で、やはり帰社の催促だった。戸締りを任されたのか文句のひとつでもいいたげだったが、それでは余計に遅くなるばかりでいいことがないと知っているので、なんとか飲み込んだのだろう。得馬が謝る暇もなく電話はすぐに切れた。後部座席に荷物を放り込み運転席のドアを開けたところで、公宣に声をかけられた。「連絡先、いいですか」うなずいてすぐに自分のスマートフォンを取り出す。

 「彼女、大丈夫かな」「大丈夫です。亞伽砂にはいい薬なんだ」孫の中で当然、彼女が祖父の一番のお気に入りだった。だから祖父が店の鍵を彼女に託したのは当然なのだ。だけど鍵を託しただけだ。店の進退についてはみんなで話し合って決めるのが筋だと、公宣はずっと思っていた。長子の花穂は問答無用で亞伽砂の味方だから当てにはならないし、諦めていたところで訪ねてきた得馬はまさに渡りに船だった。

 「それじゃ、今日はありがとう」「こちらこそ。日曜日、お願いします」

 まだ10代といっても通りそうな少し幼い笑顔で見送る公宣を残して、得馬は車を発進させた。彼は商店街の駐車場も教えてくれた。いまは夜で車の通りも少ないが、昼間は取り締まりを行なっている時もあるという。

 次の信号を右折し国道を通り線路の向こう側に渡る。駅の方に帰る形で車を運転しながら得馬は、短くも濃密な店での時間を思い返していた。彼の口にした詩は老店主の詩を借りて少し変えたものだが、2人はすぐに気がついた。過ごしたのが幼少期であっても、いや、だからこそその原風景が彼らの中に染み込んでいるんだ。

 そんな場所があることが、羨ましい。


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