きんの砂〜3.預カリマス(4)
カウンターの上に置かれた風呂敷包みを開けることなく、亞伽砂は深くお辞儀をした。
「どうしても、預かってはいただけないんですね」
落胆した老女の声が静かな店内に流れた。その声はどこか疲れたようにも感じられる。
書家・旗持瀞路の名は亞伽砂も聞いたことがあった。80歳近くになっても精力的にライブイベントを行い、暴れるような筆裁きで豪快に書画を書き上げるパフォーマンスは、普段書に興味を持たないような若者をも惹きつけた。生前はいつ人間国宝を受けるのかと言われ続けたの彼の書は、半紙一枚でも亞伽砂の1ヶ月分の給料よりも高い値がつくはずだ。
生絹の晴れの柄の風呂敷に包まれたこの書が瀞路ゆかりの品であることは容易に想像がつく。それもおそらく印刷物などではなく肉筆だろう。
カウンターを挟んで亞伽砂の前の椅子に腰掛けた慶子の依頼は、現在幼稚園に通う孫娘が受け取るまでこの書を美術館の倉庫に保管しておくこと。
生前の祖父には何度か電話で相談し、仮予約のような形で依頼をしていたそうだ。
だが、祖父はもういない。
「先にご説明いたしました通り、先代が亡くなった今となっては新たに預かることはできません。なにぶん店の運営もまだ決まっていませんので」
そのような状況下でそれほど高価な品物を扱うのは無理だ。
「それに」と彼女は風呂敷包みに目を落とした。
「いずれ行くべきところが決まっているのなら、何処かに隠すようにしまっておくよりも、お手元に置いて触れさせるべきです」
日頃から身近なものとして見ていれば幼い孫とて愛着が湧くに違いない。少なくともいきなり目の前に出されて、大事な書だから持っているようにと言われるより、折りに触れ話をした方が自然に受け入れる。
「その方がきっと、本も喜ぶと思うんです」
「本が、喜ぶ?」
婦人の怪訝な表情を目にして、亞伽砂の頬が熱を帯びた。
「すみません、その、本は見てもらうために作られているのに、美術館の倉庫に入ってしまったらきっと寂しいと思って」
口にしてまた、彼女は頬を赤らめた。これではまるで本に人格のようなものがあり、自分はそれがわかるみたいな言い方だ。
いい大人が、ファンタジー映画に出てくる子供みたいなことを言うと思われてしまっただろうか。
だが慶子はクスリと小さく笑って頷いた。
「そうね。あなたのいう通りだわ」
せっかく意を決してここまでひとりで来たというのにどうやら、彼女は依頼を受けてくれない様子だ。聞けば、先代は急な事故で他界されたという。こうなる前にもっと早く勇気を出して持ってくれば、先代の店主ならばあらかじめ連絡していた通り、問題なく預かってくれただろう。
間口が二軒長屋ほどしかないこの小さな古書店には、カウンターの店主席の中に佇む彼女以外にも3人の人間がいて、何やら忙しそうに書架の本を出し入れしている。彼らは店員ではなく、急逝した先代の仕事を整理してくれる協力者だと説明された。今後店自体も消滅する可能性があることから正式には開店していないという言葉通り、慶子を招き入れてすぐ古めかしい木製サッシは閉められ、カーテンが引かれてしまった。
来店の約束を取り付けた電話をした時、時間も遅いことから慶子はやや一方的に今日という日を告げて電話を切ってしまったが、もっとよく相手の話を聞くべきだった。そうしたら慣れない電車をひとりで乗り継いでくることも、目の前の若い女性に頭を下げさせることもなかった。
だが、実際に足を運んで後悔ばかりを感じたわけではない。
「もう少し、考えてみるわ」
立ち上がると、大判の書を包んだ風呂敷を抱え上げる。
確かに、病に倒れ息を引き取る間際まで自分の足で前進し続けることを望んだ夫の書を、暗く虫除けの薬品臭が漂う美術品倉庫に放り込んでしまうのは可哀想だ。
「せっかく来ていただいのに、本当に申し訳ありません」
また亞伽砂は深く頭を下げた。
心を込めて。
「いいのよ。ずっと来たいと思っていたこの店にこれたんだもの」
夫と同じように急逝したという店主と会うことは叶わなかったが、一時的とはいえ彼女が鍵を預かるのは正解だと慶子は感じた。もし店主や彼女以外の他の人間がその席に座りこちらの依頼通りにしてくれたなら、きっと何の憂もなく晴れやかな気持ちで帰途につくことが出来るだろう。
だがそれでは駄目なのだ。
それではただ単に、夫の影から逃げただけになってしまう。
「あなたに会えてよかったわ」
帰る旗持慶子を店の外まで見送り、もう一度頭を下げた亞伽砂に彼女はそう声をかけて去って行った。
果たして本当にそうだろうか。
本音を言えば、何度も相談したという祖父の手で希望の場所に保管をして欲しかったに違いない。書を預かれないと告げた時のあの落胆した顔。あんな顔を客にさせてしまっては、店主として失格だ。そして、最後まで豪奢な風呂敷に包まれたままのあの書には、行く所はあるのだろうか。
「もったいなかったわね。少しくらい開いてみればよかったのに」
店内に戻ってきた亞伽砂に花穂が声をかけた。
「あれがどれくらいの価値があるか知ってるの? 手垢なんて、恐ろしくて付けられないわ」
生絹の風呂敷。鮮やかな赤に真っ白いツルと花籠のあしらわれた布にあの書を包んできた心境を、亞伽砂には推して計ることはできない。だがきっと、手元から離すためのある種の覚悟のようなものがあったのではないだろうか。
「僕はてっきり、君が依頼を受けるかと思ったよ」
中央の書架を整理する振りをして成り行きを見守っていた得馬が出てきた。
「それは出来ないわ」
節目がちに亞伽砂は旗持瀞路の書の置かれていた場所を見た。
それはそうだろう。果たして本当に彼女がこのまま店を継げるのか不明なのだから。
「にしてもさっきの亞伽砂の言葉、まるで昨日の得馬さんみたいだったわね」
来客用の茶碗と、亞伽砂の茶碗を片す花穂に、2人して「えっ⁉︎」と驚く。
「喜ぶとか、本が寂しいとか」
得馬はすぐに背後の公宣を見た。やや頬をピンク色にし公宣に向けられた彼の目は「裏切り者」と叫んでいた。
「ぼ、僕はそんなこと口にしてないよ」
「おかしいと思うなら」
亞伽砂の声で、店の中の他の音がぴたりと止んだ。
「手伝ってくれなくていい」
祖父の仕事を全て同じように受け継ぐとしても、今の状況では預かるのは難しい。それは確かなのだが、あの風呂敷包みを見ていたら亞伽砂の心に訳もなく寂しさが募ったのだ。
「ごめん、亞伽砂の事を嗤うつもりはないんだ」
「私だって、褒めたつもりなんだけど」
「どこが?」と、亞伽砂と得馬が口を揃える。
「全部よ」
きょとんとした顔で、花穂は続ける。
「だって私なら、あの状況でとてもそうは思えないもの」
それに思った事を素直に口にできる。そんな瞬間を持つことができる感性は残念ながら持ち合わせていない。
「俺だって、あんな風に思える亞伽砂がかっこいいと思ったし、得馬さんみたいだって思った」
急いで公宣が亞伽砂と得馬の間に入った。
「なら」
花穂はみんなの顔を見回した。
「問題無いじゃない」
※※※※※
広い芝生の上を、小さな子供たちが駆け回っていた。
公開中の母家とは別の離れのリビングの窓辺に椅子を寄せ、慶子はその様子を黙って眺める。
普段は立ち入り禁止の芝生の中を走っても許されるのは、たまに来る孫だけだった。死んだ夫が見たならばきっと、血相を変えてあの子供たちを追い返していただろう。だから慶子はあえて、公開中は芝生の中も庭木の中も立ち入りの制限をしないことにした。
昔の瀞路ならきっと、あの子供たちと一緒になって芝生を駆け回っていたに違いない。
「いやね、歳をとるって」
溜息のような呟き。
ふと漏らした主人の言葉を聞かなかったことにして、家政婦の初江は慶子に声をかけた。
「奥様、今日は来ましたよ。あの子」
それを聞いて、力が抜けたように座っていた慶子の背に力が入った。姿勢を正し、子どもたちが走り回る芝生の向こう側を凝視する。
やがて、庭を囲む背の高い生垣の影を歩く明るい髪の少年の姿が見えてくる。
昨日は一度も訪れなかった。だからもう、来ないと思っていたのだが。
慶子はリビングのテーブルに置きっぱなしの書に目をとめた。
「預かり」を断られてしまった。
持っていくときよりも重く感じたそれをまた持ち帰り、元のように寝室の夫の枕元に置く気にもなれずリビングに持ってきた。「夫」という呪縛から自分を解き放つ最初のきっかけとして、そして記念として選んだ晴れやかな風呂敷をまたほどいて、何年かぶりで書を解いた。
久しぶりに見る若かりし頃の夫の筆捌きは果敢で情熱的であり、苦しさに満ちていた。
やはり老いた自分には眩しすぎる。
溢れ出るエネルギーは強すぎて、もはや毒にしかならないのだ。
樹木の間を静かに歩くあの少年の内にもまた、かつて夫が抱いていたような激しい情熱があるのだろうか。
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