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きんの砂〜2.キンノコ堂(8)

 金曜日。平日昼間のホームセンターは驚くほど客が少なかった。得馬は今日、笠置と共にビッグ・ハンド側の担当者との打ち合わせに来ていた。
 「計画では新店舗は床面積も伸びるんですよね」
 「ああ。4分の1にデベロッパーを入れる」
 「てんこ盛りすぎやしませんかね」
 午前中の会議の様子を、思い返す。サーバーや電設の敷設は携わったことはあるが、これほど大掛かりで自分が中心となるのは初めてだ。将来的に今回のような形になることを見込んでの前回のプチ・リニューアル時の資料があったのでライン取りは見当がつくが、フロアを一部レンタルするとなるとそちら側の担当者との打ち合わせも必要となる。
 「いれるのは地元のスーパーと100均だ。平日の客も増やしたいんだろ」
 確かにこの客の入りでは、ただ大型化すればどうにかなるというレベルの話ではない。アイスクリーム専門店と軽食が3軒。フードコートと呼ぶにはあまりにお粗末な屋台コーナーのテーブルのひとつに腰掛け、得馬は数えるほどしかいない客を眺めた。ホームセンターの中に100均では喰われかねないのではないかとも思ったが、100均では木材は売っていないし品揃えもそれほどないだろうから、いい具合に釣り合うのだろうか。
 そんなことを考えていたら不意に、笠置が口調を変えた。
 「それで、最近機嫌が良さそうじゃねぇか」
 煙草を出したものの、手の中で弄ぶ。店内は禁煙なので我慢しているのか、ただ手持ち無沙汰なのか。
 「僕ですか?」
 最近も何も、あれから仕事以外の話はしていない。
 「声が明るくなったし、仕事の効率が良くなった。前は小難しい顔して時間をかけてたが、最近は思い切りが良くなったって聞いてるぜ」
 どこの誰から聞いているのか。でも、現場の状況に対しての対応で悩むことが少なくなったのは、得馬自身も実感していた。これも笠置夫妻による押しかけ掃除の効果か。
 「恋か? 前の職場の写真の女の子でも遊びに来たのか」
 掃除に来た時、笠置と妻の里子は得馬の部屋の壁に幾つもの写真を貼り付けて遊んでいた。それは以前の職場にいた時によく遊んでいた仲間達と撮ったものだった。自分では持ってきたつもりもなかったので、おそらく部屋に散らかっているものを母親が適当に箱に放り込んだのだろう。
 「違いますよ」
 仲間の中にいた事務方の女の子のひとりが読書が好きで、みんなで行動している時も時々ふたりで本について話し込んだ。そんなことから何枚か一緒に並んだ写真があったのだが、おそらく彼女のことを指しているのだろう。
 「だから彼女は遊び仲間のひとりです」
 こちらに来てからは、その遊び仲間の誰とも連絡を取っていなかった。電話をくれた者もいたし、SNSでもグループルームで誰かが発言している知らせが届いてくるが、折り返し電話をすることもグループルームを覗くこともしていない。
 「それに僕が機嫌がいいのだとしたら、多分、街を歩いたからですよ」
 少し残念そうな顔をしたが、さもありなんという風に笠置は口の端を上げた。そのまま紙コップに入った水を含む。
 「そうだったな。とはいえまさかあんなところで会うなんざ、俺も驚いたぜ」
 得馬の出身大学が近くであることは、彼の経歴を見て知っていた。初めての本社からの移動で落ち込んではいたようだが、大学院までの6年間をひとりで過ごした街を歩いたことで、何か落ち着くことがあったのだろう。そしてその大学で、得馬は笠置と出会った。
 「縁もゆかりもないところで柔道をしている方が珍しいですよ」
 敷地内を横切り中に体育館の外で汗を拭く笠置に声をかけられたのだ。なんでも数年前から笠置の先輩が柔道部のコーチをしているらしいとのこと。そう考えると笠置には縁があるといえるのか。得馬としては機嫌がいい状態ではなく、落ち着いている状態なのだが、外から不機嫌に見えないのであれば悪くない。
 彼が心穏やかな理由は、当然ながらあの古書店でのやり取りだ。老店主はすでに他界していたが、その孫と会えた。すっかり色褪せてしまった懐かしい街角で旧友と会えたような、古書店を見つけた時そんな安心感を覚えたのだ。店を続けてくれるかどうかは不明だが、もし続けてくれるのならやはりできる限り力になりたい。
 教授と店のパソコン、老店主の詩とその孫。店を通したこの縁もまた稀有なものではないだろうか。けれど当分は、笠置に店のことを話すのはやめておこうと得馬は決めている。別に隠すようなことではないと言われそうだが、教えたらどんな風に茶化されるのか。
 「結局、世界は狭かったということだ」
 笠置は腕時計を見た。
 「さあ、まだ会議は終わっちゃいねぇ」飲み干した紙コップを丸める。
 「行くか」
 食べ終わったトレイを手に、得馬も立ち上がった。

 デベロッパーの入るレンタル・フロアの件は今日初めて聞いたので、差し当たりネットワークとコンセント類の線取りを最初からやり直さなければならない旨を先に店側に伝えた。案の定担当者は不満げに声のトーンを落としてどうにか現状のままで行けないかと渋ってきた。まだ資材の発注前なので納期的には問題はないのだが、工事を甘く見積もっていたらしい。
 そんなこんなで結局会議は予定時刻より大幅に遅れた。
 問題はやはりレンタル・フロア用の設備が増えることによる予算の増加だ。店側はネットワークは母体となる自分達の店と共有するので予算範囲内でいけると考えていたようだが、デベロッパーは独自のレジシステムを持ってくる。売上処理を考えると店舗とは別の専用サーバーと管理システムが必要になるのは必須だ。資材類も今回は得馬が手配することもあり、地域で長年世話になってきた業者を無条件で使えないことも不満らしい。だが長年友好的に付き合ってきた業者が決して良心的でないのはよくある話だ。悪いが今回は本社と取引のある業者も入れて複数見積もりでやらせてもらうことに決めている。そこにかかる店側や躯体の施工会社からの風あたりを受けるのは当然営業である笠置だが、彼は嫌な顔をせずに真正面から引き受けてくれている。得馬の顔を見れば愚痴の一つも吐き出したくなるだろうに、そんな素振りはおくびにも出さないし、こちらから聞こうものなら逆に煙たがられた。だから今回は彼の手腕に甘えさせてもらうつもりだ。
 「お前のプランが最適だと俺も思う。だからあとは、俺に任せろ」
 家の近くだというバス停で社用車から降りる時にかけられたこの言葉が、どれほど得馬の背中を強く押してくれたか。彼はわかっているだろうか。
 笠置を降ろしたあと、得馬はあの古書店のある商店街の道に車を進めた。すでに事務所は閉まっているので、今日はこのままアパートに帰るだけだ。
 人気がなく信号も点滅信号になった静かな道をゆっくりと走る。あと少しで消灯の時間となるアーケードの中に古書店が見えてくる頃、いきなり人影が道路に飛び出してきた。
 反射的にブレーキを踏み込み、ハンドルにしがみつくように体を硬くする。だが予想した衝撃も悲鳴も聞こえず、代わりにすぐ近くで車のロックが解錠される音がした。
 もしかしてーー。
 「公宣君!」
 助手席のガラスを下げながら叫ぶ。前方の路肩に止められていた車の運転席に乗り込む人影が、一瞬だけ得馬の方を振り返った。だがその人物は素早くドアを閉めると、逃げるように車を急発進させた。
 彼じゃなかったのか。
 落胆とも困惑とも取れる気持ちで窓を閉め、店の方を見る。もしあの青年なら、何か取りにでもきたのだろうか。
 薄暗い電灯の中に浮かぶ古い木製サッシの引き戸の内側は、今夜は真っ暗だ。
 老店主が亡くなったあとは、普段は無人だと言っていた。きっと急いで帰る用事でもあったのだろう。
 ブレーキを強く踏み込んでいた足の力を弱め、車を発進させる。
 だがしかし。
 のろのろと進めた車が店の真横にきたところでまた止まり、店の正面をまじまじと見る。
 店は閉めている時はいつもシャッターが降りていた。シャッターが降りていないが閉まっている時は、内側の白いカーテンが閉められ中が見えないようになっていた。
 それがいまは真っ暗で、両方の引き戸の間は少し隙間が開いていた。時代遅れの黄色みがかった電灯の光をはね返す木枠に嵌められたガラスの存在感もない。
 他に通行車両が無いのをいいことに、彼はその場で大きく車を反転させ店の前に停めた。
 車から降りて引き戸に近づいてみると、やはり少しだけだが開いていた。割られたガラスを見れば、そこから中に手を入れてネジ式の鍵を開けたのだとわかる。
 泥棒か。
 すぐに公宣に電話を入れた。
 「こんな時間に悪いんだけど」
 運よく彼は家にいた。2、3回の呼び出しの後に電話口に出てくれたので、まず店の現状を伝える。警察にはどうするか問うと、それは待つようにとの答えが返ってきた。
 「わかった。じゃあ、写真を撮っておくよ」
 出来るだけ急いで来ることを約束して、電話は切れた。店の鍵を託された公宣の姉、亞伽砂は店を継ぐことを迷っていた。確かに特に本が好きでもなく、場所に対しても小さい時の思い出しかない女の子が喜ぶ店じゃない。よく考えればわかることなのに、懐かしさを手放せずに続けてほしいなんて、彼女には無責任なことを口走ってしまった。
 あの夜のことを思い出し、亞伽砂も来るのだろうかと得馬は考えた。きっと来るに違いない。
 店を継ぐのは無理と答えた時の彼女の顔は、とても苦しそうだった。
 やがて、静かにアーケードの街灯が消えていく。
 最初に尋ねた時に店のことを教えてくれた隣の乾物屋は建て直して自宅となっているが、他の多くの商店はほとんどが無人だ。営んでいた人達が住宅に改装するほど若い年代ではなかったり、店を借りていたり、手放したり。理由はそれぞれだろう。灯りの消えた空は、意外と星がよく見える。角張った建物の間からこうして夜空を見上げていると、知らない場所にある谷の底にいるようだ。
 
 15分か、20分ほどだろうか。足元から寒さが忍び寄ってきた頃に、一台の車が滑るようにして得馬の前に止まった。
 「小柳さん」
 勢いよくドアを開けようとして、亞伽砂はアーケードの柱があることに気づいた。ギリギリの所でドアを開ける手を止めて降りる。
 「来てくれてよかった」
 暗がりで表情は見えないが、得馬の声音からは安心した様子が窺える。
 「当然ですよ」
 運転席から公宣が答えながら降りた。
 「連絡ありがとうございます」
 礼を口にしながらも、亞伽砂は視線を店に向けた。だが電気が消えてしまった中ではよく見えない。引き戸の半分側はカーテンが引かれたままなので、その濃淡で最後に締めた時とは店が違う状態であることがわかるくらいだ。
 「中に入らない? 灯りもないんじゃよくわからないし」
 2人が降りたはずの車の方からの別の声に、得馬が驚いたように振り向いた。3人目の人物が後部座席のドアを閉めた所だ。
 「一番上の姉の花穂だよ」
 スマートフォンのライトでガラスの様子を見ていた公宣が答えながら得馬に並んだ。
 「どうしてもついてくるって風呂の途中で、いてっ」
 ひとこと多く紹介する弟の肩を女性は軽く叩く。そういえば、もう1人亞伽砂の上に姉がいると話していた。
 「初めまして」
 姉妹のせいか、声がよく似ている。
 「どうも。小柳です」
 道を通り過ぎる自動車のライトに顔の輪郭が浮かび上がった。
 「写真は撮ってくれたんですよね」
 公宣は得馬が出してくれたスマートフォンの写真を覗き込んで頷いた。どうやら写真を撮っただけで、どこも触れてはいないようだ。彼なら先に中に入っていても亞伽砂は怒らないと思うのだが。
 亞伽砂と花穂も写真を確認し、店の正面に向き直る。
 「中途半端な閉め方ね」10cmほどの隙間が気に入らないのか、花穂が他にもいいたげに声を出した。「建て付けが悪いから、ちゃんと閉められなかったんだよ」言葉通り、公宣が普通に引いても上手く動かないが、少し下の方を持ち上げると難なく開いた。そのまま花穂から懐中電灯を受け取ると先に入って奥の方にいく。彼が店主席の壁のスイッチで店内の電気を点けるのを待って、残りの3人も中に入った。
 「あちゃー」
 最初に惨状を目にした公宣が声を上げた。
 入って右側、小さなショーウィンドーの後ろの壁の書架に収められていた本達が落とされているのがすぐに目に入った。
 「やってくれたわね」
 花穂も嘆息する。ただ荒らされただけならいいのだが。床にしゃがみ込み本を拾い始める亞伽砂の背中から目を離し、彼女は他の書架も見て回る。本を拾うのを手伝おうとした得馬を公宣が呼び止めた。
 「シャッターを下ろしたいので、手伝ってくれますか」
 掃除用具入れからシャッターを下ろす棒を取り出す。確かにガラスがこれでは防犯上よくない。
 「引っ掛ける穴が見えなくて」
 懐中電灯を受け取り、得馬はシャッターの下部についている棒を引っ掛ける穴を照らしてあげた。公宣は少し曲がった鉄の棒の先を穴に引っ掛け、慎重にシャッターを引き出す。だが途中から勢いがついて、予想以上の速さで落ちてきた。あわや彼の手を擦り抜けたシャッターが地面に激突すると思った瞬間、止まった。
 「ありがとうございます」
 隣に立つ得馬が捕まえてくれたのだ。あのままの勢いで最後まで落ちたなら、かなり騒がしい音を立てたに違いない。
 「思ったより軽かったんだね」
 弟と得馬のやり取りを背なでききながら、亞伽砂は手にした本を一旦平台に置いていく。
 最初に目に入った、ブックカバーがかけられた本が集められた場所。多くが文庫本で乱暴に引き出されたのか、本が開いてしまったり折れ目がついて床に散乱していた。ブックカバーが外れた本を手に取り、元のようにかけてあげる手が止まった。
 メモがある。
 折り返されたブックカバーの内側がさら手前に折り返され、そこに名前と日付がついた紙が挟まれていた。
 これは、本の持ち主だろうか。日付はどれも祖父が死ぬ前。
 これは祖父が預かっている本たちだ。
 「どうしたの、亞伽砂」
 店内をひと回りした花穂が傍にしゃがみ込んだ。本は反対側の書架や中央の平台の本などもいくつか落とされていたが、どうやらそれ以外は何も取られてはいないようだ。カウンターの中はもとより祖父にしか解らない法則で本が置かれていたので定かではないが、台所へと抜ける戸は閉まっていたので3階の祖父が暮らしていた部屋へは上がらなかったのだろう。
 「本を預かるって、どんな意味があるの」
 妹を手伝おうと落ちている本を拾い始めた花穂は、首を傾げる彼女の手を見て同じように本のブックカバーを見た。そこにはやはり名前と日付の書いたメモが挟まれている。
 「預かる方じゃなく、預ける方に意味があるんだよ。きっと」
 上から得馬の声がした。
 「おじいさんは本に対して何か思い入れがあったみたいだからね」
 それは、老店主が残したオリジナルのブックカバーに印刷された詩を見ればわかる。だから彼も本に対して思い入れのある人々の気持ちを理解できたのだろう。
 郵便受けを見る度に届いている手紙を亞伽砂は思い出した。多くがPCではなく手で記されたささやかな感謝の言葉達。書いた人物の直接の声ではないが、文面から気持ちが滲み出てくるものばかりだった。
 そう、本人達にとっては、感謝を伝えたいほど大事な本達なのだ。
 だけどもう、本を護る祖父はいない。
 「私、この本を返そうと思う」
 みんなが亞伽砂に注目していた。
 「それはどういう意味?」
 花穂でなくても聞きたいところだ。
 「本を全部返してから、店を閉める」
 姉に答えたつもりだったが、無意識のうちに隙間だらけの書架に目を向ける。その瞳が放つ光が本気であることを、誰もが認めた。
 「つまり、店を継ぐってことかな」
 「しばらくは続ける、という意味です」
 得馬を見上げた。
 「手伝ってくれるんですよね」
 「もちろんだとも」
 店の後継者にまで名乗りを挙げたのだ。嫌などいうはずもない。

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