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きんの砂〜3.預カリマス(3)

  頭上から降りてくる音がすると、店主席の出入り口に得馬が顔を出した。
 「一応、綺麗にはなったと思うけど。見てみるかい」
 亞伽砂の横でモニターを見ていた花穂が顔を上げる。このところ日を追うごとに季節は進み、夕方という時間ではあれど既に暖かい日差しは無くなり、モニターと蛍光灯の灯りに照らされた顔が青白く見えた。
 「そうね。成果を見てみるとしますか」
 答えると、かろうじて人が通れるほどに作られた本の小道に立つ。
 「私はこれをプリントしていくから」
 「わかった」
 背中で花穂が通り過ぎる気配を感じながら、亞伽砂は印刷画面を操作した。タスクが正常に行われたのを確認しその場に立ち、ふと店内を見る。
 少し前に新しいガラスが嵌められた出入り口の引き戸が戻ってきた。ガラス店の時田がいうように戸車の溝にかなりゴミが詰まっていたらしく、レールの上においてからは驚くほど滑りが良くなった。
 ネジ式の鍵を閉め、カーテンを弾く。気付かなかったが歪んでいたらしい枠はもう片方の引き戸とぴたりと合わさった。「古い物みたいだから」そう時田は笑ったが、歪んでしまった理由は古さだけではないだろう。
 後味の悪い思い出が蘇る。
 きっとしばらくは残っているに違いない。
 店主席に上がってからもう一度店内を見回し、亞伽砂は上に向かった。

 部屋を占拠していた本を下の階に降ろし、細々としたものを片づけた後の部屋はざっと見て8畳ほどの広さだろうか。住んでいたといっても家と行き来していたようなので衣類も少なく、衣装ケースと布団、祖母の位牌が置かれた書類ケースを片隅に寄せるとがらんとした畳の空間には炬燵しか残らなかった。昼食どきに公宣と得馬が電気ポットと急須や湯呑みを持って降りてきたが、それ以外はテレビさえもない。
 「下、閉めてきたの」
 既に花穂が炬燵に入っていた。
 「うん」
 亞伽砂が来るのを待っていたかのように、公宣が衣装ケースと並んだローテーブルの上に設置されたプリンターから排出された紙を手渡してくれた。どこかにあると思っていたルーターもプリンターの横に設置されている。以前に来たときはちょっと覗いただけで探す余裕もなかったが、その二つには埃除けの布が被されていたらしい。
 「小柳さんは」
 メンバーがひとり足りない。
 「外にいるわよ」
 窓の外に目を向けると、ルーフバルコニーにある明かり取りを見下ろしていた。横顔がランプに照らされたように柔らかく照らされている。
 「得馬さん、亞伽砂来たよ」
 いつの間にか公宣は得馬を名前で呼ぶようになっていた。
 「何見てたの」
 中に入り窓を閉める彼に聞いてみる。
 「店の明かりを消したら、あの光はどんな風に届くのかと思って」
 「うわぁ、ロマンチストね。小柳さんって」
 確かに彼の言葉通りの店内を想像すると、花穂でなくてもなんとも味のある幻想的な光景が思い浮かぶ。
 「それをいうなら、この店を作った人だよ」はにかむように笑い、続ける。「あと、僕を呼ぶ時は名前の方でお願いするよ。その方が字数的にも音的にも呼びやすいし、敬語もいいよ」
 今後このメンバーでやって行くなら、そんなことに気を使っていられない時がいつか来るだろう。
 「わかりました。私も亞伽砂で。この名前、みんな呼ぶのに困るんです」
 妙に納得した笑みが返ってきた。きっと彼もどう呼んだらいいか困っていたのだろう。弟は公宣、姉は花穂さんと呼ぶのに、亞伽砂は「君」と呼んでいた。
 「じゃあ3人とも座って。何か話があるんでしょ、亞伽砂」
 促され、みんなして小さな炬燵に足を突っ込んだ。
 「話というほどじゃないんだけど」
 出力した紙を手に切り出しす。
 「おじいちゃんが預かってるものについて、ちょっとまとめてみたの」
 まだ全部を精査できていないこと、書き出しただけという事を踏まえた上で聞いてほしいと前置きしてから始めた。
 「まず本だけど」
 薄々気付いてはいたが、本の預かりにはランクのような序列があり、荒らされた店頭のあの場所にあるのは一番低いランクで、年100円ほどの前払いで預かっているものだった。契約が切れて更新されなければそのまま店の資産となる。そのために日焼け止めとしてカバーを掛け、小さなショーウィンドウの影になるあの場所に置かれていたのだ。カバーの背に付けられた印は判別しやすいようにだろう。
 2階の本はもう少しランクが上の物。さらに希少本や特別な本は別の場所に保管されているらしい。
 「あと他にも、小さな品物を預かって保管してたみたい」
 その多くはやはり書籍が占めているが、この様子だとパソコンの中身以外にもリストのような物があると考えられる。そうでなければ、あの通帳の金額と貸金庫の存在の説明がつかない。
 「それを全部返すつもりなの」
 冷ややかに姉が見つめた。
 「今のところは」
 心なしか、声が小さくなる。
 祖父のパソコンでリストを見た花穂は、それが無謀なことだと思っているのだろうか。リストの全容はまだはっきりと掴みきれていないが、細かいものを含めるとそう簡単にはいかないだろうことは、容易に予測できる。
 最初に亞伽砂が店を継ぐべきだと言ってくれた彼女は、現状を知ったいまでも果たしてそう思ってくれているだろうか。
 「そこは相談しながらでもいいんじゃないかな」
 姉2人の会話に入れず黙って雲行きを見ていた公宣だが、前に座る得馬が割って入ってくれたことでホッとした。長姉の花穂は普段はどこか抜けているところがあるように見えるが、時々思い出したように母親のような顔をする。そういう時は、少しとっつき難い。
 「店主は君だけど、1人じゃない。僕達を協力者としてくれるなら、店に関する事はみんなで決めるようにしたほうがいいんじゃないか」
 聞いていた亞伽砂が得馬から自分の方へと視線を移したので、公宣は大きく頷いた。きっと鍵を受け取った者として、「自分が」どうにかしなければいけないと思っていたのだろう。
 誰にも頼らず、一人で。
 店に対する責任感が詰まり固くなっていた亞伽砂の心の中の一部が、温かい何かに触れたようにほろりと蕩けた。
 そうだ、彼を協力者としてスカウトしたのは自分だ。
 「私も賛成だわ。第一、遺言書の中身によってはどうなるかもわからないわけだし」
 「そうね」
 姉の口から出た「遺言書」という単語に亞伽砂の顔が少し厳しくなる。
 「結果が出るまでに、少しでも進めておきたいとは思う」
 昼食時、遺言書の内容について最悪の事態についての話が出た。「最悪の事態」とはもちろん、店の権利を亞伽砂ではなく母親の長兄である叔父が持った場合のことだ。当然店を続ける交渉はするつもりだが、通帳の金額を知っても彼は任してくれるだろうか。素人が経営して通帳の金額を減らされると予想したならば、きっと財産が減らないうちに店を閉めてしまうだろう。おそらく値段の張りそうな預かり品を返す事は許してくれるかもしれない。だが一番下のランクに位置づけられた本達はどうなるのか。

 預ける側の思い。

 得馬が語るその思いを、鍵を託された者としてちゃんと返せるだろうか。

*****

 その街は随分静かなところだった。
 もうすぐ離れることになる彼女の住む街もまた静かではあるが、それは都市の中心地から外れた郊外にある住宅街だからだ。人口は多いが人が穏やかに暮らす街。対してこちらは電車から降りる人も少なく、駅のすぐ横の交番で聞いた道の商店街もほとんど閉まっている寂しい街だ。
 まるで街そのものが歳を取り、元気を無くしたかのよう。確かすぐ近くに大学があるはずだが、学生達はこの駅はあまり使わないのだろうか。
 本当に、こんなところにあの店があるのかと不安になる。
 やはり誰かについてきてもらうべきだったかもしれないと、旗持慶子は少し後悔した。こうしてひとりで電車を乗り継いで出かけるのも随分久しぶりだ。そう思うのも仕方がない。だがこれからは出来るだけひとりでしなければならない。病院に行くのも、買い物に行くのも。
 旗持瀞路の家から出るとは、そういうことなのだ。彼の弟子もマネージャーも、お手伝いもいない。
 だからまずこれから、自分の手で持ってこようと決めたのだ。
 風呂敷で包んだ荷物を気持ちと共に持ち直し歩く。
 知らぬうちに冬へと代わってしまった朝の冷えた空気の中を進んでいくと、古ぼけた木の引き戸の店の前に立つ人影を見つけた。
 「あの、つかぬことをお聞きしますが」
 彼女は思い切ってスマートフォンを見つめる青年に声をかけた。
 「キンノコ堂さんの方ですか」
 顔を上げた青年は不思議そうな顔をしたが、すぐに柔らかい笑みを浮かべ屈託なく答えた。
 「はい。お約束のお客様ですね」
 得馬は目の前に立つ品の良さそうな女性をみた。今日店に客が来ることは亞伽砂から聞いていた。着物姿で、大事そうに風呂敷を抱えた彼女がそうだろう。
 「すぐに店主がくると思いますので、少しお待ちいただけますか」
 そう答える間にもほら、道の向こう側の路地から彼らが姿を現す。
 答える途中で青年の視線が道路を挟んだ向こう側に向いたので、慶子も首を伸ばしてそちらの方を見る。
 通る車のほとんどない道を、押しボタン式の点滅信号が変わるのを待って横断してくる3人が見えた。

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