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求められるモノ、その対価

長編ファンタジー小説 獣の時代〈第1部〉

第1章 6、暗き森④

 暗く湿り気のある空間で、篝火の火がパチリと爆ぜた。

 荒々しく削り跡の残る岩肌にを埋めるように、洞内の人影が黒く写る。

 部屋の中央に置かれた巨大な蓮華型の水盤にはなみなみと水がたたえられ、それを取り囲む蝋燭の火に揺れる水面は透明でありながら不思議な光を放っていた。

 中心より生まれては静かな波紋となって広がる漣がやがて大きく揺らいだ。
 息を呑み注視する僧侶たちの目の前で水盤の水がざわめき垂直に立ちあがる。

 ざわめきは取り囲む僧侶たちにも伝染する。

「おお、いらっしゃるぞ」
「実在するのか」
「伝説じゃないのか」

「静かにせい」

 押し殺したように低く、だが確固たる威厳を持った声が若い修行僧の不安を治める。

 水盤の中央で立ち上がった水の表面が鏡のような澄んだ壁となり、その中心より人影が現れた。

 そして姿を現す。

 隅に置かれた篝火では洞の天井近くの暗闇を払う事はできない。水盤の中心に立つ人物の胸から上は暗く下方からでは見えないものの、胸の前で手を合わせる若い僧侶たちの目がその姿に釘付けになる。

 誰もが言葉を忘れてしまったかのように口を開けたまま空を見つめる。

「こら、なおれ! なおらんか」

 先ほどの威厳を持った声が若い僧侶たちの態度を戒めるが、耳に入っている者は少ない。いや、聞こえてはいるだろうが、魂を持つモノとしてその存在に注目せずにはいられないのだ。

 居るだけで意識を奪われる存在。

 この場にいる誰よりも存在として上位者であるが故に、下位のモノ達は見ないわけには行かない。

「好きなように」

 中性的な声が静まり返った洞内に広がると、我に返ったように夢見心地だった沢山の目に光が宿り、思い出したように頭を垂れて行く。

 自分を取り囲む若い僧侶達の異常な表情に、壮汜の姿を借りた湖澄はしばし戸惑う。彼は、壮汜は度々主人の代理としてこの地を訪れている。その主人とは湖澄よりも以前の主人を指差すが、そのおかげでこの地の人々にとって壮汜はある意味、伝説の救世主と同義語、いや、伝説そのものとなっている。

 これらの若い僧侶達(といっても大半が湖澄よりも年上なのだが)の中にも、親から伝説の救い人「瀬保せお」の名を聞いた者はいるだろう。だからおそらく、彼らはこの洞を修行場とする山に入り修行僧となったのだ。

 伝説故に「瀬保」という名も人物の詳細も、口伝でしかいない。その瀬保を前にして彼らに驚き以外の感情が生まれるだろうか。

 改めて自分が背負う責任の重積を感じつつ、湖澄は水盤から目に見えない階段を降るように足を動かして降りた。その途中に、他の僧侶達よりも浅い角度で頭を垂れ、上目遣いで自分を見る二人に気づく。彼らは湖澄と同じ郷・津宮の人間だ。他の者と違い彼らは壮汜を知っているし、壮汜がひとりで郷を出ないことも知っている。

 ふたりの視線に気付きながらも湖澄は動きを止めず、湿り気のある岩の地面に立った。

 すぐ近くでひときわ深く頭を垂れる年老いた僧侶に声を掛ける。

「出迎え痛み入ります、時江じこう殿。また、この度は急な要望にお答えいただき感謝の言葉もございません」

「他でもない、瀬保せお樣のお願いであれば、我ら如何様なご要望も聞きますゆえ、何なりと申しつけください」

 暗く湿った洞内で高齢の僧・時江の前に立つ青年の肩には、その物静かな表情には似合わない黒々とした鉄の塊が下げられていた。また同様に腰のベルトにも重そうな銃を装備している。

「私ごときに頭を垂れるなど、時江殿のお名前に傷が付きます。どうかお直り下さい」

 壮汜の姿を借りた湖澄は時江に触れようとした手を、だが下げた。
 神通力を持つと言われるこの老人に触れたら、壮汜の姿が解けてしまうかもしれない。

 そんな恐れを持たせる人物だった。

「勿体なきお言葉」と答え時江は深々と下げていた頭をあげた。「いただいた連絡によりますといっときを争うご様子。お話の用意は出来ております。こちらへどうぞ」
 紫色の法衣の袖をあげ、痩せた手で少し広くなった場所ほうへと誘った。

 水盤の置かれた場所同様、そこは手彫りで削られた岩で囲まれており、中央に置かれたテーブルには河口水瀬かわぐちみなせに浮かぶ島の白地図が広げられていた。

「笛吹大島の地図です」

 用意された簡易照明のおかげで部屋の明るさは申し分ないほどだったが、白地図には光が必要なほどの情報がほとんどなかった。

「33、4年ほど前の地図になります。島は30年前のテロリスト掃討作戦後、大部分が立ち入り禁止となっています」

 湖澄は受けた説明に頷いて答え、白地図に見入った。

 自分が生まれる前のテロリスト掃討作戦については以前僧侶の叔父から聞かされたことがった。

 笛吹大島は周囲20キロほどの小さな島だ。地図には甲斐ノ洲笛吹市側のわずかな平地に民家が書き込まれているが、現在は通いの島守がいるのみだという。建物が残っていたとしても大半が朽ち果て、蔓草共に覆われているだろう。

「以前は島に続いていた甲駿大橋も島側は閉鎖され、周囲は金網で覆われています」

 隣の洲の住民としてこの辺りは格好のドライブコースであり、湖澄も甲駿大橋は渡ったことがある。
 島の南西に位置する甲斐大島を指差した。現在いる場所から、ほぼ反対側に指を滑らせる。

「この辺りまで送っていただければ結構です。私にとって水瀬は障害にはなりませんから」
 今回の彼らへの要請は、島に侵入する方法以外についての事だった。

 富士山の西から伸びる甲駿大橋には監視カメラが置かれている。主な役割は交通違反の取り締まりだが、同時にあらゆる物事の監視としても使われている。湖澄が対岸の笛吹大島の茂みに無事隠れるまで、ECMによる目眩しをしてもらうつもりだ。

「承知しました。甲斐大島このしまの林道は若者達の格好の遊び場です。三輪車が走っていても不審には思われないでしょう」

 今回の件で壮汜の姿をした湖澄を島の北東の岸まで連れていく役目を仰せつかっている弦門げんもん斎全さいぜんは目配せし、時江の「三輪車」という言葉に心の中で笑った。師は若者が林道レースに使う三輪バギーを乗り物ではなく騒がしいオモチャと思っているのだ。

「この場所から移動するにはどのルートを取るのが最も容易たやすいでしょうか。救出の際はできれば時間はかけたくないのですが」


 そして湖澄は、島の富士山側の高所を指す。秋山が砥上に持たせていたというGPSのビーコンが消えたあたりだ。島の中央に深い谷を造るように立つ峰の頂上、等高線の間隙具合から行くと、水瀬からの立ち上がりがかなり急峻な崖になっている。50代に差し掛かっているはずの砥上逍遙の両親が降りるには無理な場所だ。見た限りでは「旧黒岳展望台」とある付近からは尾根伝いに歩くか、水瀬とは反対側の島の内側の谷を目指し崖を降りるしかないが、同時にそれは追手に見つかりやすいルートとも言える。

「瀬保様の仰る『追手』がどのルートで来るかによりますな。もし推測通り彼らがめいの獣配下の『たちばな』であるならば、ここで策を立てるのは無駄というもの」

 時江は湖澄の目をまっすぐ見据えた。

「30年前の掃討作戦を仕切っていたのはおそらく『橘』。地の利は奴らにありますぞ」

「まさに」地図の上に屈めていた体を湖澄はゆっくり起こした。「仰る通りです」

 ほぼ無人となっているはずの島にあるとされる人工物の配置は頭に入れた。使うことはなくても、いざとなれば現在地の目安くらいにはなるだろう。

「時間の無駄であるならば、すぐに出発しましょう」

 そしてテーブルを挟んで立つ玄門と斎全に目配せする。言葉はないが、二人とも無言で頷いた。

「向こうの通路より、森の中に直接出られます」
 影が動き、若い坊主が松明で道を照らしてくれた。

「ありがとう」と若い坊主に礼を告げた後、彼女は時江に向き直る。
「あなたの動向も監視されているであろう中、危険を顧みず手を貸してくれたこと、感謝します」

「この場所は我が一門の修行の場。私が来ることに不自然さはないのです。瀬保様が来られたということは、そろそろこの地を我らに返してもらうための戦いが近いということでしょう」

 ウィンクのつもりなのか、時江は片方の口の端を上げながら両目をパチリとした。思わず無愛想な壮汜の姿を捨てて本当の姿を曝け出したかったが、湖澄は静かに唇を噛んで堪えた。ただ感謝の意を込めて頷き返すしかできないのが辛い。


 短い洞窟を抜けると、森の中に出た。
 先に立って走り出た玄門と斎全が用意されていたバギーにまたがりスイッチを入れた。電動モーターの微かな音が虫の音に混ざる。

「後ろを頼みます、玄門」

 斎全のシートの後部に座ると車体のサイドにかけられた長い金属の筒に脚が触れた。剥き出しのままのライフルの銃身だ。おそらく弦門も同様の物を用意しているだろう。

「二人を連れて行くことはできませんよ」

 彼らが自ら用意したのか、中央の監視対象である時江が持たせたのかは不明だが、掛けられた言葉に斎全は返事をしなかった。

 代わりに暗視ゴーグルを下げバギーのアクセルを捻る。彼の所作が見えたのか、後ろの弦門のバギーのライトも点灯し、先に動き始めた。

 道と茂みの境界を行ったり来たりしながら、2台は互いのバギーを急かすように、または挑発するように追い越したり近寄ったりしながら森を走る。高い杉木立の下草は手入れされ、湧水が作る小川の周囲を舞う蛍がバギーの風に散る。

 やがて彼等は島の北東部に差し掛かった所ででバギーをとめ、岸辺へと歩いていった。ライフルを肩にかついだ玄門は、バックパックから取り出した黒い箱を操作し始める。

 島の外からは見えないようにしゃがみ込みしばらく待つと、やがて湖澄の方を向いて頷いた。木立のせいで少ない月の光も届かないが、夜目の聞く湖澄にはその仕草がはっきりと見えた。そして対岸の暗い森を見る。

 彼女としてもふたりがついて来てくれたら心強いのだが、得体の知れない場所に連れていくわけには行けない。

 水盤の上に立ったときと同様水の上に足を置くと、緩やかに岸の下で流れていた水面の表面が硬い道となり向こう岸まで延びた。だが、向こう岸に届く少し前にはまた表面が緩やかな液体になっている。

 何らかの理由で彼女の力が及ばないのだ。

「船を出そうか」
 斎全が草で隠すように置かれたゾディアックを示した。
「あの位なら大丈夫」

 斎全に向かって、荒い視界の中で彼女が微笑んだ。ざらつく暗視ゴーグル越しでは表情は読み取れず、顔そのものも不確かな輪郭としてしか映らない。が、斎全の心の中ではいつでも彼女は「有泉湖澄」の姿のままで、郷にいた時と変わらぬ表情で話をしている。瀬保という名の壮汜の姿をしていたとしても。
 おそらくそれは、彼女の側に佇みEMCの調整に余念がない弦門も同じだろう。

 3人はいつも一緒だった。いまは郷と洲の違うこの地で別れているが、離れていてもずっと同じ3人のままだ。

 彼女がどんなモノになろうとも。

「行ってくるから、二人は帰ってね」
 他の人間がいないせいか、少しだけいつもの口調に戻る。

「わかった。向こう岸に着くのを確認したら帰るよ」
「どうせEMCを作動していなくちゃいけないからな」
 今夜初めて弦門が口を開いた。だが彼らの会話がそれ以上続く事はなかった。

 少しの間を置いて、湖澄は水の上を滑るように動き始める。

 手の中のEMCのモニターで、弦門は周辺に設置されているはずの監視カメラの中に壮汜の姿の彼女が映り込んでいないことを確認した。服装は黒のパーカーに黒のデニムパンツだが、対象として捉えているモニターの中の彼女は白い人形で映し出されている。

 やがて向こう岸に近づき、自分の力の及ばない地点に到達すると、彼女は大きくジャンプした。

 無事に向こう岸に着地した白い姿が、藪の中に入っていく。
 再び彼女が藪の中から現れないことを確認すると、弦門はECMのシステムへの介入を停止した。

 電源をオフにした機材をぶら下げて草むらに座り込む斎全の隣に移動し、同じように座り込む。

 そうしてしばらくの間、彼らはそこに佇んでいた。

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