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どこぞへと吹っ飛ばされた砥上を、秋山は自分のセーフハウスへと避難させた。

長編ファンタジー小説 獣の時代〈第1部〉


第一章 彼女と魔法と吸血鬼④


 実を言うと、秋山がどこに住んでいるのか砥上はいまだに知らない。

 だいたい彼らが会社以外で会う時は外で、夜で、空が基本だ。
 だがこの部屋なら知っている。

 最初に出会った夜、海浜公園の東屋でお互いの正体を明かした後に連れてこられた場所だ。あの時はまだ砥上は自分がどうやって鳥の姿になったのかも、なぜ急に人間の姿に戻ってしまったのかも何も理解できていなかった。もっとも自分の意思で鳥になれるようになった今だって、誰かに説明しろと言われたってちゃんと説明できる自信はないのだが。

「気がついたか」
 夜明けが近い薄暗がりの中から、秋山の声がした。

 富士市と富士宮市の境にある古いこの市営団地は、近く取り壊される。そのせいで電気・ガス・水道といったライフラインは遮断されているが、暗がりでも目端が利く彼らには短時間過ごすくらいならなんら問題はない。
 ここは一応吸血鬼である彼の、数あるセーフハウスのひとつだ。彼が何をするのに使っているかは、あまり考えないようにしている。

「俺、また暴走したの」
 鵺を探しに出掛けて、津宮区の森の上で治神団と陰陽師による鵺追いを見ていたら秋山が気持ちが悪いと言い出した所までは覚えている。しかしその後の記憶が途切れている。いや気を失う直前に、ものすごい衝撃を顔面に受けたはずだ。鉄板で顔面を強打されるとあんな感じなのだろうかと念のため額に手を当ててみるが、コブができている様子もない。


「暴走っつうか、まあ、興奮してたな」
 答えながら秋山は、傍に置いたステンレスボトルから紙コップに液体を入れて砥上に差し出した。

 陰陽師の呼び出した巨大な雛人形の形態が変化した時、体感したことのないエネルギーの様相に気分が悪くなり、砥上の背中にもたれかかったまでは問題なかった。その時はまだ、少なくともまともな会話ができていた状態だ。砥上がいつからその状態になったのか、実際にはわからない。気がついたら目を向いて涎を垂らし、力ずくで地上に降りようとしていたのだ。

 我を忘れて地上へと急降下しようとする砥上の目に、体を張って止めようとする友の存在は映っていなかった。二人の押し合いは一時的には力が拮抗していたものの、意識が飛んでしまっている砥上に力の加減はなく、秋山の虚をついていよいよ地上へと落ちるという時、地上から放たれた何らかの力の塊が砥上の顔面を直撃したのだ。

 翼開長2mの巨大な犬鷲をあっけないほど簡単に彼方に吹き飛ばしたあの力。陰陽師や不気味な人形のものではなく、砥上との衝突後に残った冷気や微かな氷の粒にも魔力の類は感じられなかった。

「あのまま地上に降りてたら、お前陰陽師にやられてたかもな」
 あのタイミングで砥上が弾かれたのは偶然だったのか、それとも放った輩は狙ったのか。どちらにしてもそのお陰でこうして無事でいられる。

 秋山が渡したメダルの効果は、あくまで霊能力が無い普通の人間から身を隠す程度しかない。陰陽師というからにはそれなりに強い霊力なり何らかの力を持っていると思われる相手の前に落ちたりしたら、おそらく何の効力も無くなるだろう。

「捕まったら、いい研究材料だね」
 自分で言った笑えない冗談で小さく笑い、砥上は受け取った紙コップに口をつけた。体が冷えているわけではないが、喉を滑る温かいハーブティーにほっとする。前の時も彼は同じハーブティをくれた。確かレモングラスを使ったブレンド茶だ。他に何が入っているのかは、忘れてしまった。
 なんでも、興奮した魔力を静めてくれる作用があるらしい。正確には砥上の力は魔力ではないが、神経系に作用するからと持ってきてくれたのだ。
 前回も今もすでに精神は落ち着いているが、こうした暖かい飲み物は心から落ち着ける。

「陰陽師って、初めて見たよ」
「知ってるなんて、物知りじゃんかよ」
 いつものようにニヤリと笑う。

「その位は知ってるよ」
 馬鹿にするなといいたげに鼻で笑った。欧米ほど魔界人や魔界生物が闊歩しているわけではないが、この国でも妖怪や神がかり的な事象、すなわち「怪異」が存在する。今夜見たような治神の風習が在るのが日常的に人々が「怪異」と呼ばれる事象に関わっている証拠で、陰陽師は民間の祓い師では荷が重いもっと大きな規模での霊的・怪異事件を専門に扱う組織・陰陽寮に所属している。

「まあ、看板掲げて歩いてるような連中じゃねぇからな。俺も見たのは初めてだぜ」
 秋山としては、魔界人の存在さえも中央の都市伝説としか思っていなかった砥上が陰陽師を知っている方が意外だった。

「あれ、陰陽師の力だったのかな」
 だとしたらこうして無事でいられるのは奇跡か情けをかけられたのか、単なる物見遊山に来た妖怪を追い払っただけなのか。

「さあな」
 素っ気なく秋山が答えた。
 砥上を追いかけ離れる際に、一瞬だけ気になった送電塔を思い出す。しかしあそこには何もいなかった。
「つうかお前、何に興奮したんだ」
 どう思い返しても、男だらけの治神団に男の陰陽師では興奮する要素がない。

「興奮っていうか、怒ってたような気がする」
 鵺と戦っていた巨大な雛人形が恐ろしい顔つきに変貌した時、自分の記憶や心と関係ないところから強烈な怒りの感情が湧き上がってきたのだ。しかも、これまで自分が抱いたことのないような、ただの怒りだけではないもっと複雑な感情。
「火がついたように、あいつをぶっ飛ばしたいと思ったんだ」
 これまで自分では持つことのなかった感情。

「憎悪って、奴か」
「かも知れない」
 それと、少しだけど胸を締め付けるような悲しみもあった。
 人形そのものではなく変身した人形が放つ、秋山のいうところの「氣」というか雰囲気。自分はそれを知っていたのではないだろうか。だがいつ知ったのか、本当に自分が知っていたのか。
 また、「知らない感情・・・・・」なのか。

「かもって、相変わらずの奴だな」
 自分の感情も把握できていないなんて。
 砥上のため息に負けず劣らず、秋山もまた呆れたようため息を吐く。
 今までこんなボーッとした状態で生きてきたから、自分の身に大変な事が起きているにもかかわらず冷静にいられるのだろうか。
 これほど危機感の無いやつは滅多にいない。
 心配を通り越して本当に呆れてしまう。

 謎の力によって彼方に飛ばされた砥上を見つけたのは、浅間大社の敷地内の池から流れ出る川の中だった。気を失った彼の姿は人間に戻り、全裸だった。つまり、全裸で川底に引っ掛かり尻が浮いていた状態だ。
「ったく、俺が見つけなけりゃ今頃はお前」
 その時の事を思い出し、秋山はいきなり吹き出した。

「え、なに、いま笑うところ?」
「だってよ、お前の尻がプクーっとよ」仮に朝までそのままで、秋山ではなく観光客によって発見されたところを想像すると、可笑しくて笑いが止まらない。

 言われてみれば砥上は裸で、睡眠をとるというより昼寝程度の役割しかしないような薄っぺらい布団の上にいた。上に掛けていたらしいタオルケットが腰の辺りにまとわりついている。鳥への変身は裸で行うので、これは仕方がない。意識を失って人間に戻ればこうなってしまうのも道理だ。もし服を着たまま変身した場合、変身後、鳥が服を着ている状態となってしまう。それはそれで、非常に情けないというか思い返したくもない格好だった(←やってみた)。
 だいたいにして鳥に変身したにもかかわらず衣服を着ているせいで飛べないのでは変身した意味がない。
「いやいや尻とかいいから、変な想像やめて何か着る物ないの」

 ということで普段、夜の空で秋山と会う時は鳥の姿で集合し、その姿で家に帰ってから服を着るようにしている。当然服など持ち合わせていない。ちなみに裸で鳥に変身して秋山と会っても、裸という感覚はない。鳥に変身した時点で「羽毛スーツ的な何か」を着ている感覚になるのだ。

「とりあえずはこれを着ろ」
 腹を抱えながらも秋山は、コンビニの袋に入った真新しい下着と、洗い晒しのスウェットパンツを寄越した。ハーブティーを持ってくるついでに部屋から持ち出したり、買ったりしてきてくれたのだ。最悪鳥になって帰ればいいと思ったが、ちゃんと用意してくれたのだ。

 今更ながら、彼には世話を焼かれてばかりだ。

「おい、どっか痛むのか」
 急に着替えを手に静かになってしまった砥上の様子が不安になったのか、心配そうに声をかけた。

「別に。俺の貞操、大丈夫だったかなって」
 にやりと笑い腰回りのタオルケットを持ち上げる。
「誰がお前なんか襲うか、バカヤロウ。俺の性的指向は生物学的女の子レディだ。つーかそっちあんのか、お前」
 真顔で「ないよ」と答える。
「だって前も俺裸だったし」
 袋を開けて取り出したTシャツに腕を通す。
「そりゃお前のせいだろ、鳥男」
「だね」
「おう」と答えながら秋山が煙草に火をつける。ハーブティーに負けずほっとする香りだ。

 こんな他愛も無いやり取りにどれほど安心感を覚えるか、彼は気づいているのだろうか。
 カーテンの掛かっていない窓の外が、じわじわと明るくなり始めた。覚えている限り、昨夜は晴れていた。そのまま晴天となると、6月といえども部屋の中は真夏並みに暑くなるだろう。

「あんときゃ寒かったな」
 まだ4月の初め。春とはいえ夜になると底冷えの季節で、海風が強い夜だった。
 秋山の貸してくれたマントは体をすっぽり覆うには十分だったが、寒さを和らげてはくれなかった。そのマントに包まり、歯の根が噛み合わない程震えていた砥上の目の前で彼が短い言葉を二言三言唱えると、まるで透明なアクリルボードに蛍光ペンで描かれるように鮮やかな魔法陣が展開された。
「裸の男を背負う趣味はねぇ。悪ぃけど、自分で歩いてくれや」

 その鮮やかさに見惚れている砥上に向かい、彼はそういったのだ

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