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きんの砂〜3.預カリマス(2)

 男ふたりが上にあがったあと、亞伽砂はすぐに公宣のスマートフォンに電話をかけた。ずっとこの家の通信環境はどうなっているのかと考えていたのだが、立ち上げたパソコンのモニターに見慣れたWi-Fiの印を見つけたのだ。店主席に電話の子機があるものの台所にもルーターの類がなかったので、てっきり見えないように敷設されているかと思って、亞伽砂はLANポートに接続されたケーブルがどこを通っているのか調べてみることにした。パソコンの本体の後ろにあるL ANケーブルをそっと持ち上げてその先を辿っていく。水色の線はカウンターの天板の下に伸び、側面の板との境に開けられた小さな穴から内側に引き込まれている。彼女は畳の上に上がり潜り込むようにしてカウンターの中の細い棚に頭を入れた。暗い中にLANケーブルが通る小さな穴の光が見える。手を伸ばし穴の脇のケーブルを探し出し伝って行くとすぐに丸みを帯びた物に突き当たった。それを掴み引き出してみると、頭のないツルんとしたマウスの尻が出てきた。
 これは、どんなつもりで。
 「何してんの」
 カウンターの下に頭を突っ込んで動かなくなった妹を花穂が訝しむ。亞伽砂がケーブルの長さギリギリまでマウスを引っ張り姉に見せると、すぐに彼女は吹き出して笑い声をあげた。
 「いい趣味してる、おじいちゃん」
 この趣味はあの祖父のものなのか、それとも変わり者と呼ばれていた得馬の恩師のものなのか。
 花穂の笑い声に混じってスマートフォンの着信音が鳴った。公宣からだ。亞伽砂が予想した通り、祖父の部屋にはルーターがあり、さらにワイヤレスのプリンターもあった。彼女はプリンターの電源を入れておくように頼んで電話を切った。家にはプリンターがないため、必要書類はコンビニでプリントアウトすることになるかもしれないと思っていたが、どうやら使わなくても良さそうだ。
 「ねえ、あの人いいじゃない」
 ひとしきり笑い続けたあと、滲んだ笑い涙を拭いて作業を再開した花穂がおもむろに口にした。パソコンの中の書類を見ていた亞伽砂の手が止まる。
 「あの人って、小柳さんのこと?」
 方や「そう」と答えたものの、平台に仮置きされた本の汚れを落とす手を止めずに花穂は続ける。「あいつよりずっと誠実そうだし、偉ぶらないし、公ちゃんが楽しそう」
 時々花穂が使う公ちゃんという呼び名を、当の公宣は好きではない。なんだかいつまでたっても大人として認めてもらえてないような気がするのだろう。だが姉は公宣の顔色なんてお構いなしに使う。
 「だったら、公宣に勧めればいいなじゃい」
 「やだあーちゃん、いつからそんな趣味になったの」
 書架に本を戻したその格好のまま、ギョッとした目で亞伽砂を見る。彼女が自分のことをそんな風に呼ぶのはいつ以来だろうか。
 「いつからでもなってない。でも、彼のことをそんな風に見るのはやめてよ。貴重な協力者なんだから」
 頬を膨らます。
 しばらくは、この関係を続けていたい。亞伽砂には気軽に話せる異性の友人がいない。意識していないのではなく、これまではただ必要がなかっただけなのだ。近くに公宣という弟がいたせいもあるだろう。だから気さくで話しやすい彼とはいい友達になれるような予感がするのだ。それに店を続けて行くのなら彼のような第三者も必要だと思う。兄弟の公宣だけではいつか何かのきっかけで衝突した時のダメージがあまりにも大きそうだし、来年からは社会人になる彼をいつまでも当てには出来ない。そうした意味でも彼とはフラットな関係でいたいのだ。
 協力者でもあり、相談者でもあって欲しい。出会ったばかりの男性にそう望むのは虫が良すぎるだろうか。
 「まあそうね」
 短い返事を返すと、花穂はまた書架に向き直った。この店で高春に襲われた夜、彼女は部屋で泣いていた。相手の豹変ぶりや襲われたことの恐怖心もあっただろうが、やはり恋人としての情もあったのだろう。彼との付き合いに限界を感じていたとしても、一度は好きになり多くの時間を共有した相手だ。そう簡単に心の中から締め出すことはできないに決まっている。それでも彼女がこうして笑っていられるのはやはり、店があったからだ。悲しみや後悔で空いた穴を、店のことを考えることで埋めていたのだ。はっきり口にするまでは迷っていたように見えても、きっと無意識に心の奥では継ぐことを決めていたに違いない。
 下に落とされたブックカバーを掛けられた本を全て書架に戻し、花穂はその他の本の整理に取り掛かった。落とされた衝撃でブックカバーから預け主のメモが落ちてしまったものもあるが、それは亞伽砂が見ているパソコンの中のリストでわかればいいと期待をしている。店を荒らした人間は落とした本の上をお構いなしに歩き回ったらしく、中には敗れてしまったり写真が皺だらけになってしまった本もある。
 会話が途切れそれぞれの仕事に没頭する中、店の外に車が止まる気配がした。
 二つのドアを閉める音が聞こえたかと思うと前触れなく、引き戸が開けられる。
 「すみませんが」
 見知らぬ男だ。がっしりした体格で、声がでかい。
 「こちらに小柳という柳のような奴はいませんか」
 おそらく、いや間違いなく彼が得馬のいっていたガラスの修繕を頼んだ知り合いに違いない。いきなりの登場でその台詞、花穂は得馬の姿を思い浮かべて妙に納得がいった。確かに彼は柳のようなところがある。体つきではなく、何に対しても冷静に受け止める様が柳の持つしなやかさに似ていなくもない。
 「いま、呼びますね」
 かたや突然の訪問で呆気に取られていた亞伽砂は、はっとしてスマートフォンを手にした。呼び出したのは公宣の電話番号。得馬からは名刺をもらっていたがまだ番号を登録していない。
 程なくしてその得馬が降りてきて小さい出入り口から顔を出す。
 「笠置さん、ご苦労様です」とだけいうとすぐに引っ込み、今度は靴を手に出てきた。その様子を笠置は、ちょこまかと忙しい奴だなという感じで眺める。
 「すぐわかりましたか」
 当然のようにくっついてきた公宣も一緒に店先にでたので、亞伽砂もすぐに出た。いまや弟は得馬の金魚のフンか子分で、誰の弟かわからない。
 「ああ。この道はたまにしか通らんから気づかなかったが」
 ぐるりと視線を店内に回らすその後ろから、もうひとりの訪問者が顔を出した。笠置よりもさらに年配で、こちらが本当の職人だとすぐに見てわかる。
 「お兄さんがここの店主かい」
 笠置と話をする得馬を見た。
 「いえ、僕は手伝いです」
 得馬が少し体を避けてくれたので、遠慮なく亞伽砂は横に並んだ。
 「私が店主の中山です」
 「時田サッシ店です」
 彼女は渡された名刺に目を通した。時田裕一。住所は隣の市になっている。
 「早速だけど、直すのはこの引き戸かな」
 彼はすぐにカレンダーで応急処置をされたサッシに手をかけたが、動かそうとして固いことに気付く。
 「少しずらすと外れるかも」
 見ていた公宣が手を貸して動かすと、別の問題があることにも気づいたようだ。
 「戸車の清掃も必要かもしれないね。あと、枠全体の歪みも見てみよう」
 「割れたガラスは持っていってくれますか」
 これまで黙って見ていた花穂がすかさず口を挟んだ。
 そんな様子を横目に、笠置は店内を眺める。
 「なるほど、小さい店だな」
 どこもかしこも本だらけだ。そしてちらりと得馬に目を向ける。一週間であの部屋が元通りになることはないだろうが、掃除をしなくてもさほど汚れることはないだろう。それほどなんでも欲しがる年代のくせに物が少ない部屋だった。仕事の合間での会話の中でも、相変わらず実家暮らしの時の連中とは連絡も取っていないようだ。物欲が無いとかではなく、あまり物や人に興味を持てない性格なのではないかと彼のことを考えていた。だがそうではなく、ただ単に今までの環境の中に執着するほどの要素がなかっただけなのかもしれない。でなければたまたま訪れた懐かしい場所での出会いに、これほど関わろうとするはずがない。
 「無理をいって、本当にすみません」
 そんな笠置に亞伽砂が頭を下げた。この店にこだわる理由は彼女だろうか。
 「いや、店の入り口は顔だからさ、早く治した方がいいでしょ」
 自分に話しかける時とは随分違うソフトな口調に思わず得馬の鼻が鳴る。多分いまの自分の顔は微妙な笑いに緩んでいるに違いない。笠置のことだから、月曜日に顔を合わせた途端にきっと何かいってくるはずだ。
 「なんとか夕方には出来るみたいよ」
 時田の作業を見ていた公宣が戻ってきて亞伽砂に報告した。道路に停めたトラックの荷台にサッシを運んだ後、彼は時田が荷締めをするのを穴が開くほど見ていた。その目の輝きはあの夜、パスワードを解読した得馬を見ていたのと同じ目だ。
 まったく、男の子というのは何にでも興味を示す。
 「じゃあ俺も行くわ」
 ガラスの入ったビニール袋を花穂から受け取り、笠置も外に出た。
 「また来ますか」
 得馬が尋ねると笠置は首を横に振った。「お前俺のこと暇だと思ってるだろ」
 「そりゃあ」
 なにしろ休日を潰してまで妻と人の部屋を片付けに来るのだ。
 「そうだ、防犯に不安があるならこいつに対策させるといいよ。専門だからな」
 言い捨てて、2tトラックの助手席に乗り込んだ。
 走り去るトラックを見送ると、急に静かになる。
 「ごめん、騒がしくて」
 ほっとした様子で息を吐きながら、ポツリと得馬が呟いた。
 「まあ、ちょっとびっくりしたけど」
 穏やかな得馬とは正反対の、エネルギッシュな人物だった。対して姉は「面倒見が良い、いい人じゃない」と、姉妹でもそれぞれ感想は違うようだ。ちなみに公宣はあまり気にしていないらしく、亞伽砂から借りた名刺を穴の開くほど見ていた。

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