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一週間が経った

知人が亡くなっていたことを知ってから、一週間あまりが過ぎた。

振り返れば、一月下旬くらいに夢枕に二晩続けて故人が現れたとき以来、何かが変化していたのかもしれない。

それまでもルドルフ・シュタイナーのような著作を読んだ経験があったが、「死」に関する情報が急激に気になるようになり、このnoteでも取り上げた『死は存在しない』のような書籍を読んでみたりした。

そのあとでシュタイナーの翻訳書を読み返すようになり、『死後の生活』を再読し終えたあたりで、訃報を知ったのであった。

しかし考えてみれば、昨年末あたりからも「お迎え現象」が第三者的視点から見える私のようなケースについて調べてみたり、ここ数か月は「死」についてあらためて考える機会が多かった。

それが知人の死と何らかの関係があったかどうかは分からないが、シュタイナーを再読する作業は、訃報を聞いた時点から続けている。

大切な知己の死はこれまでも何度かあった。しかし今度ばかりはひどく応えた。先週後半にやった仕事には、大過はないけれど、ふだんやらないようなミスが頻発していた。

われわれは前世でも友人であったでしょう、と互いにメールで確認したこともあった。そういう知人はごく限られる。

それでも前に進まなくてはならない。知人も多次元的世界でそうしているはずであるから。

画像は知人が愛してたびたび訪れていた地域、岐阜県中津川市加子母。ここで知人や門下の学生たちと自転車に乗ったのも、もう10年ほど前のことになったが、今でも昨日のことのように思い出すことができる。



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