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旅の追憶のコラージュ

 自転車の旅の記憶は、ある部分、古い夢の記憶にも似て、断片的であるけれど、なぜかどこか、それらの断片や破片は、本来それらが属していたシークエンスとは別の流れのなかに吸い寄せられる傾向があるようだ。
 それは、美術で言うとコラージュみたいなものかもしれないし、音楽では、対位法的なあり方に通じるものがあるのかもしれない。言語では、ばらばらになっていた文字を統合しようとしたあげく、別の新しい文字を作ってしまったという伝説のような話に遠からず、だろうか。
     
 そのとき私が乗っていたのは、旧いクモハだった。旧型国電にはいささかも詳しくないのだが、たぶんクモハ四三とか五三というような型だったろう。油の染み込んだ木の床に、ビロードの青いシート。窓枠もニス塗りの木製で、窓を押し上げる金具はすっかりくすんだ色の真鍮だ。そういう車窓の横で頬杖でもついて外を眺めるのが好きなんだけれど、そのときはそうはいかなかった。輪行袋を携えていたからだ。
 だから、戸袋に近い、進行方向に平行なシートに座っていた。私は高校二年で、輪行というものを始めたばかりだった。輪行袋でさえ、世話になっているショップの店主に借りたもので、袋の中身はブリヂストンのユーラシア。フレームの色は、赤茶色だった。
 クモハの運転台の背後にあるガラスには、特有の書体で「乗務員室」と記されている。あの頃の単線のダイヤは、かなりのん気であって、交換待ちで一〇分以上待たされるなんてのはざらだった。青とクリームの、スカ色の車体。そういう旧い電車に乗って、私はとなりの県に出かけた。大した距離を走ったわけじゃないが、輪行で北の方向に向かう日帰りのツーリングを、その頃、初めてやった。
 甲斐岩間駅というところで、記憶が正しければ二回ほど輪行して帰りの電車に乗ったことがある。師走と春先のことで、帰路の車窓は漆黒の闇だった。
 それから二年ほどして、初めての三泊四日の旅に出かけた。このときは輪行ではなかったが、それなりに経路と平行するローカル線を意識して走った。自宅のある静岡では見られない色の電車を長野県で見て、ひどく感激した。
 その同じ日の午前、前年に高校の部活の合宿旅行に出かける折、バスで通った国道を走って、去年の夏に見た同じ白樺の木の傍らを通ったと思った。一九七九年の夏。ランドナーの全盛期。しかし、今と比べれば、制動力を筆頭に、あちこちけっこうお粗末だった。翌日、昼過ぎまで降られて、新調したばかりの650Bタイヤのサイドがブレーキシューから流れた汚れで真っ黒になった。
 国道からそれて、ローカルな名前の木造の駅に立ち寄った。ほんの記念のつもりで、最短区間の切符だけ買ってみた。硬券だった。そのあとも降ったり止んだりで、別の小さな無人駅で雨宿りをさせてもらい、土地の人と少し話をした。その路線も、そのときはまだ旧型の国電が走っていた。雨の上がった谷間の向こうを、スカ色の電車が走って行った。
 
 秋田の海辺の国道の脇で、私は雨宿りをしていた。一九九四年の夏の終わり。北の海浜に降りつのる雨に、秋の気配が忍び寄っていた。一四年後の春、私はその辺りをキハ四〇に乗って北上していた。きれぎれで、独身時代に旅した道が車窓から見えた。
 自転車で旅をするような人間の一定の割合は、確実に鉄道の旅も好む。そういう人物と一緒に鉄道に乗り込むと、かなりの時間、たがいに無言で過ごすことになる。それぞれに車窓の外ばかり見ている。そしてそれに飽かない。
 自転車で走るときも、私の旅はたいがい鈍行的な旅になってしまう。そもそも走行速度が決して速くないうえに、ところどころで、街道筋から少々離れて、地元の生活道路に入り込んだりする。ずっとそういう調子で走り続けるわけにはいかないものの、そういう行程もないとつまらないし、そういう道で見かけたありふれた情景が、結局、記憶に残ることが多い。
 あれは、銚子の外川という辺り。その日の昼前に銚子電鉄の外川駅から輪行して帰ればそれでいいので、周辺をしばらく自転車で散策した。台地が海に突き出たような地形で、妙に空が広く、そして風通しが良かった。キャベツ畑の傍らに潅木の木立があり、線路脇にああこういうところに一年くらい暮らしてみたいと思うような、のん気な感じの風景が広がっていた。
 そう言えば、あの開けっぴろげな感じは、三日前にその旅を始めた内陸の都市と、ずいぶん違った空気感だった。私は山に囲まれた盆地の街にもすごく魅かれるし、どっちがどうと言うつもりはないけれど、海辺の開けた寂しさには自然と体が馴染むような感じがある。
   
 そのように、自転車の旅という筋に沿って、記憶の断片やきれぎれを貼り付けてゆくと、ひとつはやっぱり輪行したり、雨宿りしたりした、鉄道や駅にまつわる風景だったりする。もちろん天候だってそれはそうなのだが、雨や雷などは、むしろ風景そのものにくっついていて、それだけを分離して記憶にとどめるようなことは、私の場合、ほとんどない。
 夏の終わりにある小さな町に辿り着いた夕暮れ、その一刻は、この世のものとは思えないくらいに光の濃淡が極まっていた。すべてがリバーサルフィルム、それも特別彩度とコントラストの高い富士のベルビアみたいな発色だった。宿に着き、風呂に入る前にちょっと散歩した日没時が、発色のピークだった。カメラを持って出なかったことを悔やんだが、しかし、撮影していたら、そこまで記憶に残ったかどうかわからない。
 色彩の記憶は、そのように、天候と結びつくこともあれば、土の色や植生の色として、旅の記憶を彩ることもままある。川の色だって、花崗岩の多いところと鉄分の多い土壌、岩盤というものがあまりない地質などではまるで違う。
 そうだ、川。いくつかの大きな川に沿って走ったことがある。川というのは、物事が変化する、というこの世の法則を、風景に巨大な彫刻を刻むようにして見せてくれているようなところがある。千年、万年単位の時間が、凝縮されてそこにあるように見える。川を旅するのは水だが、川はまた時間も旅している。
    
 われわれのような自転車乗り、自転車の旅人、シクロツーリストは、あたり前だが、道を、道路を旅する。馬鹿みたいに自明のことのようだけれど、世間をよく観察すると、道や道路そのものを旅の対象としている人は決して多くないことがわかる。団体バス旅行は、道を旅するのではなくて、「道中」なのだ。バスに乗ったら、休憩地や目的地に着くまでは、まあ宴会場と大差ない。そこはワープに等しいのだ。
 自分で車を運転して移動するのはだいぶ違うであろう。しかし、道路が本来その利用者、通過者に要求するところの身体的負担というものを、車はほとんどスルーしてしまう。そういう意味では、道路のリアリティをそれとして受け止める旅人は、サイクリストとウォーカーぐらいのものかもしれない。
 でもなぜわれわれは、徒歩、ウォーキングではないのか。
 私はひとつは、重力からの部分的な解放だと思う。浮遊感、飛行感と言ってもいい。この乗り物を推進させるためにわれわれは体力を使う必要があるけれど、身体は地べたから少しだけ浮いていることができるのだ。慣性や車輪やフリーホイールというありがたいものがあるために、足をとめても自転車は進む。徒歩はそうはいかぬ。休む暇がないのだ。自転車は惰性のある場合や下り坂では、ペダリングしなくても前へ進んで行く。
 こういった分の余裕が、われわれをして、道路の周辺に目や意識を向けさせる。自転車の旅は確かに人力に頼るが、わずか一〇㎏あまりの機械が果たす役割は極めて大きい。
 ところで、道や道路というものも、風景としてはそれほどつかみどころが多くない。道や道路それ自体がはっきりとした映像的輪郭を持っているのは、高架の自動車専用道路ぐらいのもので、あとは要するに、道路に沿う家並みや自然地形や人工物が、道路という空間を規定している場合が大半なのではないか。よほど特徴的な曲がり方や斜度や直線性でもそこにあるのでない限り、道というものの主な表情は、だいたいそのほとりにあるものによって規定されている。
 町並みなど、その最たるものだ。伝統的な木造建築であっても、地方によってその造りがだいぶ違う。東日本と西日本では、外壁の木の貼り方も異なっていることが多い。家の周りの垣根だって、気候や植生を反映している。関東で多い道沿いのケヤキの木などは、落葉樹の少ない東海地方ではあまり見られない。マキの木に囲まれた屋敷の横を行く道などは、いかにもあっけらかんとした冬の東海地方らしい風景だ。
    
 道のほとり。街道の岸辺。道路は川ではないし、自転車は船でもないのだが、ときにわれわれの旅をする経路は、そのような流れの上にあるようにも思える。道は川に似て、いろんなものを運んでくる。
 川に淀みがあるように、道路にも、たまりのような場所が生まれるときがある。道の駅とは、そういうものを四輪車向けに人為的に建設したものだ。自転車にもときにはありがたいものではあるが、もっとスケールの小さな、自然発生的なたまりにもわれわれは引き寄せられることがある。
 例えば、ほんの少し前まで、日本の片田舎のどこにでもあった小さな食料品店。自動販売機が店の間口をすっかり埋め尽くしてしまうような風景が当たり前になるまで、そういう店はいつもどこかに人の気配がし、まあちょっと休んでいきなよ、兄さん、というような雰囲気が横溢していた。
 そういうわけで、ついついペダルを回す足を止め、半ば西日に照らされたアイスの冷蔵庫などに近寄り、ガラス蓋に置かれた日よけのダンボールを外して開け、棒アイスなどを買ってしまったりする。よくよく考えると、子供の頃にしていたことと、あまり変わらないのだ。次の街までの距離はあらかたわかっているのだけれど、「○○まではまだけっこうありますかね」なんて、ついおばちゃんに聞いてしまう。
 腹が減ってくると、いよいよそういう「たまり」を求める思いは切実となる。しかし昨今、地方では駅前ですら適当な食堂を探すのは難しくなってきた。それはまあコンビニの弁当でも用は足りると言えば足りるのだが、旅なんだから、当たり外れがあったとしても、やっぱり普通の食堂に入りたいのである。
 しかし、私の場合は、ありふれたメニューでいいのだ。昔はよくカツカレーを大盛りで食らっていたし、いまでも何日か旅に出ると、たいがいどこかで一度は食べる。昼飯にあぶれかけたときに辿り着いた食堂やレストランは、実によく記憶している。十日町とか、伏木とか、野辺山とかね。昼飯を食って少し世間話をした店などは、根っこが生えかかったりして、さあ、行くぞ、と自分にハッパをかけないとなかなか去りがたい。
     
 気の合う仲間とのシクロツーリスムももちろん愉しいけれども、独り旅には独り旅ゆえの面白さがある。その面白さの中には、寂しさも含まれる。寂しいことがなんで面白いのかということを説明するのにはやや骨が折れるが、要するに本を読むことに似ているのである。いくらその本が素晴らしくても、学校の授業のように皆で声を出して一斉に読んでも感動は別段深まりはしない。
 本を読むということが、たとえ一方通行であるにせよ、それを書いた人間との一種のコミュニケーションであると同様に、自転車の旅もまた、シクロツーリストと、彼または彼女を取り巻く世界とのひとつの対話かもしれない。本が究極的には、人間というものに辿り着くように、自転車の旅もまた、自分と異なる人間との出会いに収斂するところがある。
 ま、しかしそうは言っても、しょせんは人力の旅行者、いい齢をして汗だくでペダルを漕ぎ、宿につけば洗濯物の心配もしなけりゃならぬというような行動からして、当世はあまり格好良くは思われないだろうというのが正直なところだ。
 ランドナーの全盛期であった一九七〇年代の後半というのは、多くの若者が旅というものに憧れた時代でもあった。そこからだいたい十年くらいは、歌謡曲やニューミュージックの歌詞に、旅とリンクした内容のものがずいぶんと目立ったように思う。
 私もその一人だが、あの頃、旅に出ていたシクロツーリストは、もはや皆中年以上の年齢になっているはずである。そこそこ走っていても、やっぱり腹も出てくるし、不本意ながらだんだん枯れてくたびれてくるのは、生きている以上、止むを得ない。
 が、旅をする自転車、なかでもランドナーという様式のそれは、いまだに私にとってはある種のオーラを放っているように見える。いや、昔のままのコテコテの古典ランドナーが最上だと言っているのではない。むしろ私は、制動力や操縦安定性、快適性などには現代的な機能も大いに持ち込むべきだと思っている。私自身は、熱中症になりそうなひどく暑い日の長い登坂を除けば、ほとんど常時ヘルメットも着用するし。
   
 むしろランドナーは、私にとっては、旅の機材であると同時に、さまざまな追憶を統合する一種の磁場のようなものなのかもしれない。それは過去だけでなく、未来のほうにも伸びているので、ランドナーを眺めていると、また、ぼちぼち出かけるか、という気分にもなる。
 だからランドナーが道のほとりに佇んでいるといった、シクロツーリスムの典型的な写真には、それを撮った本人がそのとき意識していた以上のことが現れているのかも、と思ったりもするのだ。それは確かに物体としての存在なのだが、物質以上の何かがそこに刻印されている。ランドナーに乗っていなかったとすれば、シクロツーリスムは私にとって別のものであった可能性が高いだろう。

                               (了)

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