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旅とは何か

旅とは何かをずっと考え続けてきたように思う。そしてある時期から、旅は生きることの縮図であり、つまり模型や雛型であり、その中に生きながら、人生をどこか別の視点で俯瞰するようなことではないかと思うようになった。

人生の始まりと終わりを知るためには、われわれは人生の外へと出なければならないのだが(つまり死というものを知らなければならないのだが)、旅をすることで、人生の一定期間(ふつうは数日だ)に始めと終わりを設定することができる。

どうも、旅は、生とか死とかに関わるものであるらしい。ふつうは、旅というものは、人生における一つのピークのようなイベントだから、明るいイメージで捉えられる。結婚や永年勤続や退職などの記念に旅をすることが多い。

けれでも、私と相棒のかみさんが今回やったような「連休巡礼」の旅は、確かにかみさんに言わせると「慰安旅行」でもあるのだが、友人を喪った私にとっては一つの巡礼そのものでもあった。

かつて友人と仕事で訪れた岐阜県中津川市の加子母に足を運び、故人の最期の日々の消息を知る二人に会うことができた。長野県飯田市では、旧友の二人と会話することができた。そして山梨県本栖湖では、キャンプ場で何かの送り火のような焚火と野営をした。

そうして今は静岡市に帰り、ふだんの生活に戻っているのだが、巡礼の旅の余韻がまだ身体と魂と精神のどこかに響き続けている。

旅は不思議なものだ。その不思議さをある程度は言葉で説明できるのかもしれないが、肝心の部分は言語化が不可能なような気もする。生きることの祝祭であるはずの旅は、そのどこかに死を孕んでいる。

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