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第3者的視点のお迎え現象

一般的に「お迎え現象」とは、これから亡くなる人が、すでに亡くなった親族や、生前親しかった亡くなった友人などの来訪を受けることを言うようだ。

私のように、葬儀場や斎場で、物故者が、亡くなったばかりの故人を迎えにくる現象が脳裏に見えることとは、厳密に言えば異なる。そして、この件に関しては事例を収集した論文なども、今のところネットを渉猟した限りではほとんど見当たらないようだ。

グリーフケアについて述べているようなサイトを見ても同様である。終末期のケアや遺族のケアについては、心理面のケアが主眼と見られていて、(それがあるとすればだが)多次元的領域で死者のその領域への移行がどのように行われたかについてはほとんど考慮されていない。

しかし、遺族が悲しむのは、この3次元空間で起こった身内の死なのであるから、その悲嘆を軽減する何らかの根拠は、やはり事実(もしくは事実と思われること)に依拠するのではないか。

私が経験した中では、故人に先に亡くなっている親族等が迎えに来ていることを見た、と告げた場合、ほとんどの遺族が安心または安堵したような態度を見せた。3次元の現実としては、故人は荼毘に付されて遺骨になってしまったのだが、多次元的な現実(のように見えること)では、別の世界へとすでのその世界に達している存在からの導きを受けているからである。

そのことは、遺族にとっては慰めとなる。ごく最近まで3次元世界に肉体を持って存在していた故人は、遺骨や遺灰に帰したのではなく、新しい別の旅を始めたと考えることができるからである。

死は生の終焉なのではなく、第2の生の始まりである、と単に概念的に考えるだけでなく、たとえそれが多次元的な現象であったとしても、事実と呼べるものに近い立体感を持って受け止めることができるとすれば、人の死生観は変わるだろう。それこそが、遺族へのグリーフケアの一つになりうるのではないだろうか。

「お迎え現象」を肯定的に見る立場であっても、これを事実と考える向きは少数派なのであって、大半は「死期が近付いて意識が混濁した脳が見る幻視」という風に捉えることが普通となっている。

このことは私に、20世紀最大のSF作品のひとつである、スタニスワフ・レムの『ソラリス』の一節を思い出させる。

『ソラリス』では、外宇宙のある惑星で、人間の思考や無意識下の精神活動が物質化するという現象が起きている。このことを地球の委員会に報告した宇宙飛行士は、精神に異常をきたしているのでないかという見方にさらされる。

これに対して、当の宇宙飛行士はこんな風に抗弁するのである。「この場合、委員会の決定は私個人の名誉というより━━そんなものはこの場合意味がありません、私個人の名誉などどうでもいいのです━━探検の精神を侮辱していると思います」

そして宇宙飛行士は、ただ一人彼のレポートを事実として認めたある学者に会う許可を委員会から得るのである。

「お迎え現象」も、より広い見方をすれば、多次元的宇宙の中で起こっている、一種の物質化的現象のように私には思える。これを単に「幻視」として片付けるか、真面目に学問的対象とするかは、この世界のすぐ隣にある別の宇宙をどう捉えるかという、極めて切実なはずの問いに直結しているのである。そこには「探検の精神」が必要なのである。

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