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青森から秋田へのランドナーの旅(4/十三湖~金木)


 K旅館で通してもらった部屋は、二階の海側。敷地の仕切りには、例の、くすんだ細長い木の板を連ねた塀が並んでいる。その向こうは水面だ。細長い砂洲のなかにまた、細長い潟湖があるという入れ子構造。その向こうに砂を盛り上げたような防波堤があり、日本海は見えない、しかし、まったくもって、見たことがないような景観だ。
 十数畳はある部屋は、本日は私に貸切り。おおらかさに笑い出しそうになる。宿のおかみさんものんきそうな、感じの良い方である。通ってきた龍泊ラインの話をすると、やっぱり、夕方から朝にかけては、熊が出ることもあるらしい。
 夕食をもらってから、適当に、そこいらにあった寝具を持ってきてごろごろしていたら苦笑された。そう言ってはなんだが、親戚の家に泊めてもらっているような気楽さがあり、やっぱり宿は気取らない方がいいな、とつくづく思った。
 二階の洗面所の窓は北向きで、通ってきた半島の尾根が見える。すでに青黒い山の輪郭が、北国の漆黒の闇にようやく浮かんでいるといった呈だ。
買物がてら、ぶらぶらと夜の目抜き通りに出る。目抜き通りと言ったって、二〇時も回るくらいのその時間には、車も人影もない。まばらな家並みから、少し明りがこぼれている程度だ。
 しかしなぜだか、寂しくない。家も明りも少ないのに、十三の村の通りには、妙な親密さが満ちている。この辺りだけで、百人も住んでいるかどうかというような感じだったから、もう店も開いていないだろうな、と思ったら、そうでもない。それどころか、奥で御主人がテレビを見ているところまで見えそうなくらい、のんきに店を開けている。
 どうせ起きているんだから、店だって開けているからね、というような雰囲気だった。そのせいだろうか、と思った。窓を開けていてちょうどいいくらいの気温で、なんだか、夜の静かな通りに、それぞれの家の中の空気感が流れ出してきているような感じだ。
 不思議なことに、人の少ない、この海辺の村の夜の方が、どこかほっとするような人の存在感が伝わってくるのだ。それは、竜飛から小泊間の、原生林に面した尾根の国道と正反対の雰囲気だった。昼であっても森は恐ろしく、夜でも人の世界には温もりがある。
 あるいはそれは、この村の人々の共同体感覚そのものだったかもしれない、と今になって思う。そのように、外の通りが、まるで巨大な家族の住まう家の廊下のように感じられたのは、この十三の村だけだった。
 あれ以来、どこの町や村の通りを歩いても、同じような不思議な感覚に出会ったことは一度としてない。
 砂洲の上というより、海の中に浮遊しているような十三の村で、夜は更けた。

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 翌朝は早く目覚めた。朝食の前に自転車で界隈を散歩する。何もかもが、北の海辺だ。くすんだ木の色の民家も、小屋も、電柱も、すべての密度が低い。奪い合うような空間など、ここには何もなく、九月の光も風も好きなように通り抜けている。
 東側、十三湖のほとりまで乗りつける。湖面に朝陽が反射し、その中にしじみ採りの船が出ている。岸から百メートル足らずだろうか。どうやらずいぶん遠浅らしい。それから、気になっていた昨日の十三大橋の方に回ってみた。日本海と、日本海と十三湖をつなぐ水路と、砂洲の中の潟湖と。三つの水域に囲まれた辺りに、二階建ての、漁業組合倉庫といったおもむきの廃墟がある。そこで一枚写真を撮る。

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 堤防の内側には、防砂林か防風林か、まだ背の低い松の苗が並んでいた。あの松も、今はずいぶんと背丈を伸ばしたろう。
 K旅館に戻ったら、朝餉の支度は佳境らしい。なんだか油で揚げている音がする。やれやれ、朝っぱらから揚げ物か、と待ち構えていたら、このさつま揚げみたいな揚げ物がひどく旨い。特産のしじみのみそ汁もいけるが、揚げ物はそれ以上に格別だった。
 聞いたら、人の良いおかみさんが、なんだかちょっと悪そうに、水産加工の段階で出てきたイカのげそやら何やらを揚げたものだと言う。この辺りではごく普通に食べているのだろう。しかしこれがいちばん印象に残った食い物であった。世間話のついでに少し聞くと、やっぱり日本海中部地震では、十三の村はけっこう被害を受けたようで、亡くなった人もいたとのことだった。
 荷物をまとめ始めていると、領収書を持ってきてくれて、ようよう乾きかけた洗濯物を見、「洗濯機貸してあげれば良かったね」と言ってくれた。最近は図々しくなって、こちらから頼むのだが、この頃は自分で洗面所で洗っては、しぼって干していたのだ。
 なんだか親戚に泊めてもらったような、気楽な宿で名残惜しいが、先は長いし、出発する。金木の方角を目指す。国道三三九号を横切った辺りから、ようやく街の風情になってきた。
 いちおう読者であったから、太宰治の生家として名高い、斜陽館に寄ってみる。なかなかの造りである。自転車を付近に立てかけて、中を覗き込んで見るが、どうもやっぱり名所というのは苦手で、太宰にはすまぬが、結局、ちゃんと館内には入らなかったのであった。あとは立寄るところは決まっている。金木の駅だ。ストーブ列車で有名な津軽鉄道の駅なのだ。
 寄ってみたら、駅の本屋(駅舎)は、平屋のこじんまりとした建物だった。調べてみたら、二〇〇三年ぐらいに改築されていて、画像で見る限り、もはやもとの駅の面影はない。当時の待合室のなかには、おやきか何かその類のものを焼く店があって、これが実にローカルでいい雰囲気だった。天井の低い待合室というのも、いかにも地鉄ならではの風情だ。
 駅員さんに断って、ホームにも出てみる。ストーブ列車は見なかったが、いかにも懐かしい塗色のディーゼル車両は見かけた。

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 佐々木昭一郎監督の『四季・ユートピアノ』では、主人公の女性の故郷が津軽に設定されているらしく、一九七〇年代末期に撮影されたと思われる、雪の津軽の風景も、冒頭を中心に何度か出てくる。雪の中のりんご畑や、小さな村や、学校や。津軽鉄道らしき、「鉄」の風物も現れる。
 そしてありとあらゆるものが、よくある劇映画の文法とはずいぶん異なった仕方で描かれる。それを私などがいちいち映画通気取りで解説してもつまらんので、機会があればぜひ観ていただきたいと思う。
 最近、十数年ぶりにこの映像作品を観る機会に恵まれたのは、米屋芸術家の友人N氏がビデオを持っていて貸してくれたからだ。観直してみると、ずいぶん忘れているシーンもあり、以前にはさして気にもとめなかったけれど、今だとずいぶん重く感じられる台詞に、あらためて気付いたりした。
 日本の辺土と思われるような土地を舞台に、主人公が上京するまでの話が進む。どうやらそのロケ地は、津軽と、北海道東部であるらしい。この作品に描かれる空間は、しかし、なにも東北や北海道だけではない。彼女が上京してからは、木場と思しきところや横浜や井の頭線の神泉駅など、首都圏の風景もかなりの部分を占めている。北の果ての国から、都心まで出てくるのだ。これを書いている二〇〇八年の現在からすれば、まあ三〇年ぐらい以前の日本の風景だ。
 それが、今とずいぶん違う。バブルの前後で大きく変わった首都圏はもちろんだが、東北や北海道だって違う感じだ。いや、この作品に出てくるひとつひとつのパーツのような場所や点景が変わったというのではなくて、この作品が全体で切り取った、一九七〇年代的な時空が、たぶんもう、今はほとんど見あたらないのだ。
 一九九四年の津軽の西の小さな村には、まだそれが残っていた。十三の村の通りの夜に、辺りを満たしていた不思議に涼しげな空気は、おそらくそれだ。
 バブル前夜の一九八〇年代前半は、ようやく日本のほとんどの土地で、なんとか普通に暮らしてゆくことができるようになった時代だろう。中古であれば、誰でも乗用車が持てるようになったのも、同じ頃だ。モーターサイクルも同様で、この時代には、今考えると、とても革ツナギなど着るようには思えなかった人々も、競うように単車の免許を取りに行ったものだ。
 そして、自転車の旅に出る若者は減った。
 七〇年代のカルチャーによく見られた、ある種の力みが敬遠されるようになったのも一因かもしれない。必死で、切実で、ひたむきで。時代のそのような気分が、どこかで置いてけぼりを食ったのだった。




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