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サラとマコト(掌編小説)

 青年はドロップハンドルの旅行用自転車に跨って、北の方角からやってきた。近くに店ひとつない無人駅のホームを眺めてから、駅前に隣合わせた小さな公園の柵に自転車を立てかけ、ボトルの水をひと口ふた口飲んで、ベンチに腰掛けた。
 浅い春の空はすすけていた。雲と言えば雲だが、薄いトレーシングペーパーを広げたようなヴェールがかかっていた。風景はといえば、褐色の土の畑と、何軒かの民家と、畑の果てにある防風林の木立ちぐらいのもの。人影も見当たらない。
 海鳴りだけが辺りを埋めていた。
 台地の東の果ては海岸に向って急傾斜で下り、遠浅の岸辺に絶え間なく打ち寄せる波の音だけが繰り返しそこから逆流してきた。それは、この土地を支える唯一のエネルギーのようでもあった。しかし、駅や線路や青年が走ってきた県道からは、海は少しも見ることができなかった。
 青年は自転車の前輪の両側とハンドルの前についた帆布のバッグのひとつから地図を取り出し、ベンチに座ってしばらくそれを広げていたが、そのうちに、外したヘルメット同様に傍らに置いてしまった。そして何を見るというわけでもなく、半ば放心したような体で、彼の周囲の世界に相対していた。
 公園は、さほど必要なものには見えなかった。そこで遊ぶような小さな子どもが近所にいるようなところとは思えなかった。
 しばらくすると、無人駅の警報機が鳴り始めた。単線の南側から二両編成の気動車が近付いて来、ホームに停車した。ディーゼル機関の音が響いているあいだは、海鳴りはそれに打ち消された。列車が出発してしまうと、また波の音が甦った。
 ワンボックスカーが一台、県道から駅前にタイヤを鳴らして入り込み、ただ一人降車した若い女の乗客を拾った。駅前から出てゆくときに、煙草の箱か、菓子のパッケージか、そんなものをドライバーが窓から投げ捨てた。
 青年はそれを見ていた。海鳴りは彼も、彼の自転車も、公園も、駅前に転がったごみも、舗道に吹き寄せられた土埃も乗り越えて、太古からの止まることのない心臓の音のように続いていた。
 何にどんな思いでいたのか、青年が両手をこめかみに当てて考え込むような姿勢になったとき、公園に腰の曲がった老婆が入ってきた。青年はそれに気付き、二つしかないベンチに座る気だろうと考えたのか、相手に気遣いをさせまいと老婆に注視するような格好になった。
 畑仕事をする格好になっていた老婆は、公園を横切っただけでどこにも座ったり止まったりしなかった。ゆっくりと、入ってきたのとは別の出入口から公園を離れた。
 青年はそれを見送った。
 見送ったまま、呆然とした表情が固まって、やがて彼の目に涙が滲んだ。その滲みもまた、海鳴りに共振していたかもしれない。
 青年と旅装を背負った自転車は、公園の土の上に午後の影を落とし、海鳴りと一体となった風が何度か吹きつけた。風は呼吸するように、風景を撫でていった。
 風が通り過ぎたあと、青年は気配を感じた。気がつくと、ベンチの足の影から子猫の姿がのぞいていた。黒と茶と黄土色の毛が混じった、サビ柄の子猫だった。彼のスニーカーと大して変わらないくらいの大きさだ。
 目が合うと、サビ猫はベンチに跳び上がって乗り、青年の手が届きそうなところまで近付いた。青年ははっとして、息を呑んだ。その刹那、世界の見え方が変わった。

(なぜ泣く? 兄ちゃん)
サビ猫はそう言った。青年の心の中に聞こえる声でそう尋ねた。
 彼は目を閉じ、何かを諦めたかのように深呼吸してから、今度は空を見上げるようにして言った。目尻に、自分の涙を感じた。
「哀しいからだよ、ニャンコちゃん」
 サビ猫はその声を聞き、少し首を傾けた。
(どうして、哀しい?)
 声は再び青年の裡に聞こえた。この子は女の子だな、と彼は思った。そうだ、サビ猫というのは皆、雌だったっけ、と思い出した。
「自分でもよくわからないんだよ、サビちゃん」
 サビ猫は傾けた首のまま、彼の目を見つめた。瞳の外側は黄色だった。
(名前、そうじゃない、違う)とサビ猫は言った。青年は驚いて、反射的に尋ねた。
「じゃ、なんて名前」
今度はサビ猫はしばらく何も言わなかった。促すように青年が少し顔を近づけると、こう言った。
(兄ちゃん、知ってる)
「いや、知らないよ、君と会ったのはたった今、初めてなんだから」青年がそう言うと、またサビ猫は首を傾げるような格好になった。そして繰り返した。
(兄ちゃん、知ってる)
 今度は青年のほうで考え込む仕草になった。ややあって、彼は何かに不意に気付いたという表情に変わった。
「君は、君の名前は……」

 青年は目を閉じて、この海鳴りの台地を吹き抜ける風圧のエネルギーに身を任せた。その一部は荒んでいた。ささくれ立っていた。満たされない何かが蠢いていた。陸の孤島のような、人家もまばらで、乾いた耕作地と、ひと気がないのに無駄に広い駅前空間や、子でもたちの寄り付かない公園、そういうものの背後に、消すことのできない哀しみが積み重なっていると思った。
 それはしかし、誰彼の署名があるようなものではなかった。十年や二十年のあいだに降り積もったようなものでもなかった。土壌のように、地層のように、あるいは億万年の時の層のように折り重なって生成されたものかもしれなかった。
 そしてそれが彼に涙させた。
 哀しみが哀しいからではなく、哀しみが哀しみと気付かれず、誰もそれを拾おうとしないことが哀しかった。
 それはこの土地の哀しみでもあったが、また、この陸の、この島国の、この星の哀しみでもあった。そしてそれは、掘り当てられなければならなかった。

「サラ」と彼がつぶやいたのと、小さな子猫の重みを二の腕に感じたのがほとんど同時だった。
(そう、サラ)とサビ猫は言った。
 それはかつて、青年の実家の隣の家で飼っていた猫の名前だった。その猫はサビ猫ではなく、キジトラ柄の猫だった。物干し台と屋根を使って、よく二階の青年の部屋に遊びに来ていた。青年の実家で猫好きだったのは彼だけだったので、猫を飼うことはままならず、隣家の猫をそっと可愛がっては慰めにしていた。
「サラ、おまえなのかい?」
(兄ちゃん、名前くれた)
 小さな子猫の小さな爪の尖りを、青年は腿の上に乗せた二の腕で知った。子猫はそこに身を乗り出して体を預けようとしていた。
「サラなんだね?」
(兄ちゃん、名前くれた、だから、あたち、サラになる)
 青年は、今気がついたというように、子猫の額を撫でた。彼女が気持ち良さそうに目を閉じたので、青年は何か胸が苦しくなるような気がした。
 彼は一瞬躊躇してから、子猫を抱き上げて胸元に引き寄せた。そうしていいかどうか、わからなかった。旅人だから、これ以上近付いても益がない。しばらくそうしていた。それから、おずおずと訊ねた。
「サラのおうちはどこ?」
 青年が撫でている指の下で、子猫が息をするのがわかった。
(おうち、ない)
「サラのママはどこ?」
(サラのママ、いない)
「サラのパパはどこ?」
 サラは身をよじって青年の指を逃れ、目を見開いて言った。
(兄ちゃん)
 青年は絶句した。どう答えていいかわからないだけでなく、それは彼が最も恐れ、また最も望んでいた答えだったから。
(名前くれた人、サラのパパ)
 青年は目をつぶり、深呼吸してからゆっくりと目を開け、周囲を見回した。誰もいなかった。他の猫もいなかった。

 三つあるバッグの中身を動かし、入れ替え、一部はサドルの後ろに予備のナイロン袋に入れて縛りつけ、彼は準備を整えた。
「さ、おいで」と彼が言うと、サラは自分から彼の両手の間に身を委ねた。そうしてハンドルバーの前にあるバッグの中に納まった。
「危ないから、いきなり外に出たりするんじゃないぞ」と青年は言った。
(サラ、ここにいる)と彼女は言った。それからつけ加えた、(サラ、パパの名前ほしい)と。
 青年はすぐにその意味に気付いて、フロントバッグに顔を寄せてつぶやいた。
「パパの名は、マコト」
(パパ、マコ)とサラは言った。
「マ・コ・トだよ、サラ」
(マコ)とサラは繰り返した。うまく言えないらしい。青年は苦笑して言った、「いいよ、マコでも」
 そして、バッグの蓋を静かに閉じた。ポケットのフラップのようにバッグの上に覆いかぶさって後ろ側をゴム紐で抑えているだけなので、風は通るし、自分の声も聞こえるだろう。
「トイレに行きたくなったりしたら、言いな」
(サラ、そうする)と子猫は答えた。
 じゃあ行こう、と言って青年はいつもより慎重に自転車を起こし、トップチューブに跨ってからトゥクリップの付いた右のペダルをつま先で拾った。
 一人と一匹を乗せた旅行用自転車は南に向って滑り出した。海鳴りを横切って、彼らは走り始めた。動き始めると、また風は変わった。自ら進もうとするものには、違う風が吹くのだった。

 五キロほど走ったところで青年はコンビニに立ち寄り、フロントバッグの蓋を開けてみた。サラはおとなしく青年の着替えを詰めたインナーバッグの上に座っていた。それを確かめてからまた蓋をし、店内で紙皿とキャットフードを買い込んできた。
 駐車場の隅のあまり目立たないところに移動して、サラを自転車の陰に下ろし、紙皿にボトルの水を注いだ。案外上手にサラはそれを飲んだ。腹も減らしているだろうと思い、子猫用ではなかったが水分の入ったやわらかい小分けのキャットフードも与えた。
 んちゃ、んちゃ、んちゃと音を立ててサラはそれを食べた。
「サラ、お腹減ってたか」青年は訊いた。
(サラ、お腹減ってた。たんと減ってた)
「もう少し食べるか」
(食べる)
 青年は、マコトは、キャットフードの残りを紙皿の上にあけてやった。
 それを見ているうちにまた涙が滲んできた。涙は頬を伝ってサビ猫の耳の後ろに落ちた。サビ猫のサラはそれに気付き、キャットフードが口についた顔でマコトを見上げた。
(また泣いた。パパ、また泣いた)
 マコトはコンビニに出入りする客から不審に思われぬように、そちらには背を向けて、この小さな生きもの、旅行用自転車とそのバッグとその回りという限られた領域の中に自分が持ち込んだ生きものの世界を見ていた。
(パパ、なんで泣く)
 マコトは、涙がこぼれぬように少し上を向いて、呟いた。
「愛(かな)しいからだよ、サラ。おまえのように小さきものは可愛くて、愛(いと)しい。それを愛(かな)しいとも言うんだよ」
 彼の言う「小さきもの」は、それを聞くと黙って青年を見上げ、しばらくそのまま彼を見つめ続けた。
 風が沸き、風が渡った。揺れるはずのない日射しがそのとき、揺れたように思われた。潮騒も止まったような気した。
(パパの魔法、変わってる)サラが言った。
 マコトの視線は一瞬の裡に固まり、刺すように尖り、やがてそれは元のように哀しみの光を帯びた。
「知ってたのか、やっぱり」彼は深く息を吸ってから、言った。「俺がその一族だってこと」
 子猫はマコトの息の音を聴くかのように、頭を少し傾げてから言った。
(だって、サラの言葉、分かる人、皆、魔法使い)
「それはそうだけど、魔法を使わなくても、サラみたいな小さきものの言葉を分かる人はいるよ」
 サラはそれには答えず、ただじっとマコトの瞳の中を覗き込んだ。潮騒が息をするように音が伸び、止まり、そしてまた、引き波の音がした。
「俺は何かを変えることができるわけじゃない」マコトは言った。「自転車にとって辛い向かい風を停めることができるわけでもないし、登り坂を緩めることもできない。もちろん、ハリー・ポッターやキキのように箒を飛行機にすることもできないんだ」
 自分を見つめている、黄色味を帯びた白目と黒褐色の黒目でくりくりとしたサラの瞳をマコトは見つめ返していた。
(兄ちゃん、サラの声分かる)
 ふっと微笑んで、マコトは答えた。
「そうだよ、俺の魔法はそれだけさ。誰かの心の中にあるものが分かる、それだけなんだ」

 マコトは自分でそう言うと、サラを拾ったさきほどの駅前で自分に流れ込んできたものが甦って来るのを知った。それは、風が体を通り抜けてゆくようなもので、止めようがなかった。
 乱暴な運転で駅前に入ってきたワンボックスカーの若い男と、鉄道から降りてきて男の車に乗り込んだやはり若い女から、似たようなエネルギーを感じた。誰が見てもそう思っただろうが、二人は同様に一種の毒気を発していて、だからこそ互いが互いの連れだったようだ。
「あの二人、はっきりとはわからないんだが、どうもそれぞれ、親と折り合いが悪かったみたいでね、虐待かニグレクトか、ま、そんなもんだろう」誰に言うとでもなく、マコトはそう呟いた。
「似たような境遇だから引き合うんだろうな。もっとも、彼ら自身、そのことはたぶんあまりわかってないだろうな」そう言ったあと、マコトはしばらく絶句するように口を噤み、やがて、ためていた息を吐き出して暗い顔になった。
「誰かがそのことを教えてやったほうがいいだろうけど、たぶん気がつかないだろうし、そういう仲間がいるようにも思えない。下手をすると、あいつら、自分たちの子どもを虐待するようになる。自分たちがやられたように」
 マコトは空を仰ぐよう、やりきれない、という表情になった。
(パパ、大丈夫? サラ、しんぱい)
「大丈夫だよ、サラ。ちょっと哀しくなっただけさ」
 哀しみは、その先も土地土地に沈んでいたが、彼らの轍のあとで、ほんのわずかないくつかは、空に向って風船のように解き放たれていった。
                               (了)

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