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ワンオフ(短編小説)

 独立記念日の翌日、シアトルの伯父から、またフェデックスで荷物が送られてきた。これで都合一七個目になる。毎年一個、それが一七年続いた。周期ゼミなら、もう地上に出てきてうるさく鳴く頃だ。幸い、私の住んでいるカリフォルニア州フレズノ近郊の街にはそういうセミは生息していない。あれは東部のセミだ。この街でうるさいのは、内燃機関である。一九七〇年代までは空軍の練習飛行場があり、そこがジムカーナ場とドラッグサーキットに変わってからは、大戦機のエンジンを積んだカミオンの類がウイリーして走るようになった。
 私はそのような、飛べない四輪の飛行場のほとりでダッツンやスバルのアフターパーツを製造、販売して、なんとかかみさんと一人娘を食わしてきたしがない四十代後半の男だ。大学ではシステム工学を専攻したが、機械工学か日本語を学んだほうが良かったかもしれない。しかしじきに、この商売もデッドエンドになるだろう。近頃では、PTAよりももっと面倒臭い連中が、いじくった自動車に反目するようになってきたのだ。
「また来たのね」と妻のジェニーが言った。「また手紙も何もなし?」
「そうだろうね」私は言って、ダンボールの蓋をとめたフェデックスのテープを剥がした。シアトル・タイムズをくしゃくしゃに丸めた緩衝材の中に、金属製の手の込んだ器械が入っていた。そしてカードが一枚。私はそれを取り上げて、読んだ。
 
 ロジャーへ。これでお節介な伯父さんからの定期送付物は最後になる。お前さんは機械ものに詳しいはずだから、あとは好きにすればいい。オークションに出してもかまわんよ。奥さんと娘によろしく。去年送ってくれたパイはとても旨かった。ジェフ

「それだけ?」ジェニーが訊いた。
「それだけだ」私はカードを彼女に渡し、送られたものをあらためて手にとってみた。自転車の変速機だ。それぐらいはわかる。伯父のジェフが私に送り続けてきたものは、すべて自転車の部品だった。もちろん伯父に何度かそれについて訊いてみた。だがいつも伯父の答えは決まっていて、それを言うと電話は切れた。
「お前だってエンジニアの一人じゃないか。自分で答えを探したほうが面白いだろ」
 くそ変人野郎め。だが、今回だけは、いつもと状況が少し違う。私は、決してPCなどやろうとしない伯父に連絡をとるために、擦り切れたアドレス帳を開いて、独り暮らしの伯父の電話番号をプッシュした。親父もお袋も他界した今では、彼に親族と呼べるのは私ぐらいしかいない。出たのは、女性の声だった。私が名乗ると、弁護士です、と言った。
「ジェフ・メイラー氏は昨日、シアトル・セントラル・ホスピタルで持病のため亡くなりました。私はご本人の遺言によって、葬儀および法的な手続きの一切を管理、遂行するよう委託されております。不動産、有価証券を含むメイラー氏の資産のほとんどは、北米シクロツーリスム協会に遺贈されることになりますが、住居内に保全されている工作機械およびツールのすべては、ロジャー・メイラー氏に贈与するとされています。あなたですね」
 私は、自分のファクトリーの事務所に立って電話していた。ガラス張りの安いキャビネットに自分の姿が映っていた。その中には、私が製作した四輪車部品のほか、伯父が送ってよこした一七箱分の部品も箱に戻されて並んでいた。ほかにどうすることもできなかったのだ。伯父が送ってきたものは、すべてハンドメイドの自転車部品だった。
 あるものは、アルミのインゴットから削り出され、またあるものは、スチールを折り曲げ、ロウ付けし、肉抜き加工やメッキを施したもので、別のは、もともと存在している既製の部品を軽量化したり、一部を自作のパーツに置き換えたりしたものだった。
 最も工作の程度が凄まじかったのは、フロントとリアの変速機であることは疑いを得なかった。もちろんそれは日本やイタリアやフランスの工業製品とは製法からしてまるで違うので、全体の洗練度は及びもつかなかったが、しかし、一人の男の手から生み出されたものだという迫力と凄みは、それらを凌いでいた。
 それくらい、私にだってわかる。私だって、人が乗るヴィークルの部品の図面を書いたり、削り出したり、溶接したりして、二〇年このかたやってきたのだ。
 ジェフが私に贈与した工作機械は、陸送してもらった。おかしなことに遺言にはその陸送費用のことも心配してあった。私がメルセデス・ベンツやジャギュアに乗るようなボスではなく、いつまでたってもプアマンズ・ポルシェやプアマンズ・BMWを好むような男であることを彼はよくわかっていたらしい。おかしなものだ。ジェフは、弟である親父が亡くなってから、二度ばかりフレズノ市街の母のところを尋ねたことがあり、そのとき私のところにも寄った。数年前に母が他界してからは、彼がこちらに来ることもなくなった。
 伯父とはいえ、私の少年期や幼年期の記憶に、彼はほとんど出現しない。その頃はまだ存命だった係累の人々にも、彼は変わり者の独居者と思われていたようだ。
 ジェフが他界して、じきに一年になろうかというある日、フレズノのダッツン・クラブの紹介で、熱心なモータリストの日本人が私のファクトリーに来た。なんでも、ダッツン510に関わった人々の伝記を書くつもりで、あちこち回っており、この車をサファリ・ラリーで優勝させたケニア在住のドライバーにも現地に出かけてなんとか会ってみたい、と言っていた。日本人は、私が作った510用のマニホールドやロールバーのアタッチメントを興味深く検分して、二次型モデル用のアルミのメーターパネルをひとつ買い、私や工場の写真を撮る許可を求めた。事務所でコーヒーを出すと、ところで、シアトルってすごく沢山コーヒーを飲むんですってね、私も負けないくらい飲みますが、と言った。
 シアトルの地名を彼が口にしたことがきっかけで、すべてが動き始めた。
「あなたは自転車も道楽にしていたと言ったが」と私が聞いた。彼が頷いたので、私はキャビネットからジェフの作品を取り出して見せた。彼の目の色が変わるのが、傍目にもはっきりと分かった。
「これは凄い。素人のものじゃない。いや、フランスや日本のアトリエを凌いでいるかもしれない。見たことのない構造のものさえある。レプリカ以上だ……まいったな。これじゃ帰れない……撮影しなきゃ……この街に泊まれるところはありますか?」
 私はジェフの作りだしたものが自転車の部品であることはわかっていたが、それがどういう様式の自転車に付くものかまでは、深く考えたことがなかった。サギサカというその日本人は、帰国してから私のメールアドレスあてにいろいろと資料を送ってくれた。
 その結果、ジェフの志向は、フランスタイプのハンドメイド・バイクにきわめて偏っていたことがわかった。属していたクラブや友人に遺贈した自転車は、すべてその種の、ランドヌーズとかツーリスムとか呼ばれるものだった。しかしなぜ彼が一台の完成車やフレームも私に遺さなかったかは、私にはわからなかった。
 ただ、サギサカが送ってくれた資料やURLを当たるうちに、私には、ジェフの好みからして、こういう様式の自転車に入れ込むようになるのは自然だということが自ずからわかるようになった。彼は、四輪車でも、合衆国のものは好まず、モーリスの旧いミニやルノーのR8、FRの時代のアルファロミオ、といった欧州車ばかり乗り継いでいた。私にはよくわかる。あの時代のヴィークルは、特別なのだ。
 だから、日を経ずして、私自身がそのような様式を持つ自転車の虜になってしまったのも、ある意味自然なことでもあったと言える。ジェフの友人を探し出して、ジェフが彼に遺した自転車を試乗させてもらったとき、私は自分の予想が正しかったことを確信した。この種の自転車には、旧いダッツンのスポーツカーと同様のエバーグリーンな乗り味がある。いや、厳密に言えば、両者のメカニズムに共通するものはほとんどないのだが、何かがそっくりなのだ。それはもしかしたら、ヴィークルと人間とのインターフェイスと言ったような、定量化できない部分なのかもしれない。
 しかしそういうこととまた別に、私には、この様式の自転車に、何か理由のわからないノスタルジアを感じた。それはなにか、初めて買ってもらった電動の玩具の自動車のように、胸のどこかが切なくなるようなニュアンスそのものだった。幼年期の記憶のどこかにそういうものが混じっているような感覚だった。
 ジェフの友人は良い人で、この自転車はあなたが持っていたほうが良いのではないかと言ってくれたが、私は遺言書をきちんと見ており、丁重に礼を言って断った。それに、ジェフのものはサイズが少々違う。私もそれぐらいのことはわかるようになっていた。
 いずれにしても、私は、ランドヌーズのようなハンドメイドの自転車を熱望するようになった。ジェフの作った部品をそのような自転車に組み込んで使ってみたかった。だが、どうやら、合衆国には、私の好みに合うようなテイストで、そういうフレームを用意してくれるクラフツマンがもはやいないことを私はすぐに知らねばならなかった。
 そのうちに、ダッツンZの特別なアニバーサリーが日本国内で開かれるという情報が、関係筋から流れてきた。カリフォルニア州のクラブの主だった面々からも、良い機会だから一度日本に行ってみる、という声が聞こえてきた。私はサギサカにメールを打ち、滞在の間に、私の望むような自転車をクラフツマンにオーダーすることができないだろうか、と相談を持ちかけてみた。一週間ぐらいまでなら、なんとか妻をなだめすかして日本に滞在することができるだろうと思う、と加えた。三日を置かず返事が来た。
 この種の自転車で最も有名な工房は、原則として海外発注を受け付けていないばかりでなく、いま非常に多忙だから、私が代理で発注したとしても相当に時間がかかるだろう。特にあなたが保有している部品はいささか特殊で、フレームにも独自の工作が必要となる。国内では無名だが、非常に腕が良く、在米経験もあって英語がかなり話せるビルダーを一人知っている。彼ならあなたの要望に応えられるだろう。ただ、彼はブランドを持っていない、というより、表に出るのを好まない。だから、フレームにはどのような銘も付かない。あなたがオリジナルの自転車ブランドのデカールを作って持ち込めば別だが。それでも良ければ、喜んでその腕っこきを紹介する。
 それで少しも構わないからぜひ頼みたい、と私は返事を書いた。
 日本に出発する前日、私は、ジェフが送ってきたすべてのワンオフ部品が間違いなく揃っているか、二度三度と確かめてから、梱包してスーツケースに入れた。フレーム製作に必要なのだ。ダッツンの関係の自動車部品を扱っているくせに、日本に行くのはこれが初めて、海外に出かけるのも、二度目に過ぎない。ハネムーンでモナコに行っただけだ。
 私は、ファクトリーの倉庫にとりあえず置いてある旋盤やフライス盤といった、ジェフの遺した工作機械の前に立ち、まるでそこに今でも彼がいるような気分で、明日、あんたの作った部品といっしょに飛行機に乗る、と言った。
 ジェフの本業は工場のプラント設計であり、こういう危なっかしい機械をいじくって何かを作り出すようなことはやらなくても充分に飯が食えた。その辺が私と違う。おまけに彼には養うべき家族もいなかった。そのはずだった。
 ジェフが好んだ自転車のカルチャー、シクロツーリスムをきっかけとして、私にジェフのことを伝えてくれた人々が何人かいた。その中のある人物が言った。
「彼は、もうだいぶ昔のことだが、年に一度くらいは、オレゴン州のほうに出かけていたみたいだな。モーターホームに自転車を積んで、いつも一人で出かけていた」
 私の家族がフレズノに越してくる前に住んでいたのは、オレゴン州のマートルクリークだ。私が5歳になるぐらいまでで、その頃の記憶はもうほとんどない。緑、木々、雨、濡れた舗道、旧い住宅地。あるいはそこに、風変わりな美しい自転車に乗った男が?
「ロジャー? そこにいるの?」ジェニーの声が事務所のほうから響いた。私は返事した。「どうやらエイミーには、私たちが出発したあとに友達を呼ぶプランがあるみたいよ」
「仕方ない。どうせもう子どもじゃないんだ」
 近づいてきたジェニーが私の背中を見て立ち止まったのがわかった。私が何を考えているのか、あらかた察していたのだろう、しばらく経ってから、彼女は言った。
「一度だけ、ジェフ伯父さんからの電話をとったことがあるって言ったでしょ」
「うん」
「あなたの声にそっくりだったわ。あんまり似ていたから私――」
「そうみたいだね。実は俺も、そのことに最近気付いたんだ。――血は争えないな。俺も部品みたいなものを作らずにいられなかったんだ。四輪車の、だけどな。彼が、あの箱を送るようになったのは、父さんが亡くなってからだ。今となっちゃ、何がどうなってたのか、お袋にも彼にも訊くことはできないが」
 ジェニーの手が、冷たい工作機械にさわっている私の手にふれた。私は言った。
「しかしまあ、彼らは良い仕事をした。少なくとも、今の今まで、気付かれなかったんだから。それに、私はそれで何も失っていない。父さんは大した人物だったと思うよ」
 翌日の夜、私たち夫婦は太平洋上を飛んでいた。私にはわかっていた。この旅から戻り、日本から出来上がった自転車が送られてくる頃には、私も自転車の部品を作らずにはいられなくなっているだろう。いや、それだけでは済まないかもしれない。ロールバー程度だが、私には、スチールパイプの溶接の経験もあるのだ。
                               (了)

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