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うちの食堂は食堂だった(掌編小説)

 うちの食堂は食堂だった。店、正確に言えば店の跡だった。実家はその昔、やきそばやおでんやおにぎりを出す食堂をやっていた。私がまだ子供だった頃だ。高校に上る少し前に、母親は店を閉めた。商店街からそう遠くないところにコンビニエンス・ストアができて、客足が遠のいたからだ。
 店は閉めたものの、うちには玄関というものがなかった。かつて店だった場所を通らなければ家に上がることができないのだ。昔ながらの町屋の造りで、土間が裏通りに面した勝手口まで続いている。だから二階が普通の家でいうところのダイニングになっていて、小さな台所もついてはいたのだが、それは私たち兄弟がまだ年端もいかない子供だった時代ぐらいしか役に立たなかった。ほどなく私は中学に入り、高校でも野球部に入って食べ盛りだったし、サッカー部に入っていた弟も似たようなもので、家族四人がテーブルにつくと、どうしようもなく手狭だった。スバル360に定員が乗車したような具合だった。
 しかし当時のうちの経済力ではそれをリノベーションするだけの余裕もなかった。父は港の対岸にある工場に通う造船工で、早世した両親から引き継いだ財産と言えば、旧い商店街の片隅にあるこの家だけだったからだ。
 そういうわけで、うちの食堂は食堂だったのだ。二階のダイニングは使わず、玄関を兼ねた場所が食堂だったということになる。もともと小さな店だったので、中は広くはない。カウンターが四席、四人ないし五人が使えるテーブル席が二つ、だけだった。テーブル席の片方は、四角いおでん鍋を囲炉裏のように囲む様式になっていた。このあたりでは、おでんは飲み屋の食材というよりは、軽食のメニューなのだ。
 それでも二階のダイニングよりはずっとましな広さだった。だいたい、そこでちゃんと商売をやっていたんだから。
 普通の家庭のダイニングより便利なのは、席がばらけていることで、時により、親父や弟と冷戦状態になって同じ部屋で食事をするのに気がひけるときにも、それなりに役に立った。ま、うちの親父などは「そんなところでむくれてねえで、こっちへ来て一緒にメシを食え、馬鹿野郎」というようなことを言うほどのまっとうな家庭人でもなかったから、確かに好都合ではあった。
 しかし家族がばらけて食事をとる風景というのは、今思い出してみると、けっこう異様な風景でもあった。そういうとき、親父はカウンターに座り、母親はメシの支度を終えるとカウンターの中から出てきて親父の隣に座った。弟はおでんテーブルの壁側に陣取り、私はふつうのテーブル席についた。醤油や塩のような調味料はそれぞれの場所に食堂時代と同様にあつらえてあり、これはこれで便利だった。
 カウンターの端にテレビが置かれていたことも、まあ悪くはなかった。親父はそれを見ていることが多く、目線の交錯に困ることもなかった。だからたまに弟が合宿でいないときなども、別段話題に困ることもなかった。親父から「お前はまだ補欠なのか、部費も安くないのに、一度くらい公式戦でかっとばしてみろ」とか言われるようなこともなかったのだ。
 母親も母親で、以前にやっていた商売の続きのようなことを毎日繰り返すことがまんざらでもなかったようだ。うちの朝飯や夕食の風景の始まりは、母親がカウンターの中でいそいそと用意したおかずを皿に取り分けて、「洋一」「雄二」と呼ばれてから、カウンターにそれぞれ取りに行くことから成っていた。食べる最中はたいがい無言で、親父は母親と一緒にテレビを見ながら箸を動かすことがほとんどだったし、弟はいまだに食堂の営業時代からおいてあるコミックの単行本を読んでいた。私だけがふつうに黙って、たまに話しかけてくる両親の相手をしながらメシを食っていた。
 そういう調子だから、部活の仲間などがうちに立ち寄るとよく母親は「サンマぐらいしかないけど、食べてきな」とか言ってメシを炊いた。なんせ炊飯器は業務用のガス一升炊きだから、どんぶりメシを平気でおかわりする高校生が来ても、簡単にひるむことなどない。
 初めてうちでメシを食った同級生などは、半ば呆れてこういう風に言うのが常だった。
「すげえな、お前んち。正門前の定食屋に負けてねえじゃん」
「うるせえな。ほかにやりようがないから、ああなってるんだよ」
「俺また来ていいかな」
「いいよ、どうせ大したものなんか出てこないからさ」
「あのさ」
「なんだよ」
「なんかさ、カウンターの中にいるお前のお母ちゃんカッコいいよな」
「はあ?」
「いや、なんて言うかさ、プロっぽいじゃん」
「そうかよ? 俺にはさっぱりわからねえけどな」
 しかし言われてみれば、物心ついてからというもの、母親はいつもカウンターの中にいたようなものだった。普通のうちで台所に当たるところが、うちではそこだったからだ。それは長年の間に自分の空間感覚のようなものに染み付いており、もう勤め始めて何年かした頃に、妙齢のおかみがやっている飲み屋で生ビールのおかわりを頼んだとき、母さん、と呼びかけてしまって、こっぴどくばつのわるい思いをしたことがある。

 「食堂」では冷蔵庫もカウンターの中のものと別にガラス張の営業用のものがあり、まとめて買ったほうが安いってことで、親父のビールやら私と弟のコーラだとかがしこたま詰め込まれていた。親父の釣り用のエサであるゴカイの包みも入れてあったことあり、どういう具合か、それが逃げ出して大騒ぎになったこともある。
 つまり食堂の中は、店であった時代とほとんど差異がなかった。壁の品書きなどはさすがに取り外されていたものの、ガラッと扉を開ければ、昨日まで営業していたようにしか思えないような体であった。加えて、換気扇などは以前とまったく同じところで機能を発揮していたわけだから、夕メシにうちが何を食べているかを明らかにするばかりではなく、もはや暖簾も看板も取り外してあるのに、この店はまだ営業中らしいと勘違いする人が現れることにつながったのであった。
 食堂の営業をやめて数年間はそういう「お客」が年に何度か入ってきた。そういう時代に見た光景のひとつを私は思い出す。それは私にとってももう数十年前のことになってしまった。
 あれはたぶん冬の日のことだったと思う。ストーブが点いていたのが記憶に残っているから。日曜日だった。母親と弟と三人で昼メシにしようとしていた。引戸の曇りガラスに人影が映った瞬間、ヤバいと思った。鍵をかけておくのを忘れていたのだ。
 がらがらと引戸を開けて入ってきたのは、近所のじいちゃんだった。昔よく店に来たことのある人だ。われわれは、母親のチャーハンに手をつけたところだった。
 彼は黙っていた。黙っているのは、彼が期待していた「いらっしゃいませ」のひと言がなかったからだ。
「あのう、高橋さん」と母親は言った。
「うち、もう食堂やめちゃったんです、だいぶ前に。ごめんなさい」
「え? だってやってるじゃないの」
「いえ、この二人はうちの馬鹿息子二人組でして、ちょうど昼ごはんだったんです」
「ああ、そうなの。いいよいいよ、ゆっくり食べな。俺はそれからでいいから。じゃあ、先におでんもらおうかなあ」
 そう言って高橋さんはおでんの器具の蓋を開けようとしたが、中はもぬけの空だ。そのあたりでおふくろが目くばせをした。
「おでん、やってないの?」と高橋さんは尋ねた。
「ええごめんなさい。今日はあいにく休みで」
「休みなの? 困ったなあ」そう言いながら高橋さんはおでんのテーブル席から椅子を引きだして座ってしまった。ははあ、これはちょっとおかしいぞ、とさすがの私も気が付いて母親と顔を見合わせた。弟はよほど腹を減らしていたのか、かまわずチャーハンを食べている。
(ちょっとあんた、お水でも出しておいて)と母親がささやくように言ったので、私はそうした。それから母親は店の奥に行った。どうやら高橋さんちに電話を掛けに行ったらしい。
「俺はここんちの奥さんが作るギョーザが好きでなあ。昔からずいぶんと通ったもんさ」と高橋さんは言った。
「その頃はあんたっちはまだ鼻たれ小僧だったなあ」
 あ、こりゃやっぱりそうか、とようやく私も気付いた。うちは中華料理屋じゃなかったから、ギョーザは出したことがない。
「うちはおでんと焼きそばとおにぎりだったんです」と私は言った。
「そうそう、ギョーザと焼きそばがいい感じだった」と高橋さんは言った。そんなかみ合わない会話を繰り返しているうちに母親が奥から戻り、ほどなくして高橋さんの娘さんが引戸を開けた。
「やだ、おじいちゃん。伊東さんちはもうお店じゃないのよ。お昼ごはんのじゃまになっちゃうじゃない。もう、本当にごめんなさい」
「昔懐かしくて寄ってくださったんでしょう。何もお出しできずにすみません」と母親は言った。
 高橋さんはなおもぶつぶつ言っていたが、娘に手を引かれて出ていった。あとには、あらかたチャーハンを食い終わった弟と、母親と私が残された。
「高橋さんに会ったの、久しぶりなような気がする」私は言った。
「ちょっとおかしかったね、呆けたのかな」弟が言った。
「昔よく来てくれたからね。おでんで一杯やるのが好きだったのよ」母親が言った。
「昔の店の風景が見えているのかもな」私が言った。
「あの人がよく通ってくれた頃は、あんたたちも小さかった」母親が言った。
 それから私と母親はさめたチャーハンを食べた。高橋さんはそれきり「店」には来なかった。間違えて入った人の最後だったかもしれない。

 あれから三十年あまり経っても、「店」はまだその体裁を保っていた。私と弟はそれぞれ所帯を持って別の街に住んでいたから、もうそこで母親が調理をやる必要はなくなったのだが、相変わらず二階の狭い台所を嫌って、先年親父が心筋梗塞で亡くなってからもまだ一階でメシをこさえている。
 結局うちの居間はそこだったようなものだった。親父が生きていた頃も、盆や正月など、私たち夫婦と二人の子どもを抱えた弟夫婦がそろって集まれる場所は、そこぐらいしかなかった。二階にいるとどうも落ち着かない。私たち夫婦には子供がいなかったが、もしいたら、この店でも手狭なくらいだったろう。
 母親に世間話をしにくる近所の知り合いも、よくこの店の空間を利用した。甘味の和菓子類を扱う老舗が数件隣にあったので、そこで大福などを買ってはうちの「店」に寄って母親に菓子を分けては茶を淹れてもらうようなことがざらにあった。母親も元来そういうことが苦手ではない性質だったから、良い時間つぶしができたはずだった。
 この家に残っていた自分の荷物はだいぶ前にあらかた処分した。中古で買ったマンションに運べるものは運んだが、めぼしいものはほとんど何もなく、それは弟も同じで、男兄弟の半生がもたらすものに自分たちでも呆れた。結局、子どもの頃から残っていたのは写真ぐらいのものだった。
 そんな日々の中に、ある「客」が入り込んできたのを私は忘れることができない。五月の連休明けの頃だったと思う。私はその日も、二階の自分の荷物を片付けに来ていたのだった。父はもう他界していたし、母親は親戚へ行く用事があって昼前から留守にしていた。もちろん弟は自分の家族と週末を過ごしている。私たち夫婦は日曜にそれぞれ別の予定を入れておいた。私は実家の片付けだし、妻は久しぶりに隣街に暮らす友達と会う約束をしていた。
 私は午前一〇時過ぎに実家に入り、午前中であらかたの片付けをし終わった。午後は要らないものを整理してまとめておくだけだ。車で持って帰れるものは持って帰る予定だった。正午になると、腹が減ったので、近所にある弁当屋に行ってコロッケ弁当をひとつ作ってもらい、一階の「店」のところでカウンターに座って食べた。食べ終わってから、カンターの中に入って湯を沸かし、コーヒーを淹れた。私がよく使うカップはまだ厨房から片付けられてはいなかった。
 ここで一家四人が毎日食事をしていたということが今となっては不思議な気がした。裏通りに面した勝手口を除いては、ここしか出入口のない家だったから、玄関で食事をしていたようなものだった。冬はストーブをつけなければ寒くていられなかったし、夏は夏で暑かった。靴とかサンダルとかを履いてメシを食うのは面倒と言えば面倒だったが、帰ってきて何か作ってもらうのには都合が良かったし、二階の狭く暗い食堂よりもずっと居心地は良かったのだ。
 ただ、親父が亡くなってからは、母親も二階で自分のための食事を作ることが多くなった。今日も二階の厨房には、料理の後片付けをした跡が残っていた。ハムエッグを焼いてみそ汁を作ったに違いない。そんな匂いが残っていた。
 そんなことを考えながら弁当がらをまとめて、さて、午後の作業に取り掛かるかと思ったときに、その来訪者は現れた。弁当を買って帰ったので、鍵を閉めるのを忘れていたのだった。
 こつこつ、と来訪者はくもりガラスのはまった引戸を品良くノックした。しまった、と思ったが、人がいる気配を察知してノックしたのだろうから、居留守を使うのも無理がある。あきらめて私は「はい」と返事をした。
 開けてみると、上品なワンピースを着てセカンドバッグと紙袋を持った中年の婦人がそこに立っていた。母親の齢よりは一回りくらい若く見える。
「失礼ですが、こちら、伊東さんのお宅でしょうか?」
そうですが、どちら様でしょう、と私は尋ねた。
「簔田です。旧姓、というか、前の名字は桜木と申します」そこで、いったん婦人は言葉を切った。
「お店をやられていた頃、お母様にずいぶんお世話になりました。今日は突然ですが、おいでになりますでしょうか」
 申し訳ないが、母は留守にしていていない、昼頃には戻ると言っていたからじきに帰ってくるとは思うが、と私は返事した。
 そうですか、とご婦人はひどく肩を落とした様子で、あんまり気の毒そうに見えたから私は言った。格好からしても、近所から来た感じではない。
「一時間もしないうちに母は戻ってくると思います。むさ苦しいところで恐縮ですが、良かったら、お待ちになりますか?」
「よろしいのでしょうか。実は私、今は神奈川のほうに住んでおりまして、今日はたまたま近くに用事があってご挨拶に寄らせていただいた次第です。すっかりごぶさたしていてなかなかおじゃまできなくて……」
「母がまだ店をやっていた頃というと、昭和の終りから平成になったばかりの頃ですね。その頃でしょうか、蓑田さんがこの店においでになったのは」
「その頃です。そうです。その頃、この先のN鋼管のアパートに住んでまして、よくお店に立ち寄らせていただいたのです。お惣菜もおやりになってらっしゃいましたね」
「そう言えば、天ぷらやフライも揚げてましたね」
「黒はんぺんのフライがすごく人気があったのです。ちょうど三十年くらい前のことで」
 立ち話もなんですから、どうぞおかけになってください、と私は婦人に椅子をすすめた。それから厨房に入って湯を沸かし、ひどく恐縮している婦人に自分の分と合わせてコーヒーを淹れてすすめた。
「三十年前には私は中学三年生でした。その年の夏で店をやめたんです」
「ええ、ええ。あのときのお兄ちゃんがずいぶん立派になられて。今はお近くにいらっしゃるんでしょう?」
「所帯を持ってからは隣街に住んでます。子供はいませんけどね。二人と一匹の猫で暮らしています」
「まあ。うちも猫を三匹飼っております。猫はいいですよね」
「三匹というのは凄い。うちも猫は好きですが、私の甲斐性では一匹が精一杯ですよ」
「実はうちも子供のいない夫婦なんです。夫も猫が生きがいみたいなところがありましてね」婦人はそう言って控えめに笑った。それから言った。「弟さんもいらしたでしょう」
「ええ。私と同じように隣街で所帯を持ってます。あっちは甥と姪が育ち盛りです」
「早いものですね。三十年ですものね」
 そう言う婦人の顔を見ていると、確かにどこか記憶に残っているような気がした。はっきりとした記憶ではないけれど、おぼろげに覚えているような感じだ。ただ、当時の店にはずいぶん人が出入りしていたから、その記憶も微妙と言えば微妙だ。毎日カウンターやテーブルに座っていたような人は覚えているが、総菜を買って帰るような人のことは記憶にも薄い。
「母に連絡してみましょう。もう親戚の家を自転車で出たところかもしれない」そう言って、私は携帯から伯母の家にかけてみた。しかししばらく鳴らしても誰も出なかった。
「おかしいなあ。母が向こうの家を出たなら伯母が電話に出るはずなんですけどね。自転車で十五分ぐらいのところなんです」
 それを聞くと、婦人はそれまでにも増して申し訳なさそうな風になり、こう言った。
「あの、やはりまたの機会におじゃましようかと思います。あなた様も用事がおありじゃないでしょうか」
「いや、今日は部屋の片づけをしていただけで、それもあらかた終わっているので、別段用事などありません。せっかく神奈川からおいでになったことですし、母も店をやっていた頃のなじみのお客様なら懐かしいでしょう。ぜひ会ってやってくれませんか」と私は言った。
「そうですか」と婦人は答えた。「ご親切にすみません。ありがとうございます。お母様は元気にしてらっしゃるんでしょうね」
「ええ。親父は亡くなりましたが、母は相変わらず元気にやってくれています。車の免許がないので、市内の用事はいつも自転車ですよ。危ないから気をつけてくれよって言っているんですけどね」
 そんな世間話をしているうちに、またいくばくかの時間が流れた。私はもう一度伯母の家に電話してみた。母は携帯を持っていない。叔母の家で電話が鳴っている音だけが続いた。
 それを見ていた婦人は言った。
「これ、つまらないものですけど、お母様と召し上がってください。今度いつ来れるかわかりませんが、また寄らせていただます。くれぐれもよろしくお伝えください。桜木と言ってくだされば、おわかりになると思います」
 婦人は菓子折りの入った紙袋を手渡して言った。私は受け取るしかなかった。婦人にも神奈川に帰る時間の都合もあるのかもしれないし、もう少し待っていれば、と無理強いすることもできなかった。
 私は歩道に出て、何度か振り返ってはお辞儀しながら歩いてゆく婦人を見送った。駅前行きのバス停に向かうようだった。

 結局、母と連絡がついたのはそれから十五分ほど経った頃だった。店の電話が鳴ったので出たら母だった。私はことの次第を説明したが、母はそれどころではない様子だった。「美須々さんが倒れちゃったのよ。胸のあたりが苦しいっていって、だから私が救急車呼んで、一緒に乗ったの。で今市立病院にいるのよ。具合は安定しているみたいだけど、そのまま入院するみたいだから、私が嘉子ちゃん(伯母の娘だ)に病院から電話したの。もうすぐ来るだろうから、そしたら洋一、あんた私を迎えに来てくれる?」
 いいよ、と私は言った。

 母親は昼食を食べている暇もなかったということで、車での帰り道におにぎりを買った。家につくと、「店」で私がお茶を淹れてやった。母親はテーブルで昼食を広げながら、車中の話の続きをしたがった。
「その人、もとの名字が桜木さんって言ったんだね」
「そうだよ。旧姓とは言わなかったから、もしかしたら、離婚とかする前の名字だったのかもしれない」
「あの人じゃないかしら、あの人、確か桜木さんとかいう名字じゃなかったかねえ」
「どんな人? 俺はさっぱり思い出せなかったんだけどね」
「N鋼管の社宅にいた人で、そういう人がいたのよ。うちの総菜をよく買いに来てくれたのよ。あの頃の私よりはひと回り若くてね、子供がいなかった」
「そう言えば、子供はいないって言ってたな。猫は三匹飼っているっていってたけど」
「ああ、それじゃ間違いない。桜木さんだよ。あの頃はうちが猫を飼っているのが羨ましいって言ってたからね」
「だって社宅じゃどうせ飼えないだろ」
「こっそり飼っている人はけっこういたのさ。だけど桜木さんとこは亭主が猫嫌いでどうしようもないって言ってたからね。今、三匹も飼っているって言うんなら、そりゃあやっぱり亭主を換えたんだろうね。別れて実家に戻ったって話は本当だったんだろう。何しろ酒癖の悪い亭主だったみたいだからね」
「へえ、あのご婦人にね。世の中ってのはわからないな」
「飲まなきゃ普通の人なんだけどね、飲むとよくない。一度なんか、飲んで夫婦喧嘩して奥さんが逃げてきたのをここでかくまったことがあったっけ」
 私は驚いて母親の顔をまじまじと見つめた。
「かくまうって、どこで? 二階で? 俺は記憶にないな、そんなこと」
「そのカウンターの中さ。私が立っていて、桜木さんをしゃがませといた。血相を変えた亭主が入ってきたけど、気が付かずじまいさ」
 私は呆れた。
「そんなことがあったとはね。知らなかったよ」
「ほかにもいろいろあったさ。そういう時代だったからね。造船の景気に陰りが出て、あちこちで希望退職を募ってた。それから一〇年もしないうちにコンビニができてうちも左前になって、商売を止めたんだから」
「どっちにしても、もう三十年も前」
「そうだね。この店が店の体裁で残っているっても変な話だよ」
「新手のカフェでもやれば、ひょっとして流行るかもしれない」
「誰か店に出る人でもいればね」
 テーブルの上には、もらった菓子折りがそのまま紙袋に入っていた。
「仏さんに供えておこうか」と母親が言った。
「俺はコーヒーを飲むよ」と私は言った。
                               (了)


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