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私のライフワーク

自分でライフワークだと決めていることは幾つかある。小説や本やこのnoteのようなブログを書くこともその一つだが、他にもある。

その一つは、直近に亡くなった人の通夜や葬儀のときに見えたヴィジョンを遺族などに伝えることだ。でもいつもそれができるとは限らない。遺族との関係性で伝えにくい場合もあったりする。

今回はそういうことはなかった。遺族である従姉にその内容を伝えることができた。

父方、つまり白鳥家の伯母が亡くなったという連絡が従姉から入ったのは土曜の昼だった。通夜は12/11の日曜の夕、葬儀は12/12の月曜の午前という連絡をもらった。私は両方とも都合がつくので、もちろん出席することにした。

通夜も葬儀も、会場は市街地にある寺院であった。私は日曜の夕方に車を運転して会場に向かった。寺院に着くと、久しぶりに会う従兄たちの顔が見られて、こういう場合に言うのも不適切かもしれないが、旧交を温めることができてうれしかった。父方の従兄弟たちの中では62歳の私はいちばん若いほうであり、従兄弟たちは皆もう70前後の年齢に達している。

大半の従兄弟がすでに両親かそのどちらかを送っている身で、孫もいる人が少なくない。私には孫はもちろん子もおらず、残すものもない。

通夜が始まるとすぐに見えたのは、角隠しを冠った白い着物の伯母の姿だった。伯母は数え93歳で亡くなったが、見えた姿は私の知る最も若い頃の姿だった。2011年に亡くなった別の伯母のときによく似ていた。

そういうヴィジョンがどう見えるかというと、本や小説を読むときと同じである。肉眼で見えている光景に重なるというより、脳裏にそういう映像が浮かぶのである。だから「そんなものはお前の妄想に過ぎない」と言われれば、別段強く否定するだけの材料もない。ともかく、私にはそう見えたというだけだ。

伯母のところには、2年前に亡くなった伯父が迎えに来ていた。これも、約40年前に亡くなった伯父が迎えに来ていた、2011年の別の伯母のときと同じであった。私はそのとき初めてそういうヴィジョンが見えるようになったので、その瞬間はかなり驚いた。東日本大震災のひと月ほど前のことだった。

今回の通夜のとき、伯父は白い和服で迎えに来ていた。しかし翌日、葬儀のときには、伯母の装束は一緒だったが、伯父は黒い紋付袴の姿になっていた。伯母の手を引いて導くように見えた。

そして、二人の前には、神域や寺院の入口などによくある、横から見た断面が扇形である短い橋がかかっていた。それが渡るべき橋であるように思われた。橋は赤い欄干が付いていて、金色の烏帽子がそこに飾られていた。

橋の向こうにはすでに故人となった、伯母の兄妹衆が並んでいた。そのうちの一人は私の父であった。全員の顔が揃って見えたのではなく、一人一人をクローズアップしようとするとそれぞれの顔のヴィジョンが見えた。そういうことであった。

これまでの経験の中では、何かを渡ったり、迎えの人と出会うのは、葬儀も終わっていよいよ荼毘に付されるときであることが多かったが、今度の伯母の場合には、すでに通夜や葬儀のときからヴィジョンが見えていた。高齢で大往生ということもあり、霊界はもはや遠い場所ではなかったからではないかと私は見ている。

柩が炉に入れられる前の最期のお別れのとき、従姉は伯母の柩の横を軽く叩いて見送ろうとした。その刹那、「聞こえてるよ」と伯母が言うのが私には聞こえた。それを従姉に伝えた。ほかに見えたこととともに。

斎場で火葬を待つあいだ、私はそのことを従姉に伝えようと思っていたが、ちょうど従姉は目上の人と会話していたので、それを遮るのは憚られた。あとで聞いたら、従姉も私を探していたらしい。以前に、そういうヴィジョンが見えるのだということを伝えていたことがあったからだろう。

私が席を立っていたのは、待合室の〇〇家という札の中に、友人の名字がかかっていたからだった。通夜の帰りに別のメモリアルホールの駐車場に彼の車が止まっていたのを見て、もしやと思っていたが、やはりそうであったらしい。斎場の駐車場にも彼の車があった。

火葬室の前を通りかかると、はからずも彼が骨壺を抱えて出てきたところだった。彼の父は荼毘に付されているところだったのだ。家族葬だった彼は面食らっていたが、私は伯母の葬儀で来たのだと説明した。そういうこともある。たまたま斎場で一緒になるようなこともあるのだ。

伯母の葬儀のときに見えたようなことを人に伝えて、それが何か役に立つかどうかは私にはわからないが、これまでのところ、私が見た中で迎えの来ない人というものはいなかったし、どこかへ何かを渡ることを拒んだ人もいなかった。そして全体の印象として、それは祝福すべき内容に満ちていた。

それだけのことである。私があとどれくらいそういう光景を見ることができるのか、私自身にはわからない。わからないが、それを続けると思う。多くの場合において、それは、人がふつう想像するのよりもずっと悪くない光景だからである。

亡くなる直前に親や先祖が迎えに来るを認めたことなどは、一般に「お迎え現象」と名付けられているようだ。しかし、「お迎え現象」は、死期を前にした体力の低下に伴って脳が見た幻視のように位置づけられていて、私のように第三者の視点から見ている例はあまり多くはないようだ。

こういう現象を扱っている学者の大半も、これは「幻視」と決めつけている例がほとんどのようだ。ただ中には「体験者にとっては事実」と見る向きも少数派ながら、いる。後者の立場に立つ人なら、私は喜んで研究に協力したいくらいなのだけどね。

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