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人生の外側

人生に果たして意味はあるのか。これは重い問いである。学校では教えてくれないし、家族や友人に訊いても答えが見つからない場合もあるだろう。

それでも若いときには「前途」という未来があるから、人生の現実の多くはまだ未知のものなのであって、未知のものを判定することは難しい。若者の多くがそれなりに将来に希望や夢を抱いているとすれば、「人生に意味があるかどうか」などという問いは、本質的には彼らのものではないことが分かる。

私のように60歳を過ぎてしまうと、これから先の残された人生に自分を待ち受けているものは、若い日のそれとは全然違うことが自明である。つまり、「人生に意味があるかどうか」を問うのは、往々にして老人の意識であるということだ。

私はどちらかというとペシミストだということもあり、人生に過度な意味付けは行えないと考えるほうである。社会はほとんど進歩していないし、戦争も貧困も格差もなくなっていない。これから先もそれらをなくすことは難しいだろう。

生老病死は避けがたい。この齢になると大切な友達も亡くなってしまうことがあり、年齢を重ねるにつけ、喪失感は深まる。

はっきり言えば、人生には辛い、無意味と思えるようなことのほうが多い。そうでない幸福な人生もあるとは思うが、それがいつまで続くかどうかはわからない。

多くの人は、人生の内側の観点から人生を判断している。人生の内側でしか意味を持たないようなものを基準にしている。たとえばそれは、富であったり、名誉であったり、好きな異性と結ばれることであったり、勝負に勝つことだったりする。

若いうちはそういうものにも意味がある。しかし齢をとると、それらの持つ意味合いはどうしたって弱まる。どんなに金を貯めたとしても、齢をとることを止めることはできないし、亡くなった愛する人を取り戻すこともできない。金や名誉や物事に於ける勝利などは、この世でしか通用しない、価値の限定された通貨のようなものだ。

それらは「人生の内側」に使い道が限られた価値観である。私のように「人生の内側」が次第に残り少なくなってゆくと、使える場所も限られてくる。

要するに「人生の内側」というのは、価値観にもあまり広がりがない。それでも少なからざる人が、こうした狭い価値観をよすがとして生きている。明日は今日よりもよくなるだろうと漠然と考えながら生きているのである。もちろん、そう思わなければやっていられないという面もあるから、それは批判できない。

「人生の内側」で求めたものを実現するために人は一生努力する。良い学校を出て良い職につき、家を建てたり、家族を持ったりする。

しかし方法はそれだけではない。人生には「人生の外側」もあるのだ。

例えば旅である。旅は日常生活から離れたところに人を連れてゆく。その手段が自転車であろうと、オートバイであろうと、キャンピングカーであろうと、電車や飛行機であろうとどうでも良い。

旅をすることで、人は人生を客体化し、離れた場所から眺めることができるようになる。それが旅をすることの一つの意味である。ただし、一生旅を続けることは難しい。

「人生の外側」に行く手段はほかにもある。

例えば芸術である。芸術もまた、旅と同様に、人生を超えたものの中に人々を導く。それが絵画であるか音楽であるか、文学であるかはその人次第である。ただし芸術に溺れて人生そのものを失うこともある。

「宗教」や「哲学」もまた、人生を超えた世界を探求している。死後の意識生活が果たしてどうなっているのかについて書かれた本だってある。もちろん、宗教においても「立派な家が建ったのだからあの人は救われたのだ」と考えるような、俗物的な迷妄も存在する。

学問もまた、浮世のことから離れて、宇宙の真理を研究していることが少なくない。しかし新しい答えはまた新しい謎を生む。学問においても、終りはない。

こうしたものは真・善・美というような言葉で語られることがあるが、本質的にはみな同じである。「人生の外側」から人生を見る為の一種のメディアなのだ。

「人生の外側」は、「人生の内側」を超えている。そこでは生老病死もまた別の意味を持つ。

「人生の外側」に出ることは難しいともいえるが、それをやるだけの価値はある。なぜなら、「人生の外側」に立たないと、人生の意味は判定できないからである。そしてそれは、死んでからやるより、生前にやっておいたほうが良いのである。

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