堤防のクジラ(掌編小説)
伯父に連れられて、船溜まりの中程にあるその堤防を訪れたのは、少年がまだ幼稚園にも行っていない頃であったかもしれない。
海というものの最初の記憶に、その堤防は連なっていた。
伯父は無言だった。後年、伯父は心臓を病んで長く病床に伏すことになるのだが、その頃はまだ元気だった。時間の空いた夕刻に甥っ子を散歩に連れ出したのであろう。
海に突き出た砂洲の半島の町では、潮の匂いが風の匂いにいつも刻印されていた。そうして外海には松と砂と灯台、内海には造船所と漁船と波止場が並んでいた。
少年は少年というより幼年だったから、外海と内海の区別もまだついていなかった。港の駅側のほうに渡る水上バスはその年頃には乗ったことがあるはずなのだが、記憶はそれをとどめなかった。
だから少年にとって、海の最初の記憶は白波や砂浜なのではなく、黒ぐろとした内海に数十メートルほど突き出したその堤防なのであった。
伯父は少年の手を引いて堤防の先端に連れて行った。少年にとってはそれはかなり怖いことでもあった。黒い海水は無限の深さがあるように思えたし、堤防もまたそこから高く屹立していたように見えた。
ここにはクジラがいるの? と少年は伯父に尋ねた。
いないさ、でも小魚ならたくさんいる、ほら、と伯父は答えた。
しかし少年の目には、確かにクジラがいるように思えた。クジラは、堤防に体を沿わせて、じっと海の中に潜んでいる。クジラは堤防の長さと同じくらいに大きいのだ。
少年はクジラが怖いとは思わなかったが、海の底知れぬ感じには恐怖感を覚えた。それはなんだか、大人になった少年が星空を見上げてその漆黒の深みにある種の戦慄を覚えたのに似ていた。
クジラがいるよ、と少年は言った。
そうかもしれないな、と伯父はまるで自分に言うように言った。
それから何年かが立って伯父が長患いの床に着いたとき、少年は一度は忘れていたクジラのことを思い出した。もちろんその頃には堤防の傍らにクジラはいなかったが、彼の記憶の中ではクジラは相変わらずそこにいた。
クジラは何かを待っているかのように、ずっとそこに身を沈めているのだった。
(了)
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