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山里へ行く自転車(掌編小説)

 ずっと単車乗りだった友人の牧田が最近自転車に目覚めて、単車でもSR400とか、オリーブドラブ色に塗りたくったGB250とかに入れ込んでいた奴だったから、案の定、旅行用自転車の世界にどっぷり浸かりそうになっている。何冊か、その関係の本やムックを貸してやったら、あっという間に感染して、一台、手に入れたいとまで言い出した。
「それで、どういうところをどんな風に走りたいんだよ。まずその考え方を決めないとさ。完成車で手に入れるとしても、走り方に合ってないと意味がないんだから」と俺は偉そうに言ってやった。
「そうだなあ。混んだ街中とか、車がぶんぶん走ってる国道とかじゃなくて、静かな山の中の道とかだよな。国道はオートバイで行けばそれでいいし」
「お前、昔はオフロードバイクに乗ってたよな。そっちか? つまりダートや林道ってことかい?」
「いやいや、そういうところはやっぱりMTBだろ。俺が言ってるのは、山間部だけど道は舗装されていて、ところどころちゃんと集落があるようなところでさ」
「お、いいねえ。俺もそういうところが趣味だな。いくらでも走るところがあるぜ。国道にそれなりの交通量があるようなところでも、ちょっと山の中に入れば、たいがいはえらく静かなんだ。そういうところに行くには、このあたりはいいぜ。輪行してもいいし、小一時間、俺の車にお前のと二台自転車積んで行けば、いくらでも走るところがある」
「まあそういうことかな。俺はなかなか泊まりで出かけられないから、基本的には日帰りで行けるところでいいんだ。走るほうも、そんなに距離を稼がなくてもいい。そういうのはさ、俺の場合、オートバイでやるから」
 牧田は、俺の仕事場の傍らに置いてあるランドナーを見て、そう言った。俺は答えた。
「俺も最近思うことが多いんだけどな、自転車の面白いところって、遠出ばかりじゃないぞ。そりゃもちろん長旅も面白いけどさ、長旅じゃできないこともたくさんあるんだ」
 牧田は持ってきたノンアルコールビールの缶を開け、口にした。俺にもすすめた。その年の夏の終わりだった。俺は続けた。
「長旅だとあまり寄り道できないからな。遠くを見てるから、誰だって先を急ぐ気分になる。もちろん途中の道中だって面白いんだが、落ち着いた気分でこまごま見て回るような気分になれるのは、泊まる予定の街や宿に着いてからってことがほとんどだな。日帰りでたんねんに、あるエリアを走ってみるってのは、最初っから目的地を探訪することだし、カーサイクリングだと目的地までの移動も楽だよな。帰りの電車の時間も気にしなくていいしさ。そういう意味じゃお手軽だけど、この遊び方にだって良さはあるんだ」
 牧田は頷いて答えた。
「ああそりゃわかるよ。オートバイで流していても、あの道面白そうだなっていうような枝道が、それこそあっちこっちにある。数えきれないくらいある。でもそう簡単に寄れないよな、仲間とツーリングしているときはもちろんそうだし、ソロのときだって、何て言うかな、オートバイは音が大きいだろ。それで気が引けるってこともあるんだよ。たいがいそういう道はすごく静かそうだから、なんだかそこの地元に悪いみたいでな」
 俺はあらためて牧田の顔を見た。高校生のときからの馴染みだが、こいつにそういう、ある種繊細な感性があるということを、今さらながらに意識した。
「殊勝じゃないか」俺は言ってやった。
「自転車は静かなのが良いよな」牧田は大真面目にそう言ってくれた。俺は答えた。
「そうさ。ほとんど、沈黙のヴィークルだな。まるで音がしないってわけじゃないけど、音の質がたぶん違うんだ」

 その夜、牧田が帰ってから、俺は思い出して両輪が浮くスタンドに掛けてあった一台のランドナーのクランクに、手をかけた。セディスポーツのチェーンが張り、わずかに駆動したサンツアーのフリーのラチェットが、油の回った金属の歌を歌った。サンツアーの歌、レジナの歌、シクロの歌。そういう歌をいくつか聴きながら、俺たちの世代は自転車であちこちへ行った。
 歩くような速度で、降りるかどうするか迷うような速度で、路面の硬い急な坂を上ってゆくとき、タイヤのトレッドが砂粒を噛みながら、苦しげな声を出した。あれも、一種の歌だった。登坂の歌だった。
 自転車は楽器じゃない。だから何か音が聞こえてきたとしてもそれは、音楽じゃない。音は楽音ではなく、自転車という乗り物に付随する操作音、作動音や、機械と環境の接触によって発生する物理的な音だ。それは不快な雑音とまでは言えないが、良くても、内燃機関のチューニングされた排気系統が発するノートか、それ以下のものだろう。
 にもかかわらず、その晩、俺はしばらくのあいだ自分の自転車の前に佇み、かつて訪れたことのある山里の記憶とともに、そうした音の記憶がいくつか甦ってくることを意識せざるを得なかった。
 夜半に風が吹き始めて、くたびれてきた仕事場のサッシのアルミ枠が鳴った。

 ひょんなことから、牧田にちょうど使えそうなサイズのフレームが手に入ることになった。牧田の単車の仲間で、自転車のツーリングもやる人物が、使ってないフレームがあるからやるよ、と言ってくれたらしい。おまけに、その大将は機械部品の塗装工場を切り盛りしている男で、くだんのフレームの再塗装までやってくれるとか。俺は色めき立って電話口の向こうの牧田に尋ねた。
「フレームサイズはわかった。それならたぶんお前さんにドンピシャ。ビルダー、いやメーカーはどこのだ?」
「俺は詳しくないんだけどさ、何でも、エルクって言う今はないメーカーのだってさ」
「そいつはいい。素性がいいぞ。よーし面白くなってきたな。塗装上がったらすぐに持ってこいよな。……何? この週末に塗ってくれるって?」
 二週間後、牧田はエルクのフレームを持って現れた。俺は久しぶりに組み付け用のスタンドを引っ張り出し、塗装を傷めないように気をつけてアタッチメントにくわえさせた。
「いい色だな。こういうオレンジは今見かけない。メタリックじゃないのが、またいいよ」
「もとはワインレッドだったとか言ってたな。だいぶ、やけてたらしい」
「さすがに自転車をよくわかっている大将が塗ってくれただけのことはある。ほら、ここのカンティ台座のところやBBワンのネジ山には塗料が入ってない。ちゃんとマスキングしてくれたんだよ。自転車フレーム専門のところじゃないと、普通はそこまで気が回らないからな。これならBBフェイスカッターだけ使えば、あとは組み付けに入れるぞ」
 スタンドにセットされたフレームを俺と牧田は見つめていた。トップチューブは、窓の明るさを拾って、ハイライトの部分が白い帯で連なっていた。新しい塗膜の、新しい揮発性の匂い。フォーククラウンの肩の輪郭に沿って、橙色の塗膜の厚みが読めそうだ。ヘッドチューブの内部にわずかに吹き込んだ飛沫に、手吹きの痕跡が見てとれた。
 それは何か、ため息が洩れそうな、切ない眺めだった。鋼管をロウ付けで接合したに過ぎないはずの物体に、人の息づかいを見たように思った。
 しばらくたってから、俺は言った。
「ヘッドセットは、タンゲのRB661だな。コラムの長さも何とか足りるだろう。俺の在庫をひとつやるよ。BBはとりあえず入手しやすいシールドベアリングのでいいな。クランクは5ピンの使わないのがあるから、それにすりゃいいだろ。TAよりも、フロントディレーラーの選択幅が広いクランクを使ったほうが何かと楽だよ」
「いいのかよ。皆それなりに貴重なお宝じゃないのか」と牧田は言った。
「気が変わらないうちにもらうと言っておいたほうがいいぞ」と俺は言った。それから思い出して、コンベックスを手に取り、そのフレームの前車軸とBBの中心を測った。
「ああこの寸法ならOKだ」俺がそう言うと、事情が呑み込めていない牧田が怪訝な顔をした。俺は続けた。「峠道を行く自転車は特に、フロントセンターが短くないほうがいいんだよ。ガードにクリップが当たると、いよいよ登坂がきつくなってジグザグに走ったりするときに具合が悪いんだ」
 牧田は感心したような顔をしてから、ふだんの表情に戻り、例によって持ちこんだノンアルコールビールのリングプルを引いた。炭酸の抜ける音が響いた。奴は言った。
「うん、まあ、良きに計らってくれ、友達のよしみで」

 秋風が吹き始めた頃に、牧田の自転車はどうにか組み上がった。各部の点検を兼ねたそこそこの距離の慣らし運転も済ませて、初期の緩み等をとってから、まだそれほど走りこんでいない牧田でもなんとかクリアできそうな、近場の峠道に行ってみることにした。
 九月下旬の週末だった。峠の上り口に着くまでに、一〇キロあまり走っていた。暑気はいくらか抜けているとはいえ、夏の終わりの光を宿した空は眩しかった。二台の自転車の影が県道のアスファルトの上に短く鮮明に落ち、われわれの影とともに走った。
 小休止したあと、県道から折れて、上のほうにある集落に向かう川沿いの細い道に入った。それまでとは違う斜度になった。
「あれ、チェンジしないぞ。おかしいな」FDを操作しようとして牧田が言った。
「もっとペダリングの力を抜け。今のMTBみたいなわけにゃいかない。旧いシステムなんだから。チェーンの張りに負けてるんだよ」
 止まってしまった牧田は、走行方向を変えてトライし、今度はインナーに落ちた。
「俺もランドナー復活させたばかりのときは同じ失敗をやらかしたよ」と俺は白状した。知らず知らずのうちに古典的な駆動系の扱い方を忘れていたのだ。
 一段、また一段とわれわれのギアは軽くなり、その度にチェーンが新しい歯車に乗り移る音がひと気のない舗道に響いた。道は杉の木立の中を行くようになり、湿ってはいるが、いくらか涼しい大気が傍らを流れた。
 牧田の駆動系は順調に動いていた。後ろに回って眺めると、長いプーリーゲージの下からチェーンが這い上がって来、五段フリーの四段目を動かしているのが見えた。リアが五段しかないから、フロントをトリプルにしてやはり正解だったようだ。ときおり、新品の輝きを残した本所のマッドガードが陽光を拾い、反射が目の奥まで差し込んだ。不意に、何とも言えない気分になった。
 われわれは何をやっているのだろう。いい大人がまだ暑さの残る日に、知る人とてない田舎道でペダルをくるくる回して坂を上っている。そこに山があるからだ、とアルピニストのように語れるほどヒロイックなものがあるわけじゃなし、二人ともぼちぼちメタボを気にしなけりゃならない世代だ。
 一台、後ろから車の排気音が近づいてきた。地元の軽自動車らしく、助手席に乗っていた中学生の少年が目を点にして俺たちを見ていた。遠ざかる軽の向こう側に、峠の手前の最後の集落が見えてきた。軽をやり過ごすためにきつい坂をしばらく正面から上ったので、いよいよ足に貯金がなくなってきた。ほとんど同時に、俺たちはいちばん軽いギアに入れた。タイヤとアスファルトの間で、押し出された小石のはねる音が聞こえた。
「おい、牧田、そこで休もう」俺は言った。集落のいちばん下のところに、小さな公民館のような建物があり、横で楡の木が日陰を作っていた。建物の壁に自転車を立てかけさせてもらって、そこで俺たちは小休止した。
「こんな上に集落があるなんて知らなかったよ。あの県道は今まで何十回って通ってるのに、こっちを回ったことなんて一度もないものな」
 走ってきた道の向こう側は谷間で、向こう側に青緑色で丘陵の稜線が重なっている。積雲はその高みに連なり、ついぞ辿り着けぬ魔法の城のようだ。止まってみれば、なかなか眺めもいい場所だった。
「峠まではまだもうちょいあるが、ここで飯にするか」
 日陰の迷惑にならぬ空き地でわれわれは店開きをし、野外用の携帯ガスバーナーで煮炊きする準備をした。こういうことをするために、牧田の自転車にも、かなり大きめの水筒が付くようなケージを装着してある。そしてそれぞれ、予備のペットボトルももう一本、バッグに入れてきた。
 持ってきた無洗米に水を入れて俺のコッヘルで炊き上げ、牧田のコッヘルで、ビーフシチューのレトルトを温めて、食った。外で飯らしい飯を食うのも楽になったものだ。自転車で遠出するようになったばかりのティーンエイジャーの頃は、こうはいかなかった。火は固形燃料かメタで、まともな風防もなかったし、コッヘルも小さかった。飯をちゃんと炊いて食べようと思ったら、もう少しそれらしい道具が必要だったが、ホワイトガソリンを使うオプティマスのストーブなんぞは、地方都市の高校生に買えるような代物じゃなかったのだ。
「オートバイの行動半径からすりゃ、庭みたいな距離のはずなのに、ずいぶんと遠くへ来たような感じがするな」と牧田が飯とシチューを口に運びながら言った。
「そうだな」俺は言った。「わざわざこんな風にして飯を食うこともないだろうしさ」
 風が渡って来、楡の葉の影を揺らした。九月の大気と光は透明で、それは牧田と俺が高校の同級生だった時分から変わってはいなかった。いや、あるいは変わったかもしれない。俺たちが否応なしに中年男になったにもかかわらず、風や陽光の中に含まれているような、ある種の説明しがたいものは、あの日と同じように、俺たちという存在からいくらか高いところ、遠いところに存在している。武蔵野の逃げ水のように、近づけばまた遠ざかる。同じところにとどまってはいないのだ。
 楡の木の上のほうで、羽虫が飛ぶ音がした。

 食事のあと、牧田がコーヒーを淹れようと言った。これがやりたかったんだよ、と言わんばかりに、小さいほうのコッヘルで湯を沸かし、折り畳み式のドリッパーの支度をしてくれる。そのあいだに俺は、牧田の自転車のブレーキワイヤー周辺を増し締めしておいた。どうかすると、予想外の距離を走った時点で締め付けが甘くなったりすることがある。後になってワイヤーの状態が変化するからかもしれない。下りで緩んだらことだから、注意するに越したことはない。組み付けて間もないクランクも緩むことが多いから、専用レンチを持参してきたが、こちらは大丈夫だった。TAのようにやわらかい材質のクランクだと、特に要注意なのだが。ハンドル回りやペダル、ピラー周辺も見ておいてやった。
 公民館の古ぼけた木壁に立てかけた二台は、なかなか様になっている。
「悪くないな。牧田のオレンジ号は。こういう雰囲気に良く合ってるな」
「ランドナーって言うよりは、ポタリング車ってことかもしれないけどな」牧田が言った。
 あらためて眺めている間に、俺は突然気付いた。木壁の水平の線との関係で、気付いた。
「あれ? おい、ちょっと待てよ……いや、やっぱりそうだ。そうだったのか」
 牧田の自転車のフレームは、どうやら、わずか普通のダイヤモンドフレームと異なっている。
「なんだよ、なにかまずいことでもあるのか?」牧田がいぶかしんだ。
「このフレーム、ごくわずかにトップチューブが前上がりだぞ。ははあ、なるほど」
「おい、どういうことなんだ」牧田が訊いた。
「有名どころのフレームがそういう設計をしていたらしいんだがな、エルクにもそのアイディアを使ったものがあったとは。つまりな、峠道や山郷のポタリングをかなり意識したフレームだってことさ」
「じゃ、今日みたいな使い方が本来だってことか」
「そういうことになるな。お前はついてるよ」
 風がまた動き出した頃、俺たちは片付けを終えて道に出た。峠まではあと半時間もかからないだろう。集落のいちばん上の家の前を通ると、さきほどの中学生が納屋の壁に取り付けたバスケットボールのゴールに、見事なシュートを決めたところだった。
 その道の先で、山肌の無数の梢が風に鳴った。
                               
                               (了)

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