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ケトルはいずこへ(掌編小説)

 十数年ぶりにアウトドアで使う器具を買った。100均で売っている格安のメスティンの類を除き、ちゃんとしたアウトドアショップで消耗品以外の何かを買うことは本当に久しぶりだった。
 買ったのはリーズナブルな価格のアルミケトルだった。つい一週間ほど前に自転車仲間のT君と自転車デイキャンプをやったとき、彼が持参したステンレスのケトルがひどく使いやすそうに見えたからだ。
 自慢ではないが、うちにはけっこうたくさんのアウトドア道具がある。いちばん古いコッヘル(調理器具兼食器)は高校生のときに買ったものだから、すでに45年は経過している。
 コールマンのシングルマントルランタンも1988年頃に購入していて、今ではいつのまにかヴィンテージなものになってしまった。ほかにもいろいろあるが、いちいち書いていたら話が長くなってしまうのでこれくらいでやめる。
 アウトドア道具というものは、毎日使うわけでもないし、比較的堅牢にできているものが多いから、自ずから長持ちするのである。つまり私のところには、30年以上前から所有している野外道具が山ほどあるということだ。ちなみに私の年齢は61歳である。
 60代の人間は昔はかなりおじさんというか、おじいさんのように見えた。そういう年齢に自分がいつかなることなど、ろくに考えてもいなかった。今そのときが来て、自分は老齢の入り口に立っている。

 アウトドアショップからの帰り道、私は車を運転しながら助手席のかみさんに言った。
「このやかんも俺よりは長生きするだろうなあ」
 するとかみさんは間髪を入れずに言った。
「またそんなネガティブなことを言うんだから」
「いや、そういうことじゃなくて」と私は説明を始めた。「うちの親父も若い頃はアウトドア遊びのようなことをやってた。登山に、スキーだ。俺が知ってるだけでもその二つはけっこう熱を上げてやっていたはずなんだ。それからボーリングをやるようになり、次はゴルフ。その合間に盆栽もやってたのは知ってるよな、実家の庭に売るほど盆栽があったからな」
「そうね」
「でもさ、親父のそういう趣味や遊びの道具で俺が受け継いだものはほとんど何もなかった。高校生のときに釣りに行くときに使ってたリュックサックぐらいのものさ。知ってると思うけど、親父が亡くなって二年ほど経ってから、ゴルフクラブの類も全部清掃センターに持ってっちまった。そのときに知ったんだけど、クラブはけっこう良いものだったらしい。『パーシモンじゃないか』と清掃センターのおじさんが言ってたからね。ただ、ゴルフをやらない俺にしてみりゃ、それにどういう価値があるかなんて分かりゃしなかったんだよ。スウェーデンのキャンプ用品なら俺にも分かるけどさ」
 かみさんは黙って聞いていた。そしてしばらくしてから言った。
「そういうことなのね」
「そういうことだよ」
  われわれ夫婦には子供がいなかった。だから、いつか自分が大切にしてきた道具を誰かに譲るときが来るとしたら、その相手は息子や娘ではなく、年下の友人か誰かになるということだった。

 ケトルは御多分にもれず中国製で、やや華奢な作りだったが用は充分に足せそうだった。家の中でコーヒーを淹れるときに使ってみて、悪くないな、と思った。
 その週末に、われわれは鳥見がてら車の荷台で昼食を作ろうと出掛けた。テールゲートランチというわけだ。もちろん車はどこかに停めなくてはならない。われわれは、コッヘルとインスタント食品とデザートの菓子を持って軽自動車で出発した。
  桜が咲き始めていることもあって、最初に狙っていた駐車場はすでに満車状態で、こりゃ無理だと思い、次の場所に向かった。そこも、サッカーの試合用に臨時に駐車場が使用されているらしく、一般車は入れない。
 そこで別の山裾に向かった。ある古墳のふもとに駐車スペースとトイレがあるところで、思った通り、そこは空いていた。桜もないし、もともと第二駐車場的な作りになっていたからだ。

 われわれは車のテールゲートを開け、バッテリーが上がらないようにトランク側の室内灯のスイッチを切った。それから、トランクの空間を使って店開きした。
 ガス缶にシングルバーナーを組み立ててねじ込み、ステンレスのバットの上に置いた。ケトルの蓋をとって、1ℓほどの水をペットボトルから注ぎ、点火したバーナーの五徳の上に置いた。
 湯は数分で沸いた。われわれはその湯を「カレーメシ」に注ぎ、5分経つのを待ち、それからフォールディングスプーンでかきまぜて食べた。「カレーメシ」を食べ終わると、残った湯に水を足してまた湯を沸かし、今度は「シーフードヌードル」の準備をした。ダイソーのやや使いにくいフォールディングフォークでヌードルを食べてしまってから、やはり何か飲みたくなった。
  かみさんは粉末のチャイを持ってきていたが、われわれにはカップの用意がなかったので、湯で食べ終わったヌードルの容器を少し洗い、そこにチャイを淹れた。デザート替わりに買ってきた小袋のバームクーヘンを食べた。

 そのあいだ、鳥が近くに現れた。最初の鳥は街路樹の梢の上に留まっていたが、同定はできなかった。次には、少し離れたところで盛んに鳴いている鳥がいた。それも初めて聞く声で、同定はできなかった。最後に現れたのはやや丸みを帯びた鳥で、双眼鏡で観察できるだけの時間の余裕があった。
  モズだった。目の横に黒い筋があり、嘴はやや短く、湾曲していた。
  いつのまにか、陽は少し傾き始めていた。

 ランチを済ませたわれわれは、M古墳へ向かうスロープを上り、丘の頂の上に立った。そこからは、この郊外のほか、遠くに市街地や港を見渡すことができる。私たちはそれぞれ、双眼鏡を持っていた。
 そこで私たちは鳥を見なかった。別のものを見た。
「『ペットセレモニーK』が見えるよ」と私はかみさんに言った。
「え、どこどこ?」と彼女は訊いた。
「あそこのオレンジ色の建物が見える? オレンジ色のが二つあるけど、右側のふつうの家っぽいほう」
「ええと、待ってよ、うん、分かる」
「そこから、家でいうと数軒分右に行くと、細い橋が見えるだろう」
「どこかな。あ、分かった。白い欄干が付いている橋」
「その橋のすぐ下にトレーラーハウスが見えないか」
「うん、紺色とクリーム色の細長い建物だね」
「そこだよ」
 かみさんは黙った。黙る理由があった。われわれはつい4週間ほど前、そこで18年間寝食をともにしてきた愛猫のミミオを送ったのだ。専用の設備で火葬してもらったのだ。
 代表者の女性は驚くほどていねいに火葬を執り行ってくれ、尻尾の先の先や小さな小さな指の骨まで拾って並べてくれた。人間の骨を火葬場で拾うときよりも時間をかけてくれた。それでわれわれはずいぶんと癒された。
「ミミはあそこから天国に行ったのね」とややあってから涙声でかみさんは言った。われわれには子供がおらず、子供と呼べるようなものは子猫のときから飼っている彼だけだったのだ。

 そしてミミオが残したものは、夥しい記憶と、骨と、落としたヒゲだけだった。私が、われわれが、いつか彼のもとを訪れるとき、われわれは彼よりもずっとずっと多くのものを後に残してくることになるだろうが、それだからと言って、われわれの人生に実りが多かったと言うことはできない。
 われわれは丘を下って家までの道を車で辿った。もうそこにはミミオはいない。いないのだが、彼の存在の残照のようなものをわれわれは感じている。ミミオが去ってから、私は初めてわれわれが二人で何かをしたような気分になっていた。
                               (了)

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