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連休巡礼(3)

5月4日、旅の3日目の朝は夢を見た。いや、夢だったのか、意識が覚醒しかかったときの夢幻的なイメージだったかどうかよくわからないのだが、ともかく故人の姿が目の前に現れて、それがとても切なかった。哀しみのエネルギーに包み込まれた感じがした。

車中泊をしている道の駅加子母の第2駐車場で起き出したのは、5時30分頃。トイレに行って、周囲の山々を眺めると、標高の高いところにはすでに日が差している。

標高1500メートルくらいある周囲の山々はすでに朝日を浴びている。5月4日午前5時33分。

車中泊の車内を運転できる状態にまで戻すのは、けっこう時間がかかる。起きてすぐに出発するわけにはいかない。フロントガラス&フロントサイドウインドウなどに装着した目隠し断熱カバーを外して畳むとともに、カーテンを開けねばならないし、その前に着替えや身支度を車内で済ませておかねばならぬ。

そんなこんなで就寝モードから移動モードに転換し、昨日と同様に「ふれあいのやかたかしも」前の「福崎公園」に移動する。ここでテールゲートを開けて朝食を作る。

食べ終わった頃だったか、加子母のIさんが軽トラに乗って現れた。昨日はS君との邂逅に合流してくださるつもりでおられたのだが、都合がつかなかったそうだ。こちらこそ予定を1日早めてしまって申し訳なかったのであった。

明け方に感じた哀しみのエネルギーのことについて少し伝える。葬儀はもちろんのこと、その後に行われた「偲ぶ会」にも出席することができなかった私は、IさんやS君の話を聞かせてもらって、ようやく自分もそういう会に少し参加したような気分になれたのであった。

Iさんは今日は家の周りの作業をしなければならないということで、すでにそのスタイルである。忙しい中にわざわざ時間を作って公園にいる私たちのところまで会いに来てくださったことがありがたい。

聞けば、Iさんはソロキャンプをやられると言う。次回は本栖湖キャンプ場などで集まるのもいいね、という感じで再会を約して別れた。加子母の人のなんとあたたかいことだろう。これで、私が旅に出た最大の目的が達せられた。故人の人的ネットワークで重要な役割を果たされていた人々と会うことができ、故人の最期の日々の様子を伝え聞くことができたのだ。

Iさんと別れてから、われわれは散歩の準備をし、鳥見用の双眼鏡を持って出発した。まず向かったのは、加子母の山守(やまもり)を務めてこられた内木(ないき)家である。ここは観光施設ではないので中に入ることはできないが、外側から立派な門構えなどを見ることができる。

加子母の山守であった内木家。大木のある門構えが素晴らしい。

明治の初期、内木家は加子母の町有林の半分を住民に分け与えて、富の再分配を行った。そして「家運が傾いたら売ってもいいが、戻ったら買い直せ」と告げた。今で言えばベーシックインカムのようなものかもしれない。これによって、加子母はほかの土地とまったく違う近代を生きてきたのだ。

近代の歴史の中で、人々は、豊かになるために自分の才覚を磨くことに血眼になってきた。学力、財力などを人と比べて満足するようになった。競争に勝って豊かになることが正しいことだと暗黙のうちに了解するようになった。誰も口に出しては言わないが、自分の子弟のことだって、他の家の子弟と比べて「うちの息子のほうがいい大学を出ている」「うちの娘の家のほうが生活に余裕がある」と思っているのである。

しかし加子母はそういう近代の見えにくい病にはあまり染まらなかった。奪い合う経済の中ではなく、分かち合う経済の中を生きてきたからである。もちろん分け与えられた森林を管理することは容易ではないだろうが、その根底にあるものは、ほかの土地の近代に折り重なったものとまるで違う。

内木家の門前を訪ねたわれわれ夫婦は、その上のほうにある古刹も訪ね、それから旧街道を明治座のほうに歩き始めた。最初はそのつもりではなかったが、水を張った田植え直前の美しい棚田を見ているうちに旧街道を歩きたくなったのだ。

高原のように開けた谷間に広がる加子母の里。新緑がまぶしい。

旧街道を歩いてゆくと、さすがに人口2700人ほどの加子母では人をあまり見かけないが、あるところでゴールデンリトリーバーとポメラニアンを飼っているお宅を見てはっとなった。昨日、福崎公園のところでご主人が散歩させていたワンコたちである。

「加子母ではなんかワンちゃんたちも違うみたい」とかみさんはのたまった。確かにそういう感じがする。のびのびと育っている感じなのだ。昨日われわれの相手をしてくれたご主人もとても親切な感じの方だった。

偶然の出会いに感激しつつ、また旧街道を進む。すると、消防団の車庫になっているらしい、シャッター付の小屋が行く手に現れる。ここは、故人とN工業大学の学生さんたちと2013年の7月に加子母をポタリングしているときに立ち寄ったところなのだ。

この倉庫の近所の家のおばちゃんが、「お茶でも飲んでいきなさい」とわれわれに声を掛けてくださり、お言葉に甘えたのであった。そのとき故人とおばちゃんを中心に撮った記念写真が今でも残っている。故人は国立大学の名誉教授までになった人でありながら、市井のふつうの人々にも優しく、尊大なところは微塵もなかった。その思い出にしばし浸る。

どうということのない小屋だが、私には思い出があるのだ。
2013年7月に加子母を訪れたときの画像。自転車は私のノートン号。

懐かしい場所を過ぎて、旧街道はほどなく明治座につながる沢筋の道のところに出る。そこから坂道を登ってゆく。

この沢筋はかつては暴れ谷であって、「やんたに」(嫌な谷、の意)と呼ばれていた。それが明治初期のドイツ人技術者による河川改修の成果として、洪水が収まり、そのほとりに明治27年、「明治座」が誕生することになったのであった。そして旅芸人や地元の民衆歌舞伎の舞台として、100年を優に超えて存続することになった。

われわれは明治座奥の神社に参拝してから、明治座を訪ねた。明治座は公演などのとき以外には入場無料で、屋根板の次回の葺き替え費用の軽微な寄付だけが任意で求められる。

迎えてくださった地元の案内ボランティアの方々に来意を告げる。かみさんは初めてだが、私は10年前の2013年7月にN工業大学のF先生と学生さんたちとおじゃましていると言うと、「Fさんは亡くなられたそうですね」とすぐに返事が返って来て、ああ、ここでもやはり彼女の仕事の渦のあとが残っているのだと胸に来る。

明治座の入口。屋根は前回の改修時に、創建当時の板葺きに戻された。

早速、内部をボランティアの方に案内してもらう。花道やすっぽん(舞台下からもののけなどが現れる通路)、寄贈した人々の名が記された幕、幕を下ろす仕掛け、回り舞台とその下にある回転機構、いちばん良い席(ロイヤルボックス)などを見て回る。

二階席のいちばん良い席から眺めた舞台と客席。奥左側に花道が見える。

前回、この明治座を訪れたときには、明治座はまだ改修前で、屋根は瓦葺きだった。現在はそれが耐震改修工事の結果、1894年創建当初の板葺きに戻されている。ずいぶん論議があったようだが、屋根としては瓦のほうが耐久性があるものの、耐震性能の関係で板葺きに戻したそうである。そのかわり、板葺きは比較的短期間でまた葺き換えなければならない。そのために、葺き替えの板1枚を任意で寄付してもらう案内をしている。もちろん、われわれも1枚分の寄付をさせていただいた。

2014年から2017年にかけて行われたこの耐震改修工事では、村の関係者や建築関係の専門家はもちろんのこと、方々の大学の学識経験者もその輪の中に加わって協力しているが、亡くなったFさんもその一人で、特に、改修の様子をドキュメントした記録映像/動画の作成を主導している。だから、加子母明治座の改修に関わった人でFさんを知らない人はいない。このドキュメントには、Fさんのほか、IさんやS君も出演していた。

見学を終えたあと、われわれは明治座の畳に座ってしばらく休ませてもらった。セルフサービスのお茶が販売されていたのでそれを利用させてもらおうとしたところ、案内をしてくださったボランティアの方が、「紙コップで良かったら私のお茶を分けましょう」と言ってくださったので、お言葉に甘えた。加子母の方はなんでも共有されるのだなあとあらためて感に入った。

「Fさんは亡くなられたそうですね」と声をかけてくださったもう一人のボランティアの方が案内の手が空いたようなので、Fさんのことについてまた尋ねてみる。直接には知らないそうだが、S君を通じて(歌舞伎に出演している)いろいろ聞き及んでいるらしかった。

昨日Iさんとも話したことだが、Fさんの生涯を通じた仕事に通底していたのは、近代という時代のもたらしたさまざま悪弊や問題点の意識化と、それを克服する、繊細だが消し去ることのできないエネルギーに光を当てることであった。この加子母での彼女の仕事の刻印もまさにそういうことであったろう。個人の真摯な仕事は、小さな、しかしどこまでもその波紋を広げてゆく渦によって象徴されるのだ。

明治座を辞したわれわれは、今度は旧街道から国道に出る。連休でふだんよりはずっと交通量が多いはずの国道の歩道をゆく。車のある福崎公園まではなかなかの距離がある。途中、ファミリーマートで昼食用のサンドイッチを買った。ついで、加子母の名物、「けいちゃん」の店として知られている「タッチ」の前を通りかかる。けっこう混んでいるようだ。

道の駅で飲料を買い、福崎公園に戻って昼食とする。そのあともしばらく車のところにいたが、どうにも暑い。動いていたほうが楽そうだということで、車を出し、加子母のもう一つの名所である「加子母大杉」に向かう。

「加子母大杉」と近隣の「乳子の池」も、2013年7月の来訪時に自転車で訪れたところだ。懐かしい。当時とほとんど何も変わってはいなかった。舞台峠がすぐそばなので、ここは標高も高い。目の高さに下のほうの山がある。

加子母大杉。高過ぎて見上げなければ気付かないくらいである。

加子母大杉のところを出発するときに、予定を変更することにした。4日も加子母に泊まる予定ではあったのだが、まだ日もあるし、長野県の飯田に移動しようと急遽決めたのだ。

というのも、飯田で会いたかった旧友のT氏は、5、6日と都合が悪く、今回は会えないねとお互いに了解していたのだが、4日なら何とかなるのかもしれないと思ったのだ。

加子母大杉から国道に出たわれわれの車、ピクニック・ゲリラ号は一路飯田を目指す。2日間世話になった道の駅加子母の周辺も過ぎた。とたんに「けいちゃん」で有名な「タッチ」の前に通りかかるが、すでにシャッターが下りている。

たぶん夕方からの営業はないであろう。当初の予定では今日の夕食は「タッチ」で「けいちゃん」にするつもりであったが、これでは致し方ない。おそらくは昼に大量にお客が来たせいであろう。Iさんも昨日そんなことを言っていた。

国道を中津川IC目指して進む。小一時間走ると中津川の市街地に達して、郊外店などが目立ち始める。ガソリンは半分くらいまでになっているが、給油は飯田にしようと決める。

16時半を回った頃に中津川ICに流入する。長野・飯田方面の分岐に入る。中央道はカーブがきついところが多いので要注意だ。80km程度の速度で進む。やがて8kmあまりある長い長い恵那山トンネルに入る。路肩もない狭い規格のトンネルなので緊張する。そこを抜けて、ほっとする。伊那谷に入ったのだ。

飯田ICを出たのは17時20分。取り付け道路から左折して市街地に向かう。電話することも考えたが、結局いきなりT氏宅を訪問してしまった。驚きながらも歓迎してくれた自転車仲間のT氏は、うちの車の図体を見て呆れている。そりゃそうだ、彼の持っている旧い名車は車高1mくらいのミッドシップ車などなんだからね。

会えるかどうかわからないので迷ったが、持ってきて良かったビンテージなフランス製自転車変速機の前後セットを渡して、ミッションは達成された。おじゃまして奥様が淹れてくれたコーヒーをいただく。T氏とは10数年ぶりだ。

1時間あまり、4人で近況などを報告し合う。10数年のあいだに家族を巡る環境なども変化したのだった。そして飯田の街も少し変化したようだ。

T氏宅を辞するときには、辺りはもう薄暮だった。手を振ってくれる二人を横目にわれわれの車は市街地を抜けた。

給油しようかと思ったが、適当なところがない。セルフのスタンドは何軒かあったけれど、空気圧を確認したいのでスタッフのいるところのほうがいいのだ。

夢庵で夕食とする。「けいちゃん」の予定が天丼になったが、こればっかりは致し方ない。そのあと、天竜川を東岸に渡って、近年にできたという、道の駅とよおかマルシェに入る。

キャンピングカーだけでも5台くらいが駐車場に泊っている感じだ。われわれも自分たちのスペースを見つけ、そこで泊まる体勢になった。

深夜11時過ぎにマフラーをいじくったやや騒々しい車が近くに現れて、しばらく話し声が聞こえたが、12時頃に爆音を響かせて去っていった。道の駅はそもそもそういう使い方をされるところなので致し方ない。

加子母から飯田に移動してきただけでなく、加子母でそこそこの距離を歩き、福崎公園の車内で陽光を浴びていたこともあって、少々疲れた。周りが静かになるとすぐに眠りに落ちたのであった。

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