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青森から秋田へのランドナーの旅(6/深浦~二ツ井)

 翌日は曇り、いずれ降り出すことは間違いなさそうな空のもと、国道の南下を始める。
 艫作崎を回るあたりで少し眺めの良い高台を行ったりしたが、たいがいは海岸線のそばの道行きで、単調だ。岩館というところで、国道から逸れて、駅前を通る旧道らしき道に入る。その付近だったと思うが、小さな木造の、きちんとした佇まいの縫製所を見かけて、ちょっと切ないような気分になる。いや、やっているのかどうかすら、わからなかったのだが。

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 途中で立寄った某駅は、ちゃんとした駅本屋があって好ましい雰囲気だったけれども、駅寝おことわりという感じの通告が貼られていた。この辺り、ほかに適当な場所は無さそうだから、二輪系の旅人が一泊させてもらったことが多かったに違いあるまい。ま、地元にはありがたいことではなかろうから、張り紙も無理はない。自分は別にここで寝ようと思っているわけではないけれど、どう見ても、地元に大きな利益をもたらすような旅行者には見えないだろうから、なんだか共犯者のような気分となり、そそくさと駅を離れる。ディーゼルの車両がホームに停まっていた。

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 そこから先はいささか記憶が曖昧なのだけれど、駅でいうと東八森あたりで、海側の細い道にちょっとだけ逸れたことを記憶している。その近辺でいよいよ降りだしてきて、またしてもアイス買い込んだ食料品の軒先や、国道脇空地の小さな屋根下なんぞに待避する。どこで昼飯を食ったのか定かでない。おおかた、コンビニかどこかで握り飯でも買って、むさぼるように道端で腹に入れたのだろう。
 能代の街に入ったのは午後も三時を回った頃。北陸の日本海側の旧い街に通じるような、昔日の繁栄の面影がどこかにある。重々しげな建物をいくつか見た。できればじっくり見てみたい街だったのだが。
 昨夜も深浦の海辺の宿で、枕元にツーリングマップ広げ、さんざ悩んだ。うつ伏せで考えこんだ。能代から先は、海岸線を南下し、八郎潟をかすめて男鹿半島に寄ってみるか、それとも内陸側に進路を取るか。能代ですでに夕刻なら、ここで泊って考えるのだけれど、それにはまだ早い時間だ。例によって、宿泊表をコピーしてきた紙切れを繰り、内陸側の鷹巣の街の旅館に電話して、あたりをつける。丸二日間、海岸ばたを走り続けてきたので、もういいか、という気分にもなっている。
 いっとき雨の上がった能代の街から、川筋に出て鷹巣の方角を目指そうと裏道に入ったが、ぬかるみの袋小路に行き当たって撤退。地元の方には失礼だけれど、ぬかるみ具合が妙に懐かしかった。うちの実家の前の道も、舗装されたのは七〇年代終りで、それまでは、雨が降ったら水たまりだった。タクシーの運転手氏がよく悪態をついたらしい。
 東能代の駅の方に回り、鷹巣方向を目指すが、交通量の多そうな国道七号線は遠慮したく、すぐまた奥羽本線沿いに脇道に入る。途端にのどかな雰囲気だ。鷹揚に広がった水田の向こうを、国鉄標準色の特急が走り抜けてゆく。その光景が、なんだか風呂屋の書割みたいである。
 鶴形という駅の近くで小休止。どうもだいぶ自転車が雨で汚れている。旅にはウエスが必要だな、と思ったものだ。次の富根という駅のあたりは地図が読みにくかったけれど、目論見どおり橋を渡って米代川の北側、右岸に出る。水量の多さにあらためて目を瞠る。北上川もそうだったけれど、東北の名の知れた川は、川本来の水もて滔々と流れている印象がある。普段目にしている静岡の河川が、やたら川幅が広いくせに流れているところは案外幅が狭いのが多いのと、逆だ。濁ってもいないから、昨日からの雨で特別水かさが増しているということもないのだろう。
 また降り出してきた。
 河畔の道は堤防上だ。舗装されているが、普通はよそ者が入り込んでくるような道ではない。いかにも、物好きな旅人の物好きな旅という気がしてきて、この、夏の終りの、天気がくずれた夕刻の物寂しげな眺めが沁みる。右手は米代川、水面と道路の間の河川敷には、草地が延びている。と、その河川敷に、山羊が二頭、立っている。紐か何かでつながれている。
 草を食べさせているのだというのは、あとあと別の場所で同じような光景を見て知った。そのときはなんで山羊がぽつねんと河原の叢のそばにいるのか分からなかったので、一種、非常に不思議な気分にさせられた。三好達治の詩のようでもあったし、フェリーニの映画のワンカットのようでもあった。

 佐々木昭一郎の『四季・ユートピアノ』は、当時、コアな映画通にはかなり話題になった作品であって、評者の一人が「佐々木はフェリーニを超えた」とまで賞賛していたことを思い出す。比べてどうこうでもないだろうと私は思うけれど、確かに『四季・ユートピアノ』には、一種フェリーニばりの詩的な映像があった。
 あれは北海道で撮影されたものか、それとも津軽の七里ガ浜あたりで撮られたものかよくわからないのだが、海鳥の舞う海岸に古い蓄音機が置かれているショットや、やはり遠浅らしき砂浜の波打際を、馬が荷車を引いてくるシーンがあった。
 一種劇的で、あり得ないだろうと思われる情景が、逆にそれゆえに内的なリアリティを持って迫ってくる感じだった。嘘だ、と分かっていても、それが過剰な演出というようには決して見えない。どこか、脱力しているというか、作りこみとはっきり見える作りこみを拒否しているようなところがある。
 そのあたりが、この作品を今見ても驚くことのできる理由のひとつなのだろう。一九七〇年代の日本の地方世界や、都市の片隅を描きながら、あの時代の特質であった、過剰な力みというものが少ない。それだけ、もしかしたら、この作品は、人も辺土も時代もつき放しているのかもしれない。津軽に住んでいた家族も、どこか地方のピアノ工房の青年たちも、東京や横浜の片隅に生きる音楽家たちも、遠い視線の先に描かれる。そこに生きてはいるが、すでに消え去った人間のように描かれる。


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