冬晴れの日(掌編小説)
私たちが枯葉を踏む音が、丘に残る木立ちに響いた。空は薄められた青で、見上げた梢の上ではいくぶんか色が濃かった。
遠くを電車が行き過ぎる音が聞こえたが、丘の背後にある住宅地に遮られて電車も線路も見えなかった。
丘の頂はテニスコートくらいの広さがあり、北東の方角だけいくらか視界が開けていた。
そこまで枯葉の上を歩いてゆくと、ベンチがひとつ、クヌギの樹の傍らに置かれていた。
昔、駄菓子屋の店先に置かれていたような、もともとは飲料会社のロゴが入っていたに違いない安い作りのベンチだった。
誰かが始末に困って持ち込んだのか、ここで風景を眺めたくてそうしたのか、よくわからないが、確かに何年も前からそこにあり、パイプにも木製の座面にもペンキが塗り直されたような跡があった。
「ここで店開きしよう」と私は連れ合いに言った。
「人が来ないかしら」と彼女は言った。
「来ても、変わり者が珈琲の野点でもやってると思うだけさ」
「そうね。でも煙が出たりしない? 通報されたりするかも」
「出てもすぐに終わる。大丈夫さ」私はベンチに積もった枯葉や小枝を手で払い、連れ合いといっしょにそこに座った。それから、肩にぶら下げてきたバスケットの蓋をあけて、そこからホワイトガソリンの野外調理用ストーブを取り出した。
ストーブを置くために、地面の枯葉も足でよけた。黒っぽい土が出てきた。そこに私はストーブを据えた。
タンクに空気を送り込んで点火の準備をしているあいだに、連れ合いが遠くのほうを見て言った。
「いつもと違う飛行機が飛んでるみたい」
耳を澄ますと、確かにあまり聴いたことのない音だった。
ポンピングが終わったところで私は梢のあいだからその方角を見た。
「厚木に降りるプロペラの輸送機だろう」
「なんだか哀しげな音ね」
プロペラ機の音は私が点火したガソリンストーブの燃焼音にすぐにかき消された。
追加の空気を送り込むと、燃焼は安定し、赤く延びていた炎は、短い青色のそれに変わった。
「じゃ、やるか」
私はポケットに入れておいた封筒を取り出し、それを火にかざした。
薄い事務用封筒にはすぐに火が回り、やがてそれは封筒の中にあったもう少し厚い紙にも移った。
ガソリンストーブのゴトクの上に、燃える紙は落ちて、やがて赤い炎がすべてを嘗め尽くすと、銀がかった灰色の薄片になり、そこにいくつかの印刷インクの文字が残った。
私が息を吹きかけると、それも粉々になった。
どういう印刷が封筒の中の紙になされていたか、私たちは知っていた。
それはもう10年以上前の未使用の航空券だった。
ANAの札幌行きだった。格安航空会社など誰も知らなかった頃のチケットだった。
持ち主はそれを紛失したのだ。おそらくはかなり探したのだろうと思う。
私だったら、必死にそうしたに違いない。
なぜそんなものを私が持っているかと言うと、私たちが借りている賃貸マンションの床から、あるときそれが突然出てきたからだ。
掃除機をかけていて、部屋の段差のところ、フローリングと敷居の木材の隙間から、それが吸い出されてきたのだった。
チケットには女性の名前が書いてあった。
私はその名前をネットで検索したが、この地域とか、札幌とか、いくつか条件を加えてもそれらしい人物に出会うことはなかった。
その人の年齢はもちろん、職業も、出身地も、どういう顔をしていたのかも、まったくわからなかった。
確かなのは、その人が、1998年の秋に羽田発札幌行きの航空機に乗ろうと
していたことだけなのであった。
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その人は、おそらく今も元気にしている可能性が高いだろう。
失われた航空券のことも滅多に思い出すことはなかろう。
それでも、そのチケットは今まで残っていたのだった。
本人の手を離れたところで、本人の知らない誰かに何かを考えさせたことは確かだった。
そういうこと自体が何かに似ている、と私は思った。
しかし何に似ているのか、言い当てることができなかった。
それでもそこには明らかに何かのエネルギーが残存しており、それを放出させるには、私たちはそれを焼くほかなかった。
用の済んだ買い物メモのように、ゴミ箱に放り込む気になれなかったし、少し離れたところにある川に捨てる気にもなれなかった。
なぜかはわからないが、焼いて灰にするしかなかったのだ。
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航空券が今度こそ本当に失われてしまったことがわかると、なぜか私はそこで自分でも意識せずに深呼吸していた。
「これで」連れ合いは言った、「お終いね」
「うん」と私は答えた。そして言葉を継いだ。
「珈琲でも沸かそう」
私たちはベンチに腰かけたまま、水筒の水を小さなパーコレーターに入れて火にかけ、湯が沸くのを待った。
もう一度、プロペラ機の音が聞こえてきた。
冬枯れの丘の木立の中に不意に風が流れ込み、枯葉が何枚か私たちの足もとで舞った。
(了)
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