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マルセル・デュシャンという生き方

 来年の話をすると鬼が笑うと言いますが、去年の話なら、どうなんでしょうね。検索するといろいろ引っかかるのかもしれませんが。
去年でしたが、マルセル・デュシャンの展覧会が上野の東博で行われていました。
 マルセル・デュシャンというと『泉』という作品が有名です。そう、あの便器のです。あるいはチェスと結びつける人もいるかもしれませんし、作曲家のジョン・ケージを思い出す人もいるかもしれません。
『デュシャンは語る』という本を随分前に買って読んでいましたが、『泉』以外の作品を実際に目にするのは、その展覧会が初めてでした。
東博というと、それほど西洋美術の展示を行わないイメージが僕にはあるのですが、そのときの展覧会は日本美術と結びつけたものでした。

 その結びつけがどうだったかはさて置き、展覧会の内容は僕としてはとても良かったと思っています。彼の若いときの作品から、やがてどんなことに興味を持つに至ったのか、その流れが良く分かるものになっていたと思います。そして、これは僕として良かったというものでしたが、それほど混んでいなかったということ。会期の最初の方に行ったのですが、物凄く混雑しているのだと思って覚悟して行ったら、『階段を降りる裸体 第二番』などを、近い距離でゆっくりと見られましたから、少し驚きでした。隣の運慶の展示の方が混んでいたんじゃないでしょうか。東博ではないですが、若冲やモネのときは凄い人だかりだったので、同じように混むのだと思っていた自分の感覚が少し違っていたのかもしれないな、と思いました。とにかく、自分としてはラッキーでした。

 反芸術というよりは無芸術、思考を楽しむアート。マルセル・デュシャンという人の生き方に、なんというか、格好良さを見い出したいと考える自分がいる、ということを再確認しました。
 なぜかいつも気になるアーティスト、それが僕にとってのデュシャンでした。なぜ興味を魅かれるのかと問われれば、彼の足跡や言葉にいつも刺激を受け、それが自分の創作に繋がるからと答えます。彼の生き方や考え方に触れると、気のせいかもしれませんが、頭が柔らかくなったように感じられ、何よりもポジティヴになれます(自分は、ということですが)。
創作に繋がる、という表現をしましたが、彼は、前述の『デュシャンは語る』の中で、インタビューにこう答えています。「(中略)しかし私には《創造》という言葉は恐ろしい。普通の社会的な意味では、創造というものはたいへんやさしいものですが、実を言えば、私は芸術家の創造的機能などというものは信じません。ほかの人たちと同じような人間、それだけのことです。あるものをつくること、それが彼の仕事です。でも、ビジネスマンだって何かあるものをつくっています、そうでしょう。反対に《芸術》という言葉には、とても興味を惹かれます。もし私が聞いた通り、それがサンスクリットから来たものなら、この言葉は《つくる》という意味です。ところで誰でも何かをつくっています。そしてカンヴァスに向かって、額付きの何かをつくっている人が、芸術家(アルテイスト)と呼ばれるのです。かつては、彼らは私のもっと好きな言葉で呼ばれていました-職人(アルテイザン)です。(以下省略)」
彼の人生が一つの作品になっているように思います。コンセプチュアル・アートは広まりましたが、彼はやっぱり唯一無二の存在に思えます。人生は終わってみないとどんなものだったかわからない。そこで完成される人生、作品。ピアニストのヴァレリー・アファナシエフがそんなことを言っていたのを思い出しました。
これは、彼の作品が収蔵してあるフィラデルフィア美術館に行かねば、と思っている今日この頃です。

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