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シェディングのことをつらつらと書きながらの神様の導き



最近めっきりシェディングが酷くなってきたと思う。
ワクチン非接種者と言えども、電車やバスに乗ってやってくる人からは確実にシェディングを受ける。
今まで平気であったはずの人だからと油断していたら、もろに受けてしまったわけである。

イベルメクチンを飲み、バファリンを飲み、それでもおさまらない頭痛と背中の痛みで眠れず、追い打ちをかけるようにイヴを服用してようやく痛みは麻痺し眠ることが出来た。
だが朝起きてみればまだ頭痛と背中の痛みが残っており、「あぁ、鎮痛効果が切れたか・・・」とげんなりした。
そして気が付くと太ももとおしりの際に「帯状疱疹」が・・・・

「しまった、便座を変えるのを忘れていた。」
と後悔をする。


かえってうちに来る「接種者」のほうが気を使ってくれていたり、一応の用心をするため影響が少なかったりする。
なまじ「感じない」から自分は大丈夫と思ってしまうのだろう。
「感じない」ということは、自分の中で「シェディング」は存在しないことと同じである。
だから「無いもの」として振舞う。
こちらも同じように振舞う。

だがそれもこの先は考えを改めなければならないだろう。


すでに「レプリコン」の治験は実施されており、既存のワクチンよりもさらに「疑似ウィルス化」しており、既存のもののように時間の経過とともに「減退する」ことが無い。
「疑似ウィルス」であればもはや「シェディング」ではなく「感染」と思った方が事実に近いだろう。

そういえば、最近やたらと「咽喉が・・・」「鼻が・・・」と言う人が周りにも増えてきた。
身近に「疑似ウィルス」の発生源があるとしたら・・・・と考えてしまう。

ウィルス学者さんが「疑似ウィルス」と呼ぶほどだから、やはりウィルスのように「増殖」するのか?
とも思ってしまう。


さて・・・・
いつまで施術という仕事を続けられるだろうか・・・・
やり方を考えなければならないだろう。
もし私自身が「感知できない」ようになれば、シェディングの震源地になりかねない。
だから感知できるのはいいが、それはそれで地獄である。

これから夏に向かうので、さらに影響は強くなるはずである。
その前に「痛い思い」をしておいてよかったとも思う。


今後ますます「感覚」が失われていく人が増えていくだろうと思う。
ますます感覚が研ぎ澄まされる人と、ますます感覚が鈍っていく人との乖離は大きくなる一方である。


シェディングという言葉の認知だけでも少数であるが、実際にシェディングというものがいかなるものかという「事実」を認識している人は本当に少ないと思う。
伊勢神宮に祀られている神様が「天照大御神」であるということを知っている日本人はおよそ5%という。
たったそれだけである。
では、メディアやSNSから排除されている「シェディング」という言葉を知っている人など数パーセントに満たないだろう。
そこからさらに「在る」と知っている人はもっと少なく、さらに「実感」として知っている人はもっと少ない。

実際、実感が無ければ「無いもの」としてやり過ごしてしまう。
その実感の「度合い」も様々であり、度合いによっては受けていてもわかる人、わからない人がいるわけで、わからない時が多くなればそれだけ知らぬ間に影響を受けてしまい、さらに感覚が鈍くなってしまうという・・・なんとも恐ろしいスパイラルとなる。

今まで感じていたものを、やがて感じられなくなるという負のスパイラルが起こる。


本当に厄介である。
シェディングの影響など感じたくはないが、感じなければ感じないまま侵されてしまうから感じている方がいいわけで、だから避けるようになるからさらに感じるようになる。

電車というものに乗らなくなって3年以上になる。
いや、去年一度乗ったか・・・・
その時の車内のどす黒さと言ったら・・・思い出しただけでもぞっとする。
身体の影響だけではなく、肌感覚だけでなく、嗅覚だけでもなく、視覚にまで現れている。

以来、何処へ行くにも自転車(ロードバイク)である。
そんな自転車を走らせて住宅街を通り過ぎると、「柔軟剤」の匂いがプンプンとする。
周囲をうかがうと洗濯物が干されているのが目に入る。
その洗濯ものの匂いが明らかに「強烈」になっている。
この強烈な柔軟剤の香りの中で、よく平気で過ごせるなと思ってしまう。
ご飯もおいしくなくなるだろう。
だがきっと麻痺してきているんだなと・・・可哀そうになってくる。

嗅覚も味覚も鈍ってしまえば「右脳」の働きはさらに鈍るばかりである。
さらに左脳に傾倒し、左脳でしか認知できなくなってくる未来が見える。
そこにAIに依存すれば猶更「右脳」は死滅してゆくだろう。
創造性は失われ、脳は「処理」するだけの代物と化してゆき、極端ではあるが、それはまるでコンピューターと同等の存在となる。


明敏な感覚の持ち主と、感覚の鈍った人が創造するものは明らかに違う。
それは想像し得るものの幅が全く違うということ。
鈍った感覚でいくら多くのものを創造したとしても、それらは単に合理的で効率的で簡素な代物となる。
例えるなら「縄文土器」と「弥生土器」の違いのようなもの。

AIに未来の希望を、夢を見る人々は、恐らく感覚という人間に備わっている大切なものを失いつつあるのではないかと思う。
便利さというものを単純に「善いこと」と思ってしまっているのだろうが、その行き着く先は「身体の放棄」というものではないかと思う。
単に「記憶」こそが人格であり個性であるなどと思っている人もいるくらいである。
記憶を移植さえすれば永久に生きている・・・・などという妄想である。


話がかなり脱線してしまった。

ただ単につらつらとシェディングの憂鬱を書いていただけだったことを思い出した。


恐らく「シェディング」というものに関して身近な人に語っている人などは、ごく稀な存在であろう。
実感があり、真に「困っている」人くらいだろうと思う。
そこまで切実でなければわざわざ語らないだろう。


私がよく「九割八分と二分」という分け方をしているのはこういうことである。
2%
それが「感覚」を研ぎ澄ませていっている人の数。
伊勢神宮の御祭神「天照大御神」の認知度より圧倒的に低い。
だから、まるでそんなものは「無いもの」として今後も世界は回ってゆく。

ちなみに・・・
「天照大御神」が伊勢神宮の御祭神と知ってはいても、それが如何なる神様であるか・・・となるともっと少ないわけで・・・
さらに、「神」という存在が如何なるものかということを認知している人は、さらにさらに少ないわけで・・・・
その差は何かというと
『感度の差』
なのである。

シェディングが「在る」とする人の中でも差異があるように、神を「在る」とする人の中でもやはり差異が生じる。
「信じている」という言葉の中にも大いに『感度の差』があり、嫌と言うほど知っている人と、なんとなくわかっている・・・という人では大きな差がある。

同じ「信じている」「知っている」という言葉であっても、その言葉の範囲の「両極」では雲泥の差が生じるわけである。
そんな「範囲」や「両極」があることさえ知らないだろう。


右脳が死ねば「神」はその人から消えてなくなる。
シェディングが「無い」のと同じように、神も「無い」ものとなる。
そういう人の「信じている」は「信じたい」ということに近いものであり、だから追いかけているのだが、追いかけているつもりで遠ざかってゆくばかりである。

シェディングを「信じる」から「知っている」となるように、神も同じなのである。
シェディングを感じなければ、在ると信じていても「避けられない」のと同じように、神の導きも「在る」と信じていても「掴めない」のである。



まだ背中と頭に若干痛みが残る中、つらつらと書いているのは、こんな終着点へと結ぶための導きという事。
神とはなかなか容赦がないものだとこんな時に思う。

それを「知っている」者と「信じたい」者では雲泥の差なのである。
いくら知識を付けようと、「知らなければ」知れないのである。

「知る」とは「実感」すること。

だから実感するためには「感覚」がいかに重要であるかということである。

神を知識で知っている者と、神を実感として知っている者では、その「知っている」の差は言葉の幅の「両極」ほど離れている。
神は論理ではじき出すものではない。
実感するものなのである。

それが出来れば伊勢神宮におわす神様がどのような神様であるかがわかるだろう。
多くの科学者や医師や政府までもが「シェディングなど無い」と言っていることと同様に、「祭神」として奉られ、語られ、「そうである」とされているものと事実の「差異」というものがわかるであろう。

そのためには「左脳の檻」から抜け出さなければならない。




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