見出し画像

『日本人の霊性の根源』 ⦿と〇-日本人と外国人-感覚と型-神と学




アロマをやっているとわかるのだが、日本人と外国人(特に西洋人)との「香り」の認識差というものが手に取るようにわかる。
香りに対する「嗅覚」の歴然とした差があることがわかる。

アロマのブレンドで日本人に対してブレンドを作るのだが、普段から身にまとっていても「気にならない香り」に仕上げる。
食事中にアロマの香りが料理の香りを台無しにしてしまえば、それは普段使いの香りとして「失格」である。
せっかくの料理も台無しになってしまうだろう。

だから「忘れ得る」ことのできる香りに仕上げる。
だが「香料の成分」は生きているわけであり、だから「忘れて」いながらも「効果」は現れる。
そして何より「思い出そうと意識を向ければ香りはすぐに見つけられる」のである。

そんな香りのブレンドを西洋人に嗅がせると
「何も匂いがしない」
となるのである。


そんなブレンドに新たに一つの精油を足して香りのイメージを変えても
「???」
わからないのである。

だが日本人はわかる。


この圧倒的な「感覚差」というものが『日本人』である証とも言えるものである。

それは「香り」に限らず『五感』すべてに共通する「差異」なのである。

例えば、施術に於いても同様で、日本人なら当たり前のように感じ得る「感覚」を伝えても、外国人には伝わらない。
アロマの香りと同じく「???」となるばかりである。


だから彼らは『型』という明確な「基準点」が必要となる。
だから「感覚」よりも「型」に沿わせることを求める。
そして「型」から「外れない」ようにすることを繰り返して「型」を我が物として定着させてゆく・・・という順序が必要なのである。

だが、日本人の場合は『感覚』を伝えられる。
そして「感覚」を「掴む」という作業を優先させることが出来るわけである。
そして、掴んだ『感覚』から『型』へと広がってゆき、『型』の意味を知ることが出来る。

これが外国人ではできない。
『型』から入り、それを繰り返すことで何がしかの「漠然とした感覚」を掴んでゆくこととなる。
日本人のように『感覚』を掴ませることを先に教えれば、一生迷子のままとなってしまうのである。


日本人が世界の中で「特異性」を持っているのはこういうことである。
だがこの日本人独特の「特異性」であるものを、自ら手放していっているのが昨今である。


科学というものは「外国人」の認識の順序に沿って決定づけられている。
科学だけではなく様々な知恵や知識は「輸入」したものが大半を占めているのが現代の日本であり、わざわざ外国人の認識の『順序』に沿って学ぶことを行っているわけである。

外国人が様々な「科学論文」などを出すのは、様々な「型」を出しているのであり、その「型」を『狭めてゆく』ことで『真ん中』に到達しようとする外国人特有の「順序」なのである。
だから様々な「説」が出るのは「真ん中」に到達するための「道」なのである。

だから彼らは様々な「意見」という「型」を聞き、「真ん中」に辿り着くと言う道順を普段の日常から行っているのである。
それは、「真ん中」にある「感覚」で掴む「軸」を知る彼らの唯一の道なのである。


だが日本人はそうではない。
先に「真ん中はここ」というふうにわかってしまう。
感覚的に「ここだろう」ということが先にわかってしまうのである。
だからその知り得た「真ん中」の「外殻」を埋めていく・・・という順序になる。

簡単に言うと『真ん中』というものを日本人は先に「知る」ことが「感覚的に」出来るが、外国人には出来ないのである。
あくまで「型」を辿って「真ん中」という「型」に『辿り着く』という順序なのである。


この明確な【差】がわかっていないと多くの事を日本人は外国人を間違い、外国人も日本人を間違うのである。


日本が【神国】とされるのも、【神の民】とされるのも、その『絶対的な差異』があるからである。
この「特異性」こそが日本人が日本人である所以でるところの『霊性』なのである。

だが現代の多くの日本人はそれらを忘れようとしている。
「教育」の名のもとに自らの「特異性」「優位性」を捨て去りつつある。


輸入物の「知識」を『型』として、輸入物の「順序」を『型』として、輸入物の人間へと自らを捻じ曲げて『型』にはめ込んで、それを『尊し』とするものへと変貌しているわけである。

本当は「感覚的」に真ん中がわかっていながら、『型』を重んじて『型』の真ん中を「正しい」として、感覚的に掴んだ真ん中と、型の真ん中に差があれば『型の真ん中』が「正しい」もので、感覚的に『掴んだ真ん中』は「誤り」であるとするほどに、日本人は自ら日本人であることをやめたのである。


この数年で「感覚」で掴んだものを『大事』とする者と、「型」こそ『大事』とする者との二線に大きく分かれて行った。
そしてその差は明確に行動に現れ、結果となって現れた。



⦿と〇
日本人本来の「⦿」であるものが「〇」へと変わっていった多くの現代日本人。
「・(真ん中)」がわかっていながら「・(真ん中)」を捨てて「〇(側だけ)」整えた日本人はもはや「神国人」ではないわけである。

日本人の「特異性」は何処から来ているのか?
それを忘れてしまったのである。


日本人の真ん中には常に【神】が鎮座していた。
当たり前のようにそれを「掴める」のが日本人である。
だがそれを忘れてしまった。

外国の宗教は「真ん中」を『推定』するための『型』である。
それは【神】そのものを「掴む」ことが出来ないからこその『型』なのである。

だが日本人は「祭り」である。
常に神と纏ろい、ゆえに祀り、奉る。
それは常に「・(神)」を真ん中に「通る(つる)」ことであり、『⦿(まつり)』の在り方そのものである。
それは「・(真ん中)」を「知る」ことが出来るゆえであり、それが自然と当たり前のように「出来てしまう」のが日本人なのである。

そしてその恩恵は「五感」を通して下されるものであり、「五感」の優位性そのものが『神民』である証なのである。
その「五感の優位性」そのものである【天照大御神】という【日の神】は、左目を司る「右脳」という【鏡】に映るのであり、だからこそ日本人の「特異性」が「担保」されているわけである。

だが、外国には【天照大御神】は映らず、ゆえに右目を司る「左脳」の【鏡】であるものを【月読命】が「日の光」を映すため、外国に「教え」を残したのである。
だがその「教え」は失われてしまった。


【言葉は神である】

そこに【天照大御神】の光は無い。
ただただ月夜の【月夜見命】の世界となる。
月に映った日の光を見るという「月を読む」教えは失われ、【月明かり】と【星の瞬き】を頼りに進む【月夜見】の世界となった。

【言葉は神である】
それは【〇(ことば)は神である】ということ。
言葉は言霊の「影」であり「型」であるもの。
そこに「・(日の光)」は無く、「〇(月明かり)」を神とする教え。
月が日の光を映しているわけではなく、月の明かりが「始め」であるという教え。
それは【月読命】の教えではなく【月夜見命】の教えとなる。

更に月明かりは陰り、やがて【月弓】の教えへと変わりゆく。
もはや微かな日の光を映すだけの【弦月】のごときほの暗さ。
それが日本を上書きしていった。


そして現代。
【月蝕み】の如く光は失わてている。

日本人が日本人であることを「月蝕み」の如く打消し、自ら「・(真ん中)」を捨てて「〇(型)」だけのものとなり進んでゆく。

神を知っている者が「知らないこと」にして「型」から「神」を探るような真似ばかりしているのである。
愚かにも程があるだろう。
自ら「神」を捨てた者は、「〇(型)」の中に好き勝手に「・(神)」を出そうとする。
それは「神」を掴めず「神」を掴むために「〇(型)」から探ろうとしている外国人などよりも「劣る行為」なのである。


日本人であることを自ら捨てて、「・(神)」を捨てた者たちは、新たに想像した「〇(型)」に新たな「・(神)」を迎えようとしている。
それは「神ならぬ神」
人が作った矮小な「神」である。

「〇(学)」という「型」に好き好きに当てはめられる「・(神)」
五感の先にある「日の光」である【天照大御神】を排し、「日の光」の届かない【〇(月世界)】で、【・(神)】無き世界を謳歌するため・・・
【・(真ん中)】は常に『空』という世界である。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?